シロツメクサの約束
「一周回って元に戻ってるけど」
「あっ。……じゃなくて!」
「……嫌なの?」
急に大坂千寿がしおらしくなった。しょんぼりして、ゴムをつまんだおのれの指に目を落とす。
「……彰吾が抱かれたいって言うのを、あたしなりに考えてみたけど……間違ってたのかな……」
「あ……えっ……と……」
どうしよう、彼女は俺の発言を受けて、考えて自分なりの答えを出したのだ。それが、この行動だったということだ。
彼女が俺のためにがんばって考えた結果を、俺は我が身かわいさににべもなく押し潰してしまうのか。女の子がこんなことを決めるのに、どれだけの勇気を要すると思っているんだ。彼女の決断の重さに比べたら俺の尻の貞操くらい安いものではないのか。
「……間違って、ない……」
「……」
「ごめん、俺のために考えてくれたのに何も考えずに否定して」
澄んだ瞳が俺を見上げる。その目に、俺が映っているのだ。
淡い桃色の唇が開いた。
「彰吾」
ひどく甘ったるく紡がれる俺の名前、いろいろな人に呼ばれ慣れたそれがまるで特別なものの響きに感じる。
「おいで」
ゆらりと一歩足を踏み出す。お茶の入ったグラスをベッドの枕元に置いて、大坂千寿のとなりに座る。片膝を立ててそこに頬をうずめて俺を斜めに見つめながら、彼女は淡く微笑する。
「だいじょうぶ、痛くしないから」
「……うん」
なんだこの姉ちゃんの部屋の本棚に置いてあるちょっとエロい少女漫画に出てきそうなゴリゴリのイケメンは。
手が伸びてきて、頬に触れる。お互い、吸い寄せられるように唇を合わせて、キスなんか初めてじゃないのに、彼女とするキスも初めてじゃないのに、妙にどきどきした。
それなりに女の子と適当に遊んできて、チャラいとか言われたりして、だからけっこう自信はあったのに、大坂千寿を前にしてその自信がもろくも崩れ去ろうとしている。
挿し込まれた舌に対抗しようとして舌を入れると、すかさず絡め取られて好き勝手にもてあそばれる。舌の付け根がしびれるくらいに吸われて、そうかと思うと甘やかすように頬の粘膜を擦られる。
「……、……っ」
なんでこんなにうまいんだろう。
中原くんの顔が頭に浮かんで、俺が知る中で大坂千寿とそういう関係にあったのは彼だけで、どう考えたって「そういうこと」なわけで。ぐしゃり、と心のやわらかい部分が無遠慮に踏み潰されたような気持ちになって、でもすぐにその優しくてやらしい舌先に全部どうでもよくなってしまって。
熱いため息が唇にかかって、くらくらしてくる。やわらかい感触と濡れた甘さに夢中になっているうちに、いつの間にか俺はだんだんとベッドに押し倒されていることに気がついた。
「……」
「こわい?」
俺を見下ろしながら、きりりと整った眉を少し寄せて気づかわしげに問いかける大坂千寿。おまえはどこの少女漫画から出てきた最高のカレシなの?
たぶんみっともないくらいとろんとした表情をして呼吸を乱し口元を唾液で汚しているのだろう俺に、彼女は甘ったるくほほえんで言い放つ。
「かわいいよ、彰吾」
うわ、すげえ、男の俺ですら女の子とする前にそんなこと言わないのに。
あまりの居心地の悪さに、最後のあがきでふいと顔をそむける。
「っひ」
さらけ出された俺の首、刈り上げたうなじのあたりに濡れた唇が吸いつき、情けなくも悲鳴を上げる。羞恥で口元を手で押さえると、その手首を握られてやんわりと外される。
「だいじょうぶ、こわくないから」
ほんとかなあ、ほんとかなあ。痛いとか痛くないとかそういう問題じゃなく、俺は踏み入ってはいけないところに足を突っ込みかけていないかなあ。だいじょうぶかなあ、だいじょうぶかなあ。
痛いのなんて、その時だけなのだからじっと縮こまって我慢していればどうにでもなる。でも、扉を開けてしまったらそこからはもう引き返せない。それが俺はこわいのだ。
「……どうしよう」
「え?」
「大坂さん、こわくないの」
「……?」
「変わるの、こわくないの」
きっとこれによって変わってしまうのは俺だけじゃない。
そう言うつもりで見上げると、瞠目して目をしばたいた彼女は、数瞬の間をもって、首を横に振った。
「いくら変わってしまっても、彰吾はずっとあたしの特別だから、全然平気」
「……」
泣き出しそうに顔をくちゃりとさせて、大坂千寿は俺の刈り上げの部分をざりざりと撫でた。細い、しなやかな指。チューリップを折った、あの小さなもみじみたいにかわいい手の持ち主はもういない。
だけど、あの子はたしかにあの時俺のシロツメクサを受け取って、そっと俺のことを心臓の片隅に置いてくれていた。
だから俺は今こうして彼女に触れることができているんだと信じたい。
「彰吾、あんたはあたしのとくべつ」
◆完◆
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