お豆腐メンタル

 むいー、とスマホのバイブがマットレスを震わせる。むいー、むいー、むいー。


「うるせえ……」


 布団の中から手を伸ばしてそれを掴み、目元だけ外気にさらして画面を見る。


「ああああ」


 慌てて画面を横にスワイプして、耳に当てる。


「おはよう!」

『もう十二時過ぎてるけど。おそよう』


 電話口でおかしそうに、あからさまに寝起きな俺の声を笑って、大坂千寿は軽く咳払いする。数日前に、喉の風邪を引いたらしく、治ったもののなんとなく喉に違和感があるそうだ。

 そのまま、彼女は入学式についての話を始める。一緒に行くか、とか、サークルは何に入る予定とかあるの、とか、履修登録についてのこと、とか。

 入学式を明後日に控え、俺はちょっとどきどきしている。

 新しい環境に飛び込むこと、そしてそれがひとりぼっちでないこと。


『明後日は寝坊しないでね』

「だいじょうぶ、アラームかけるから」

『そう?』

「今なにしてるの?」

『学校』


 はてな、と思い聞き返す。学校?


『後輩に頼まれて、部活を見学してるの』

「ふうん……」


 そこで不意に軽いノイズが響いて、次に電話口に出たのは野太い男の声だった。


『よう』

「な」


 中原くん。


「なにして……」

『何って、元キャプテンとして部活の見学だよ』

「んあー! 俺おまえ嫌い!」

『なんでちょっと片言なの』


 俺のいないところで元恋人たちが何やら楽しそうなことをしている。悔しい。

 いくら、彼女が俺といることを望んでも、やっぱり彼女は俺のことをどこかで嫌いなままで、そしてやっぱり中原くんに対しては、俺とは少しかたちの違う感情を抱いているに違いないことはたしかで。

 俺と中原くんは違う人間だから、大坂千寿がそれぞれに違う感情を向けることはしかたない。俺だって、大坂千寿に、トシに、中原くんに、のんちゃんに、そのほかいろんな人たちに、向ける感情はそれぞれ違う。

 でもやっぱり、嫌いだろうがなんだろうが俺を恋人に昇格させてくれたからには、そういう軽率な行動は慎んでもらえないものだろうか。


『だってさ、ちとせ』

「……」

『別に示し合わせて一緒に行ったんじゃないのに。ここに来たらたまたまサチがいただけなんだけど』

「……」


 そんなことは、たぶん分かっている。それでも納得がいかないし、そんなふうに親しげにしないでほしい、せめて俺の前では。


「んんん……でもさあ……」

『そうだ、そんなことで電話したんじゃないんだよね』

「そんっ……」


 そんなこと、そんなことではないなんて、きっと彼女は分かってくれない。これは大きく、けっこう由々しき問題なのだと、きっと彼女は分かってくれない。

 これを言うとすごく性差別とかぎゃんぎゃん喚かれそうだけどあえて言うね。こういう、恋人への過剰な(過剰だって自分で分かってるところはある)嫉妬って、女の子がしがちなものではないんですかね?

 俺の恋人があっさりしすぎていて俺はそのうちいわゆるメンヘラになりそうだ……。


『このあと帰ったら、彰吾の家寄るから、家にいてね』

「えっ!」

『え? 用事ある?』

「ない! あっても潰す!」

『……そこまでしなくてもいいけど』


 じゃああとでね、と言って電話が切られる。寝起きのままベッドに正座して通話していた俺は、はっと部屋を見渡した。

 汚くは、ない。でもなんとなく、洗濯物がそのままクロゼットに押し込まれもせず置いてあったり、鞄とかコートが使ったまま床に落ちていたりする。片付けて、顔を洗って、着替えて……それから。


「腹減った……」


 腹が減っては戦はできないよね。

 と思ってリビングに行くと、平日の昼間なのに父親と姉はともかく、母親もいない。テーブルの上を見ると、俺の朝飯と思しきラップがかけられた玉子焼きとスープのとなりに、メモが置いてある。


「……お父さんは仕事、お姉ちゃんはバイト、お母さんは日帰りバスツアーでみんな夜までいないので、ご飯は適当に済ませてください……。……マジで」


 いや、父親は妥当、姉もまあ妥当、母親のこの日帰りバスツアーって何? あの黄色いバスのやつ? パートじゃないの?

 冷凍庫から食パンを出してレンチンし、トースターで焼きながらスープを流し込み玉子焼きを食べる。パンをかじりつつ、俺はふと重大な事実に気がついた。

 このあと大坂千寿が家に来る。


「いや、いやいやいや!」


 それはまずいだろう、という結論に達する。だって、付き合いたてのカップルが誰もいない部屋にふたりきりって、やることはひとつじゃないか。そんなこと、俺と彼女にはまだ早いと思う。

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