ある意味サヨナラ負け

 俺がずっと大好きだった聖人君子はもういない。目の前にいるのはただ、かっこよくて潔くて、嫌いな人間にも優しくしたいと願ってがんばっている、ひとりの人間だ。

 人に好かれたいから優しくする。彼女はそう言ったけど。きっとそれだけの理由ではあそこまでがんばれない。


「大坂さんが、俺を見てるとイライラするのは知ってるから、好きになってほしいとかそんなことは言わない」


 きちんと目を合わせて、ちゃんと逸らさないで、それで言いたい。


「大坂さんが、俺は大好きだから」


 言葉にすると思わず笑みが零れる。俺自身は全然そんなことはないのに、彼女を好きだって思う俺の気持ちは、なんだか痛いくらいに尊いなって思った。


「あたしはあんたが嫌い」


 言いたいことを全部言って、しばらく黙っていると、大坂千寿は俺の目を見たままつぶやいた。


「あんたを見てるとみじめになって、なんであたしはこうじゃないんだろう、なんで嫌いな人に優しくできないんだろう、やだなあ、って思ってた」


 俺を見ているのに、その瞳はどこか遠くを眺めているようにうつろで、妙に穏やかに凪いでいた。


「でもさ」


 目を閉じる。ため息をつく。頭を片手で押さえ、首を振った。何か、自分を押さえつける何かを振り払おうとするかのように、強く。


「そうじゃないんだよね。あんた見てると分かった。あたしとあんたは根本的に違う。あたしは人が好きで、だから人に好かれたいの。あんたは人にわりと興味ない、だから優しくできる。道端の花をかわいいなって思うくらいの感覚で、あんたは人に接してるの」

「……そうなのかな」

「少なくとも、あたしはそう思った。人に向ける気持ちが全然違うのにその対応の違いを比べても仕方ない。だってあたしは、あんたみたいに人に関心なくなんてできない」


 唇を尖らせる。褒められているのかけなされているのか微妙なラインだなあ、と思う。


「なんて言うかな、あんたを見て、そもそも優しさの種類が違うのに、みじめになるのは時間の無駄だって分かった。それに、あたしは……」


 そこで言葉を切って、彼女は長いこと言葉を探すように黙った。口を挟んだり、催促したりするほど馬鹿じゃない。何を言われるのかまったく見当がつかなくて居心地の悪い思いをしていると、急に天を仰いで空に向かって深々とため息をついた。


「あーあ! 悔しい!」

「えっ、なに」

「結局、あたしだってあんたのその人に好かれちゃうところにやられてるんだから、どうしようもない馬鹿なんだよね」

「……」

「あんたのことが嫌いで、でもそれとおんなじくらいあこがれてかわいいって思ってるの。それが、ずっと昔から変わんないあたしの気持ち」


 何を言われているのかよく分からなくて首を傾げると、彼女は顎より少し下に毛先が届くくらいのボブを揺らして、俺と同じように首を傾げた。


「あたしは、人に興味のないあんたの特別であることが、うれしいの」

「……」

「ねえ、あたしが、……彰吾のとなりにいたいって言ったら、どうする?」


 言葉の内容よりも俺の名前が呼ばれたことに驚いて、封筒を取り落とす。あんた、でも、彰ちゃん、でもない、初めて呼ばれた俺の名前。

 ずっとずっと諦めていた。彼女に笑いかけてもらうこと、甘ったるい視線を投げてもらうこと、その腕や頬に触れること。だから、睨まれること、罵倒されること、振り払われることを生きがいとしてずっと閉ざしてきた気持ちを、もしかしたら、もしかしたらもう開いてしまってもいいのかもしれない。

 直立不動で落ちた封筒を拾うこともなく彼女を見つめ続ける俺を、面白そうに目を三日月型に歪ませて見つめ返し、にっこり笑った。


「ねえ彰吾。あたしのカノジョになってよ」


 駄目だ、口説き文句まで最高に潔くてかっこいい。


 ◆

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