ポジティブに生きる

 そして、卒業式。卒業証書を受け取って、桜なんかまだ咲いていない、学ランだけで防ぐには少し冷たい風が吹く中、俺はトシと一緒に体育館をあとにする。


「武本先輩!」


 背後から、名前を呼ばれる。振り向くと、久保さんが涙目でこちらに走り寄ってくるところだった。


「卒業、おめでとうございます!」

「ありがとう」

「先輩がいなくなってしまうの、さみしいけど……大学行っても、ここのこと忘れないでほしいなって……」

「あ、俺一年浪人するの。K大行きたくて」


 地雷を踏んでしまったことに気づいたらしい久保さんは、すっと表情を固めて、ごめんなさい、とつぶやく。しかし、約束をした俺にとっては、そんなものは地雷でもなんでもないのだ。笑って、気にしないで、と言う。


「あ、そうだ」

「……?」


 不意に思いついたことがあって、口に出す。首を傾げた久保さんに、これって言うと自意識過剰かもしれないな、と思いながら、頬を指で掻く。


「……あのさ、第二ボタン、とか、いる……?」

「……」

「いらないよね! 自分から言うなって話だよね! よーし、トシ帰ろう!」

「うわ、おい」


 言いながら恥ずかしくなってきて、トシの腕を掴み早々にその場を離れようとしたところ、久保さんがぶわりと泣き出した。ぎょっとして、ふたりして慌てて久保さんを囲んでやり場のない手をうろうろさせていると、彼女は俺の学ランの裾をけっこうな強い力でつまんだ。


「欲しいです……!」

「あ、はい……」


 急いで、第二ボタンを引きちぎろうと引っ張るが、意外と縫製が頑丈でなかなかちぎれない。うなりながら、久保さんの期待のこもった涙目にさらされながら、四苦八苦してようやく、ぶつっと音を立ててボタンがてのひらに零れ落ちた。


「取れた」


 そっと手渡すと、彼女は自分のてのひらにわたったそれを両手で大切そうに握りしめた。そして、不意に顔を上げ、俺をじっと見つめた。その泣き腫らした目元に首を傾げると、熱のこもった言葉が告げられた。


「れ、連絡先を教えてもらえませんか」

「……」


 となりにいるトシの目線が、「どうすんの、おまえが適当なことして期待させるからこうやってずるずるなってんじゃないの、どうすんの」と雄弁に語りかけてくる。

 どうしよう。

 いやだ、と突き放せないけど、どう考えたって彼女の期待に応えられるわけもないので教えられるわけがなく、戸惑っていると、背後から誰かが俺の頭を掴んだ。


「久保。諦めろよ、いい加減」


 俺の頭をバスケットボールよろしく鷲掴みにしたのは、中原くんだった。睨みつけると手を離し、彼は飄々と口にした。


「あっちでちとせが探してたぞ」

「えっ」


 ちらりと久保さんを見て、毛を逆立てているトシを見て、中原くんを見て、そして彼が意味ありげに唇を軽く曲げているのを見て、ああたぶん大坂千寿が俺を探しているというのはうそなのだ、と分かった。誰も別に俺を探していないけど、彼はそれを口実にここから俺を逃がしてくれるのだ。

 でもここで俺が逃げたらトシに迷惑がかかるのでは。


「……久保さん」

「はいっ」

「ごめん、もう期待させられない」


 こぶしをぎゅっと握り、前の俺なら、かわいいな、連絡先だけと言わずこのあとご飯に誘おうかな、くらい思っていたはずだ、と考える。それができないのは、変わってしまったのは、大坂千寿のおかげだ。

 たとえば、告白を断ったときに笑顔を見せたり泣き止むのを待ってあげたりしたこととか、こうやって第二ボタンをあげてしまったこととか、そういうのがきっと積み重なって俺は期待させていて。そういうのがやっぱりよくなかったんだよな、と思いながらも、これ以上は駄目だって自分でちゃんと分かる程度には痛い目を見て。

 でもやっぱり、根っこの詰めが甘いんだろうな、俺は。ここまで来ないと理解できない。


「これから先も、俺はたぶん、久保さんのことを好きにはなれない」

「……」


 歩生の手を、今までのカノジョの手をそうしたように、俺はきっとこの子の手だって簡単に離せて、さみしいと思いつつ後悔しないで生きていくのだ。それは、きっと全然誠実じゃない。

 だってさみしいって、けっこう自己中な意識だよな。


「俺は、久保さんとはこれ以上仲良くなったらいけないと思う。傷つけるだけだから」


 きっぱりとそう告げる。傷つけたくないと思うのもこれまた自己中な意識だけど、彼女だってきっと、傷つきたくはないはずだ。


「……先輩って、やさしいんですよね」

「……え」


 久保さんが、男三人を前にして、涙の溜まった目でくすくすと笑う。


「やさしくって、甘くって、それで……、ちょっとまっすぐすぎるんですよ」

「……」

「久保?」

「傷つくって悪いことばかりじゃないって思います。そういう、わたしを思っての理由なら、退く理由がないです。だって、傷つけたくないってことは、好意を持ってくれているってことでしょう?」


 予想外に久保さんが超ポジティブで、男三人が一斉に閉口する。

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