あの子は石鹸の匂い

 すごすごと大坂家に、お邪魔しますと呟いて上がり込む。靴を脱いでいると、奥のリビングのドアからのんちゃんが顔を出した。


「彰ちゃん!」

「おはよ」

「彰ちゃんだ!」

「うん?」


 大きな目をこぼれんばかりに見開いて、その場でじたばたと足踏みする。なんだ、と思っていると、近づいてはこないまま、にっこりと笑って、いらっしゃい、と言った。うれしそうだ。

 たぶん、俺が大坂千寿に嫌われているのを知っているから、なんらか思うところがあったのだろう。仲直りできてよかったね、みたいななんらか。仲直りしてないというかそもそもケンカしてないけどね。

 ケーキの箱を手渡すと、きょとんとされた。


「なにこれ?」

「ケーキ」

「それは見れば分かる、そうじゃなくて……」

「大坂さん、今月誕生日でしょ」

「……」


 表情が一気に胡散臭そうなそれに変わる。あれ、俺の記憶違いなのか……?

 不安になって確認するように首を傾げると、眉を寄せまたもうなり、深々とため息をつかれてしまった。


「ちがっ……たの……?」

「違わないけど」


 おそるおそる確認するもちゃんと違わないと返ってきて、そうすると俺には、なんで彼女が憂いのある顔をしているのかがよく分からない。


「……ありがとう、あとで佳音と食べよう」

「う、うん」


 喜んでもらえなかった。もしかして甘い飲み物は好きでも、ケーキとかは嫌いだったのかもしれない。

 俺は大坂千寿のことをなんにも知らない。どんな食べ物が好きで、どの芸能人が好きで、何が嫌いで何が怖くて、何に心惹かれるのか。全然知らない。

 ケーキをのんちゃんに預け、冷蔵庫に入れておくよう指示した彼女は、二階に続く階段を示した。


「あたしの部屋、階段上って右の突き当たり。先行ってて」

「うん」


 すごすごと階段を上り、右の突き当たりの部屋に入る。ドアは開け放たれていた。

 いやもう当たり前なんだけどいきなりベッドが目に入ってつらい。


「……」


 シンプルなアイボリーのシーツに緑色のチェック柄の布団。出窓に置いてあるうさぎの耳みたいなのが生えたサボテンに意識を集中させて、ベッドから目を逸らす。なんかいい匂いする……石鹸かな……。

 いたたまれなさすぎてドアのそばに棒立ちしていると、トレイに麦茶の入ったコップをふたつ乗せた大坂千寿が怪訝そうな顔で入ってきた。


「何してんの? 座れば?」

「あっ、うん……」


 ローテーブルの上に、参考書とかテキストが広げられていて、慌ててテーブルのそばに腰を下ろす。あぐらをかいて見ると、彼女も向かい側に腰を落ち着けてテキストを広げているところだった。


「じゃあ、こないだの続きから」

「ん」


 彼女との勉強会は、基本的に個人種目だ。黙々と勉強し、分からないところがあったら質問する。もっとも、彼女のほうに、俺に聞くような分からないことなんてないのだけれど。

 ひたすら英語の長文を読み続けて頭がこんがらがりそうになった頃、ふと彼女が口を開いた。


「休憩する?」

「待って、あとちょっとで終わるから」

「うん」


 見られている。

 長文の最後の設問をがんばって解いているところを、めっちゃ見られている。

 意識がその視線に集中してしまいそうで、今読んでいる文章なんてどうでもよくなりそうででも、あとちょっとで終わる、と言った手前そういうわけにもいかなくて、わざとらしくうなり声をあげてどうにかして必要な文章を長文から拾う。


「……」

「……お、終わった。採点、あとでやる」

「うん」


 立ち上がって、ケーキ食べよう、と部屋の外を示す。頷いてそれについていくと、リビングに通された。

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