俺にできなかったから

「進んでる?」

「うん」

「……一問も進んでないじゃん」

「トイレ行ってくる!」

「え、あ、こら」


 当初の目的を遂行するために立ち上がり、自習室を出る。

 出て、階段の前でへなへなと力が抜けて、しゃがみこんでしまう。膝に顔を埋め、ため息をついた。

 嫌いなのにほっとけない、か。

 指先で汚れた上履きに触れる。理由もないのに、いやほんとうはちょっと理由があって、泣きたくなっている。目元にきゅっと力を込めて我慢して、漏れる漏れる、とわざとらしくつぶやいてトイレに向かった。

 用を足して手を洗いながら、鏡を見る。無表情の自分。にたっと笑うと、泣きぼくろが引きつれて、これかわいいのか、果たしてこれほんとうにかわいいのか、と自問自答する羽目になってしまった。

 俺は大坂千寿の何者にもなれないと思っていた。でも、彼女の言うように、彼女の妹が言うように、俺はきっと彼女の特別なのだ。嫌いなのになぜか手を差し伸べてしまう、そんな特別。

 彼女の心がどんなかなんて、俺には分からない。でも、ほんとうに心の底から嫌いならきっと、ほっとけない、なんて感情に行きつくわけがない。と、思いたい。

 気づけばまた潤んでいる目元をもう一度引き締めて、濡れた手で頬を軽く叩いて、強く目を閉じて開いて、トイレを出た。


「わー!」

「声でけえよ」


 びっくりして思わず飛び上がって後ずさる。

 同じくトイレに来たらしいユニフォーム姿の中原くんとちょうど鉢合わせたのだ。たしかに、鉢合わせただけでこんなに驚いて大声出されたらたまったもんじゃないですね、すみません。

 そそくさと離れようとすると、案の定というかなんというか、呼び止められる。


「あのさ」

「え」


 振り向くと、意外と近くにその醤油顔があって、同じ男で俺だって背が低いほうじゃないのに、それよりも背が高くて意外と筋肉もあるその身体に迫られて思わず後ずさる。


「な、なに?」

「……俺が言うことでもないんだけどさ」


 薄い唇を尖らせ、中原くんがため息をついた。


「ちとせのこと、俺は幸せにはできなかったから、おまえがんばれよ」


 なんだそれ。

 肩の力が抜けて、ともすればへたりこんでしまいそうだった。だって、そんなの、違う。


「……違うよ」

「え?」

「大坂さんは、中原に幸せにしてもらおうと思ってなかった」

「……」

「たぶん、中原と、幸せになりたかったんだよ」


 俺が中原くんを殴ったときに彼女は、幸せにしてもらいたいとか思ってない、みたいなことを言った。

 俺なりにその言葉をずっと心の中であたためて噛み砕いていた。分かったのは、きっと彼女は、誰かに幸せにしてもらうなんて他力本願な生き方はしないだろうなってことだ。相手が誰だろうが、幸せにしてもらうなんて傲慢な考えは持ってなくて、たぶん、その相手と一緒に幸せになることを望んでいるんだ。

 それに、そう簡単に手放せるなら、最初から手にしないでほしかった。


「なるほど。でも、手を離したのはちとせのほうだよ」

「……」

「たしかに縋ったりするほどみじめにはなれなかったけどさ、あいつがもうおしまいにしようって言ったんだ」


 いつだろう。だって、六月の中旬くらいにはデートしてたの見たし、それ以降も、彼女は彼のことをサチと呼んでただならぬ感じであった。

 じっと、真意を測るかのように中原くんを見つめていると、けっこう朗らかに笑って、俺の肩を強く平手打ちした。身体が傾ぐ。


「いっ……」

「せいぜいがんばれよ、たぬき野郎」

「……」


 なぜそれを知っているんだ……。

 ひらひらと手を振ってトイレに入っていく中原くんを、呆然と見送る。叩かれた肩がじんじんと熱を持って、俺に何かを訴えかけてくる。

 やがて、のろのろと自習室に向けて歩きだす。


「……遅い」

「ごめん」

「……どうかしたの?」


 そそくさと目も合わさずにテキストに取りかかる。訝しむような声が届くけど、今はとても彼女の顔を見られなかった。

 力をこめすぎて、シャーペンの芯がぱきっと折れて飛んでいく。ノックして芯を繰り出して、ため息をついた。


「なに? どこか分からない?」


 分からないことだらけだよ。

 なんで、俺にそうやって優しくしたり、ほっとけないとか思ったり、中原くんと別れてもあっさりした顔でいたり、するの?


 ◆

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