彼女はカノジョで
ずっしりと水分を含んだ空が、今にも張り裂けそうだった。
期末考査のテスト返しが終わり成績表も配られ、夏休みに入る。大坂千寿の率いる女子バスケ部は夏の大会で前回県大会優勝の強豪に敗れ、三年生は部活を引退した。
「というわけで、これからは勉強一筋だから、今以上に厳しくしていくのでよろしく」
「う、うす」
夏休みは学校に行かなくてもいい期間であるはずなのに、俺と彼女はほぼ毎日、せっせと自習室に通っている。図書館よりも少しくらいうるさくしていいし、何か分からないことがあったら、運がよければ部活動の指導などで担当教科の先生が職員室にいる可能性もあるので、まあいいと言えばいいんだけど。
古典の外国語ぶりに頭を悩ませながらテキストと格闘していると、ふと大坂千寿が席を立った。
「ちょっとトイレ」
「あ、うん」
その背中を見送りながら、いいのかな、と思う。
俺としては、勉強を見てもらえるからいいのだけど、彼女としては、自分の勉強にあてる時間を俺に割いて、その上部活三昧のカレシをほったらかしてほかの男と登下校している構図になる。これって、いいのかな。
一度考え出すと止まらなくて、俺は夏休みに入ってからそのことばかり考えている。
「……俺もトイレ……」
まだ彼女は戻ってきていないけど、荷物は置きっぱなしだし察してくれるだろう。そう思って、席を立つ。
自習室のある棟は、体育館と隣接している。理科室や美術室、音楽室などと一緒になっているこの棟のトイレは、なぜか一階にしかない。渡り廊下を抜けて階段を下りる途中、ちょうど死角になっている階段の横にある自販機のあたりで、人の声がした。
「……あいつのこと好きなの」
な、か、は、ら、くーん!
心の中で叫び、思わず足を止める。好きなの、という問いかけに言葉を返したのは、意外なようでそうでもない人物の声だった。
「そう見えるの?」
「見えるよ、一緒に学校来て勉強教えてるし」
やっぱりカレシからしたら、俺って気に食わないどころか一発殴っておきたい奴、だよな。
そう見えるの、と質問に質問で返した大坂千寿がため息をついた。
「あたしが誰を好きでも、サチには関係ないでしょ?」
「まあそうだけど」
何度かまばたきを繰り返す。そのあと、首を傾げる。
関係ないわけないじゃん、カレシなのに?
「関係はないけどさ、ちとせ、あいつのこと嫌いなのになんで面倒見てるのかは気になる」
その中原くんの疑問を最後に、彼女は黙った。俺も、盗み聞きとかよくないと思ったんだけど、気になるから息をひそめて聞き耳を立ててしまう。
長い沈黙のはて、大坂千寿はぽつりとつぶやいた。
「……嫌いなのは、嫌いだよ」
「じゃあなんで?」
「分かんない」
ぽつ、と窓を雨粒が叩く音がして、拗ねたこどもみたいな口調で、分かんないと言った。
「分かんないし、嫌いなのに、ほっとけない。小さな頃からずっとそう。むかつくし、見てるとみじめになるのに、目を離せないし手を差し伸べてしまう」
すぐに本降りになった雨が窓を、地面を、青い葉を濡らしていく。
夏休みでもチャイムは鳴るんだな、と思った。大坂千寿の声にかぶるようにチャイムが響いて、それを休憩の合図にしたのか、すぐそこの体育館からざわざわとさざなみのように声が広がる。
最後の一音を引きずるようなチャイムの余韻が切れたあと、中原くんは笑った。
「ははっ、なんか、分かるよ、俺はやり方が悪かったけど、ちょっかいかけたくなるのは分かる」
「そうなの?」
「でも、久保が武本のこと好きだって」
「知ってるよ。サチが教えてくれたじゃん」
「フラれたらしいけど、あきらめないんだってさ」
えっそうなんだ。断り方、中途半端だったかな。
「同じクラスだから、武本の好きな人知ってるんじゃないのかって、すげえ聞かれたよ」
「……答えたの?」
「てか、あいつマジでちとせのこと好きなの?」
大坂千寿の言葉には答えずに、中原くんはそう言って語尾を跳ね上げた。
「ちとせが原因で殴られたりなんかしたりいろいろあったけど、ほんとなのかなあって」
「さあ。そんなのあたしに聞かれても困る」
「それもそっか」
なんだか勝手なことを言いながら、中原くんが、じゃあ俺部活戻るから、と重たい足音が体育館の方角に消えていく。上履きが階段を上ってくる音がして、俺は我に返り、慌てて、かつ足音を立てないよう気をつけながら自習室に戻った。
椅子に座ったのと同時に、大坂千寿が自習室のドアを開けた。
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