どこにもいない

「こんなはずじゃ、なかったんだけどな」

「え?」

「あんたにも、優しくできるはずだった」

「……」


 深々とついたため息が、俺の肩口を湿らせて、不覚にも腰が抜けそうになる。でも、こんなはずじゃなかった、その一言から、彼女が今の自分に満足していないんだってことはすぐに分かって、気を持ち直す。


「あんたを見てると、自分が嫌いになる」

「……」

「自分じゃない誰かになんか、なれないのにね」


 しゃべるたびに吐息が首筋に当たって、気になった。

 のんちゃんが俺に話してくれた、おぼろげだった大坂千寿の俺に対する気持ちが、なんとなくパズルのようにつながっていく。彼女もまた、中原くんのように俺みたいになりたくて、でもなれないんだってちゃんと気づいている。


「あのさ……」


 思わず、声に出していた。


「俺だって、俺じゃない誰かになりたい。そしたら、大坂さんに好きになってもらえたかもしれないし」

「……」


 何度でも、何度でも考える。もしも俺がこんな、って自分じゃどんななのか分からないけど、こんなじゃなければ。無駄だって分かっていても考える。


「覚えてる?」


 不意に、大坂千寿がそう言った。なんのことか分からずに、え、と漏らすと、彼女は俺の肩に手をついて少し身体を起こした。

 そのまま、俺の髪の毛を撫でるようにとかしながら、話し出す。


「幼稚園の頃だったかな。あんたと、結婚の約束した」

「……」


 忘れるわけがない、そして、そう思っているのは俺だけだと思っていたその事実。


「あたしが摘んできた花壇の花見て、あんたあたしの心配した。こんなの摘んできて先生に怒られないかな、とか。でも、あたしあのとき、どうしても道端の小さい花じゃいやだった」


 具合が悪いからか、声は少しかすれ気味で覇気がない。でも、昔を懐かしむようにちょっとだけ甘ったるくなる。チョコレートやキャンディの甘さじゃなくて、もっと素朴な、さつまいもとかかぼちゃの甘さ。


「だって、特別だったから、特別な花じゃないと、いやだったんだ」


 とくべつ。

 甘ったるい響きのその単語が、すとんと俺の胸に落ちていく。のんちゃんの言葉の裏付けが取れたことよりも、まだその言葉に続きがありそうなことのほうが気になった。


「……でも、そうじゃなかったんだよね」

「……」

「特別な人なんて、どこにもいない」


 ずっしりと重たい鉄の玉が心の中に落ちてきてめり込むような、そんな心地がした。それくらい、その言葉は俺の中で強烈に響いた。

 特別な人、というのが個人の気持ちではなくて、もっと包括的な広い目で見たときのことであるというのがなんとなく分かる。誰かにとってすごく才能があって秀でていると思う人がいたとしても、それは特別なことではないという意味。秀でている人だって何かしらどこか劣っていて、それを埋められる人をうらやましがる。


「……たしかに、特別な人はどこにもいないけど」

「……」


 大坂千寿が何を思って俺にこんなことを話しているのか分からない。でも、俺はただ。


「でも、人は誰かの特別にはなれるし、俺にとっては大坂さんは、特別だし」

「……」

「それじゃ、ダメなのかな」


 ぽつりと、夕闇に溶けるように落ちた俺のつぶやきに、彼女が何か言葉を返すことはなかった。

 大坂家の門の前で彼女を下ろし、肩を貸してあげようとすると、だいじょうぶ、と一言、よろよろと門扉を開けた。


「……昨日から、具合悪いみたいだったけど」

「…………別に病気じゃないから」

「そうなの?」


 気まずそうに目を逸らした大坂千寿が、ぼそぼそと何か言う。聞き取れなくて、え、と返すと半ばやけくそのように怒鳴られた。


「生理痛の貧血!」

「……えっ、あっ、ご、ごめん……」


 保健室で先生が曖昧に言葉を濁した理由が今になって分かる。気まずい気持ちになって謝ると、大坂千寿がもっともっと言いづらそうに、小さく言った。


「……ありがと」

「……う、うん」


 それだけ言って彼女は家に入ってしまった。

 好かれないなら嫌われていてもいい、俺は彼女の特別になりたい。ただそれだけなのに。


 ◆

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