誰にもなれない
翌日俺の頬の絆創膏の原因が中原くんだと知ったトシの怒り狂いようといったらなかった。
「おまえなに軽くやられてんだよ! 中原くらいそこはワンパンだろ!」
怒り狂う視点が独特だった。俺を心配してくれない、そんなトシも嫌いじゃないよ。
散々俺をなじったあげく、トシはため息をついてどかっと椅子に座り、じっとりとした目を俺に向け、もう一度ため息をついた。とことん失望させたらしい。
「そんでおまえは何に沈んでんの」
「……あー」
昨晩、ベッドの上でもごもごと考えていたことを、トシに言おうか言うまいか悩んでいると、声をかけられる。
「なあ、武本」
「……」
「ちょっと、いい」
渦中の中原くんの登場に、トシが目尻をつり上げて中指を立てんばかりの勢いで威嚇している。俺は、昨日考えていたこともあり、もうかかわりたくないな、と思ったけど、これを無視してもしょうがないので、黙って立ち上がり、ついていく。トシもついてこようとしたのを目線で制して、朝のホームルームが始まる前の、ひとけのない資料室ばかりが立ち並ぶ廊下へ連れて行かれる。
「なに」
「……昨日」
中原くんは、ずいぶんと言いあぐんでいた。口の中で言葉を何度かもてあそぶしぐさを見せたあと、思い切ったように顔を上げた。
「ごめん。かっとなって、殴って、ごめん……」
「……あのさ」
硬い声が出る。別に、許さないとか、これでおあいこだなとか、そんな好戦的なことを言うつもりなんかないけど、きっと中原くんにはそう見えた。彼は、肩を震わせて身を固くしたから。
「一晩、考えたんだ。きっと中原は俺になりたいんだろうな、って考えた」
「……」
無言は肯定。姉の言葉が脳裏をよぎる。
「ほんとの俺がどうあれ、中原の目に、俺は大した努力をしなくても人の上を行ける能力があるように見えてるんだろうなってのは、分かったし」
いろいろ、考えた末にたどりついたのは、そういうことだった。結局俺が自分のことをどう思ってどう評価していても、他人の評価は同じじゃないということ。大坂千寿にいくつもの顔があるように、きっと俺にだってそういうものがあるっていうこと。
「でもさ」
でも俺にはどうやったって俺から見える俺しか見えないよ。
「そんなこと言い出したら、俺だって中原になりてえよ!」
自分の引き絞った叫び声が、空間をびりびりと震わせたのが分かった。中原くんが息を呑む。
「どうやったって俺の性格じゃ大坂さんの気持ち逆撫でして! 絶対好きにはなってもらえなくてさ! どうやったらおまえみたいに大坂さんに好きになってもらえんの? 俺だって、俺だって……ほんとは……!」
足の力が抜けた。膝から崩れ落ちて膝頭が床とぶつかった。目を見開いている中原くんの足に縋りついて、泣き出したくなる気持ちを全部叫びに変える。
「絶対好きになってもらえないから、せめて嫌われたいけど、そんなの全部言い訳だよ! 俺だって好きになってほしいし、ふつうに笑いかけてほしいし! なあ、どうやったら中原になれるんだよ!? なれねえだろ? 誰かになるなんて無理なんだよ!」
「……たけもと……」
「持って生まれたもんで勝負するしかねえのに、ぐだぐだ言ったってしょうがねえだろ!」
今世界で一番、俺がぐだぐだ言っている。その自覚はあるけど。止められない。
結局こらえきれなかった涙で床を濡らしながら、中原くんの足にしがみつく。彼が、おびえたように俺を蹴り払った。
床に打ち捨てられて、起き上がる気もなくて、自分を抱きしめるように腕に腕を回して泣く。
「おまえ、何言ってんの……」
中原くんが、蜘蛛の巣に捕まってもがく蝶を見るような目で俺を見て、走り去っていく。
二分くらいそこで転がって泣いて、ようやく我を取り戻す。
「……はは……」
そうだよ。俺は誰にもなれない。誰も俺にはなれない。だから、俺は俺のまま生きていくしかないのに。
ぐだぐだ言ったってしかたないのに、その事実は俺の心臓を切り裂くような一撃を与える。
だって、俺が中原くんのような奴なら、きっと大坂千寿に愛してもらえた。俺が俺じゃなければ、特別愛されることはなくても嫌われることはなかったかもしれない。
でもそれは全部、なかったことなんだ。俺は現実問題武本彰吾として生まれてきてしまったし、中原くんにはなれないし、トシにもなれないし、のんちゃんにも、姉にも、歩生にもみゃあちゃんにも、何者にもなれない。
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