誰のために

 六月の雨はまとわりついてきて、しつこい。

 それを避けるように、俺は例により理科室の前の廊下で昼寝していた。ひんやりとして、もったりした空気にはちょうどいい刺激だった。

 ぺたりと床に耳をつけていると、遠く、ほんとうに遠くの足音が聞こえてきそうな気がする。または、階下で誰かの笑っている声とか。ちょうど下の階には調理室があって、どうやらそこで昼休み前の時間授業をしていたらしく、まだだれか残っているようだった。

 その笑い声もやがて遠のいて、耳に触れるのはしとしとと葉桜を濡らす雨の音だけになってしまう。今きっと、外の景色はきらきらときれいだ。


「……」


 いつもいつもトシといるわけではない。というのも、彼は今日日直で、先生の小間使いになっているのだ。昼食を食べ終えたところで、先生に首根っこ掴まれて連れて行かれていた。次の授業の準備を粛々とやらされているのだろう。

 なんだか最近、ずっと満たされない気持ちでいる。理由なんて分かっている。

 あの日以来、露出狂騒ぎの夜に俺に本音をぶつけて以来、大坂千寿は俺のことを一切見なくなった。

 廊下ですれ違っても、体育の合同授業のときも、一瞬も視線が絡まない。俺を見ているそぶりすらないのだ。前はもっと、道端に落ちているコーヒーの空き缶を見るような冷たい目で見てくれていたのに。

 たぶんトシの言う通り、俺はいとおしげに見られるならそれはそれで構わないというか、うれしいんだと思う。ただ、それが叶わないなら嫌われていてもいいから俺に感情を向けてほしいと思っていただけだ。でも、今はそれすらないのだ。

 どうせ目が合ったって逸らすだけなんだけど、でも一瞬だけでいい、目を合わせたい。

 それに、最近はようやく少しくらい話ができる程度には慣れてきたのに。


「まー、しかたない、のか……」


 原因は、薄々どころかがっつり濃厚に分かっているのだから。

 大坂千寿は、あのとききっと決めたのだ。俺とかかわることをやめようと。だって、俺には全然理解も納得もできないけれど、彼女は俺を見ていると嫉妬で狂いそうになるのだから。

 あのきれいな瞳を、俺なんかの存在で醜く歪ませることなどない。俺を見ないことで、彼女が今までどおりの生活を送ることができるなら俺はそれで――。


「いいわけあるか!」


 いいわけがあるか!

 俺は、大坂千寿のために生きているわけではない! 自分のために生きているのだ!

 俺を蔑め! 嫌え! そしてあのゴミをみるような目で俺を焼き尽くせ!

 むくりと起き上がり、がしがしと髪の毛を掻く。刈り上げたサイドの髪が、ざり、と手に触れて、伸びた髪を梳く。唇を噛み締めて泣きたい気持ちを我慢する。まだ、まだ泣いていいようなときじゃない。よっ、と声を出して立ち上がり、渡り廊下を駆けていく。

 泣くのはもっとあとだ。いろいろやって、それでもだめで、どうしようもなくなってからだ。


「ねえ」


 息を切らして、教室の入り口にいた広瀬さんに声をかける。俺を見て、笑顔で近づいてきた彼女に、教室を見回しながら彼女の所在を尋ねる。


「大坂さんは?」

「え? 千寿ならたしか保健室に……あっ武本くん」


 広瀬さんの呼び止める声を振り払い、一目散に走り出す。昼休みでざわついている廊下で、人を避けながら駆け抜けて、階段を二段飛ばしで下る。保健室は昇降口から右に曲がって突き当たり。角を自分でもおそろしいほどのスピードで曲がって、保健室のドアをけたたましく開けた。


「失礼します!」


 スライドさせたドアが勢い余って枠にぶつかって少し跳ね返って戻ってくる。それを目を丸くして見つめていた保健室の先生が、驚きを過ぎてその目を剣呑に細めた。


「武本くん、ここは病人やけが人が来るところ。静かにしてもらえる?」

「す、すみません……」

「で? 見たとこ病人でもけが人でもなさそうな武本くんは、何しに来たの? また仮病?」


 また仮病、という発言は、俺が一年の頃はよく、仮病を使ってベッドを借りて授業をさぼっていたことからきている。もちろんあまりにも回数が多いので、一年の最後のほうは俺が来ると無言で体温計を渡され、熱がないと分かるや否や追い出されるようになった。そして、二年生の夏ごろにはほんとうに腹が痛くなってもベッドを借りられなくなった。現代のオオカミ少年である。


「いや……あの、大坂さん……」

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