存在の認識
完全に馬鹿にしている薄笑いを浮かべ、トシが俺の頭を撫でる。
伸びている部分をぐしゃぐしゃと撫でて、刈り上げの部分をざりざりと撫でる。俺は動物か。
そして、トシの言葉で俺は、否が応でもあれが、あの姿が大坂千寿のほんとうなのだと、認めざるを得なくなってしまった。
俺があこがれていた、頭がよくてスポーツ万能で、誰にでもやさしいかわいい大坂千寿は、まぼろしだったのだ。
それを思うと、なんだかすごく泣けてきてしまった。
「え、何泣いてんの……」
ぶし、と鼻をすすると、トシが慌てたように手を離して顔を覗き込んでくる。
「……俺、俺が今まであこがれて大好きだった大坂さんって、うそだったんだな……」
「……」
「俺は存在しない人を好きだったんだな……なんか、馬鹿みてえ……」
「……」
トシは、相槌を打たなかった。ずっと黙っていた。そのあいだ、俺はみっともなく泣いた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、午後の授業がもうすぐはじまる。俺は座り込んで膝を抱えたまま、動けずにいた。
「…………そうかなあ」
最初、トシのその言葉は、何に対する疑問なのか分からなかった。最後に俺が言葉を発してから、あまりにも時間が経ちすぎていたので。
トシは、もう一度、そうかなあ、と首を傾げた。
「俺、今の今までめっちゃ考えたんだけど。無い知恵絞って、考えたんだけど」
腕組みした彼は、ずいぶんと難しい顔をして、顎に梅干しをつくって、その細い眉を八の字にして寄せた。
「めっちゃ考えた末に、おまえの言ってることがよく分かんねえ」
「え」
「だって大坂さん存在するじゃん」
「……」
俺はトシを馬鹿だなあと思った。
俺の言いたいことの半分も伝わっていないなあとちょっとさみしくなった。
「だからさあ」
何度も言わせるな、むなしくなる。そう思いながら口を開けば、トシがそれにかぶせるようにしゃべりだす。
「人間、裏表があるやつなんてそうそう珍しくもないし、たまたまおまえが好きだったのが大坂さんの表の顔だっただけじゃん?」
「……」
「そんで、今回の件で裏の大坂さんも知って、ラッキーじゃない?」
すごくポジティブな意見に、言葉をなくす。じっとトシを見つめると、彼は首を曲げて俺を覗き込んできた。
「それとも、裏の大坂さんに幻滅した? もう表も好きじゃねーの?」
「……それは……」
真剣に考えてみた。
そうか、表と裏か。俺が見ていたのはただの一面で、当たり前だけど人間は多面で、大坂千寿を遠くから見ていたくらいじゃ、たくさんの彼女を知るなんて、それこそおこがましいことだった。
きっと、家族に見せる顔、友達に見せる顔、カレシに見せる顔、先生に見せる顔、いろんな顔があって、彼女はあのとき、警察署の廊下で、俺に見せる顔を見せたに過ぎない。俺のことが大嫌いで大嫌いでしかたない、そんな顔。
そして、きっと、大坂千寿の大嫌いは、もはや憎いの領域に達しているんだろうな。
俺のことが憎くて、どうしようもないくらい目障りで、あのとき中原くんから助けてくれたのだって、周りに人がいたから「正しい大坂千寿」でいなければならなかっただけなんだろうな。
「……俺、大坂さんの前から消えたほうがいいかも……」
「え? なんでそうなる?」
「だって、俺のこの性格が気に入らないって言われても、性格は直しようがないし、もう視界に入るだけでむかつかせるって、もうなんかある種才能だし」
前に、トシは「嫌われる原因が分かれば改善できるかも」とか言っていた。いざ、嫌われる原因が分かってみて、俺は確実に改善できないことを悟ってしまった。
「ま、まあまだ策が全部だめになったわけでは……」
慰めようとしてくれているのかトシがなにか言いかけたところで、廊下の向こうのほうから複数人の足音がした。
「本鈴まだ鳴ってないよね?」
「セーフだと思う」
どうやら、この別棟でおこなわれる授業に遅れ気味の生徒たちらしい。
そして、俺たちは突如、とあることを思い出した。
「なあ彰吾」
「たぶん同じこと考えてる」
まだ四月。慌てるような時期じゃない。ただ俺たちは、目をつけられている、ギリギリ進級組なのだ。
先生に刺された釘がふわりと脳裏をよぎった。
おまえら、一学期一回でも授業さぼったら、夏休みは補習だからね。
「あー! 遅刻する!」
「本鈴まだ鳴ってねーよな!?」
立ち上がり、ばたばたと別棟を抜け出して、渡り廊下を全速力で駆け抜けて教室に戻ると同時、本鈴が鳴り響いた。
間に合った、といそいそと席に着く俺たちを、先生が舌打ちせんばかりの苦々しい表情で見ていた。
◆
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