第2話 廊下疾走
「元気ねぇぞキョン。俺も食欲がねーなー」
今日も曇天が続く昼休み、谷口は言葉とは裏腹に俺のより一回り大きめの弁当箱を机に置いた。続く第二の会食者である国木田はこの時期になっても相変わらず
「テストが近いとさすがに俺も心穏やかじゃねーな」
「期末は出題範囲が広いからね」
「テストが終われば短縮授業だし、あとは球技大会だろ。そしたら短いとはいえ春休みだ。気持ちが弾むってもんだ」
なんという楽観主義だ。教科によっては谷口と同レベルの俺が恐怖におののいているというのに。
「テストだからって猛勉強をするやつの気がしれねぇな。テストに大事なのは平常心だ。いつも通りにやってりゃいいんだよ」
「いつも通り、の内容によると思うんだが」
「キョン、お前のほうがヤバいんじゃねぇの。お前はハルヒに時間が拘束されてるからな。この間の文芸誌だって結構遅くまでやってたそうじゃねぇか。俺は原稿一本だけですんだけど」
「僕なんか全教科の解説まで書かされたよ」
まあ谷口は渋々と、国木田は淡々と文芸誌の厚みを増すことに貢献してくれた。これは感謝していいだろう。
「そういや、文芸誌のことで長門さんいじめられてるらしいぜ」
「何の話だ?」
聞き捨てならん。よりによって長門が?
この学校ではイジメなんか聞かないし、ほとんどのいざこざは俺の後ろに座っているやつが発生源だ。しかし谷口に向けた俺の質問はあっという間に怒気あふれる空間に霧散した。ハルヒがいつの間にか谷口の後ろに立っていた。
「一体何の話?」
「わわっ!」
「誰がいじめられてるって?」
「い、いやその、痛てっ!」
ハルヒにネクタイを締め上げられた谷口がかすれ声でゲロしたところを俺の脳内補完で再生すると……。
現国の時間、長門のクラスのことである。
「こんなものを卒業文集には書かないように」
と、そいつは言ったらしい。二百部刷った文芸誌のうちの一冊がなぜか国語教諭の入手するところとなり、嫌みというか当てこすりを延々と授業の冒頭を使って長門に言ったという。正体不明の団に占拠されてはいるものの、長門が文芸部長という肩書きだからだろう。
沈黙を
……ということらしい。しかも昼休みに職員室に呼ばれているという。
ギリリ、と変な音がした。ハルヒがあごに力を込めたのがわかった。
谷口のネクタイをぱっと手放し、
「絶対に許さない! キョン、あんたも来なさいよ!」
命令されなくても俺も行くぜ!
ハルヒと意見が合うことは滅多にないが、火がついた時点でだれも止められないのはたぶん一緒だ。あっけにとられた谷口を捨て置いてハルヒと俺は教室を飛び出した。
スカートを翻し、全速で走るハルヒの後を追う。
人もまばらな階段を駆け下りて職員室前に到達した瞬間、ドアが開いて長門がすっと出てきた。その顔には何の感情も浮かんでいない。
「有希! 大丈夫?」
長門はかすかに頭を上下させて反応する。
大事はないと判断したハルヒが、再び戦闘モードで職員室に足を踏み込んだとたん、
「待ちなさい!」
白いジャージ姿の岡部がハンドボール部で鍛えた構えで立ちはだかった。国語教諭が職員室で長門と話していた経緯から、体育会系サワヤカ教師の頭の中にも危険フラグが立ったに違いない。
ハルヒの猛抗議もなんのその、岡部は頑として俺たちを職員室に入れなかった。
「ちょっと放してよ! セクハラで訴えるわよ!」
「職員室で騒ぎを起こす気か!」
そのつもりなんだが。ハルヒを抑止する一方で、横をすり抜けようとした俺の
まあ国語教師の余命を考えてと言うより、自分の担当クラスの生徒が職員室で大暴れ、という事態を避けたかったんだろう。
結局、追い出されたハルヒは長門のクラスまで送っていくととかで別れ、俺は弁当箱の待つ自分の教室へと向かった。
俺が弁当の残りを急いで食い終わると同時に、五限の始業チャイムが鳴った。ハルヒがドカリと自分の席に座って、腕組みをしたままむすっと窓ごしに曇天を見つめていたかと思うと、
「岡部のヤツ、結局自分がかわいいのね。生徒なんかどうでもいいんだわ」
「長門の担任じゃないからだろ」
「有希に理不尽な言いがかりを付けてんのを看過するのも許せないけど、止めようとしたあたしを阻止した。ってことは岡部は生徒より正義より我が身かわいさの保身野郎ってことじゃない。あたしの担任としては不適当だわ」
「お前が担任を決めるわけじゃなかろうが」
「いつかボイコットしてやるわ。ぜったいによ!」
それ以上話について行くと、あんたも協力すんのよとか言い出しそうだったので、俺が沈黙で応えているうちに五限の数学教諭がきた。
どのみち数学はテスト範囲の説明とかで今日は版書がほとんどない……と気を許す内に俺はいつもなら妄想の世界へと離陸していくはずが、なんとなく小さな怒りの灯火が脳内にぽっと咲く。
せっかく先週までの騒ぎが収まったばかりなのに、現国野郎め余計なことをしてくれる。長門に文芸誌を作れと言ったのは生徒会長だろうが。文句があるならそっちに言えって。内容が悪いなら書いたヤツに文句を付ければいい。それを長門にふるのは卑怯だろう。
俺に文句を言うならわかる。こっ恥ずかしい私小説風デート紀行を書いたのは俺だからな。ハルヒは俺が現国野郎から非難されても眉一つ動かさないだろう。俺なら耐えられるとみなすはずだし、俺だってハルヒほどではないが言い返すくらいはするかもしれん。
しかし長門を責めるのは禁じ手中の禁じ手だ。ハルヒの中では長門はいつも庇護が必要な読書好きの
こうして俺は授業の半ば当たりまで現国のおっさん相手に脳内戦闘を続けていたが、空想の世界とはいえしだいに疲れてきた。睡眠不足と食事の直後と言うこともある。いつものことだ。
思うに人間には目覚めている間だけ脳内を流れる
睡眠が流れ落ちると放課後だった。
テスト前は部活も休んでいるところが多いし、塾へ直行する連中もいる。俺は玄関に向かう生徒たちの流れに逆らうように校内を泳いで部室棟に向かった。
部室のドアを開けると、古泉は自席で文芸誌を読んでいた。
ポットからお湯の沸く音がして、窓際の収納ボックスには茶碗が人数分並べてある。その横で長門が静かに青い背表紙の文庫本を読んでいた。久しぶりにSF文庫らしい。タイトルはディアスポラ、と読めた。
長門と古泉、この二人が黙って読書をしていたかどうかは疑わしい。俺のいないときに密かに事態が進行していたことはこれまで何度もあった。
ようやく俺は部室内の重大な欠落に気がつく。
「朝比奈さんは?」
「お茶の準備をしてから教室に戻りました。補講があるそうです」
朝比奈さんはもうすぐ三年生だ。県立高校のくせに妙に進学校気取りの我が校のことだ。ヅラ校長の
机に古泉が新たに印刷してきた文芸誌が置いてある。
俺たちが学校の印刷室で密かに刷ったやつとは紙質がぜんぜん違う。少し厚みのある高耐久紙は色落ちせずに三十年たっても劣化しないという。三十年後にこんなのを読む気になるだろうか。というか年を取ってから
けれど、間もなくやってきたハルヒはいたく喜び、古泉の株はまたしても上がり、俺はなんにもなしだ。
「古泉君がぜんぶやったんでしょーが」
仕方なく俺は紙袋に古泉が印刷してきた文芸誌を入れ、図書室へと向かった。未読の生徒や未来の北高生すべてに閲覧させるのがハルヒの意思である。やれやれだ。
後ろから古泉がついてきた。俺の仕事だろ?
「あなただけでは図書委員は受け取ってくれないかも知れません」
「なんでだ?」
「いまやあなたは涼宮さんと同じくSOS団の顔ですからね」
「勝手に言ってろよ」
「昼休みに仲良く二人で職員室に突入したにしては、つれないお答えで」
古泉は訳知り顔にニヤッと笑った。いつもながら耳が早い。生徒会長のほかにも外部要員がいるんだろうか。
次々と外部要員を
「けっこう」
横に並んだ古泉は言った。ん? どこかで聞いたような回答だ。
ひょっとしてこの学校で通常人は俺だけ、なんてオチじゃなかろうか、そんな妄想が走り始めたところで図書室のドアを開ける。
文芸誌を図書係に渡したらとっとと部室に戻ろう。まだ朝比奈茶も飲んでないんだし。
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