赤を齧る
@tamamayu
第1話
琴沢弥子、24歳。
大学を卒業し、生まれ育った地元で就職をした。
なんてことのない中小企業。
もちろん大変なこともあるし、同じことを繰り返している毎日だなんて、大袈裟な表現をするつもりはない。
けれど、それでも平凡な、平和な毎日を送っていた。
「うーん、今日も暑い…。」
基本土日祝日が休みのその会社には珍しく、その日は休日出勤だった。
汗を拭いながら帰路の道を歩いていたが、照りつける夏の日差しは容赦がなく、休憩できる場所を求めて、彼女の足は無意識に日陰のある建物へと向いていた。
「本当だったら今日は、涼しい家で本を読んでいたはずなのに…あいつ、後でシバく。」
今日の出勤の原因を作った同僚を思い浮かべ、琴沢は舌打ちをした。
そして、ふと顔を上げた先に、小さな看板がかかっていることに気づく。
「え、喫茶店?こんなところにあったっけ?」
カフェ・和彩(わさい)
狭い路地を進んだ先に、こじんまりとした建物。
木造の小さな店舗の入口近くには、植木鉢やらプランターが並べられており、緑が豊かに茂っていた。
琴沢の趣味は読書、カフェ巡りである。
アイスコーヒーあります、と書かれたブラックボードを見てごくりと唾を飲み込み、琴沢は鞄を漁った。
「よかった、持ってきてる。」
今日読もうとしていた小説を持ってきていることを確認し、足取り軽やかに店の扉をくぐった。
そう、これが、全ての始まりであるとも知らずに。
「いらっしゃいませ!」
中に入ると、顔立ちの整った女性が出迎えてくれた。
立地が分かりにくいからなのか、建物自体が大きくないからなのかは分からないが、雰囲気が悪くない割に、店への客入りはいまひとつのようだった。
カウンター席に1人、男性がいるだけで、琴沢を入れて客は2人だけのようだ。
「初めての方かしら。今日も暑いですね。アイスコーヒーがオススメですよ。」
ニコニコと愛想良く女性が話しかけてくる。
この店のマスターなのだろうか。
店内を見渡した琴沢は、ちょっとした違和感を感じたが、マスターと思しき女性に会釈をした。
「じゃあ、アイスコーヒーを1つ。」
「はい。えっと、席はカウンターとテーブル、どちらがいいですか?」
「テーブルで。」
「では、コーヒーはお席にお持ちしますので、お好きなところへどうぞ。」
カウンター席に座っていた男性と目が合ったが、琴沢は気にせず窓際に並んだテーブルに腰を下ろした。
彼女にとっての至福の時間は、こうしたカフェや喫茶店で本を読むことなのだ。
コーヒーが来るのを待つことなく、琴沢は読みかけの本を開き、挟んでいたしおりを外した。
店内に流れるゆったりとした音楽と、コーヒーの香り。
時折聞こえてくる会話。
全てが気にならなくなるほど本に集中し始めた頃、静かにテーブルの上にコースター、そしてグラスが置かれた。
「アイスコーヒーです。お好みでミルク、シロップをお使い下さいね。それとこれ、サービスのクッキーになります。」
「ありがとうござ…え?」
皿に乗ったクッキーを置く女性の腕の奥、つまりテーブルを挟んだ目の前の席に、笑顔を浮かべた男が座っていた。
驚いてカウンターに目を向けるが、琴沢より前に来ていた男性客はきちんと座っている。
「どうかされました?」
「え?いや…いいえ、なんでもありません。いただきます。」
不審そうな女性の視線を受け、琴沢は取り繕った。
この反応…多分、いや間違いなく…。
「では、ごゆっくり。」
目の前の男は、普通には視えていない。
赤を齧る @tamamayu
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