縁とは奇なり

 朝はまず、井戸水で体を清めることから始まる。

 雨が降る、風が吹く、雪が降る――それらは日課にごうも影響を与えなかった。

 凍えるほど冷たい水は容赦なく意識を覚醒させる。


 玄信の身体には古い刀傷があった。

 何故、と問うことは良照にはためらわれた。というよりは、どうしても見とれてしまうのだ。外出もするのだろうに――男にしては白い肌が、冷たい水を浴びてあかさを増していく様に。長い睫毛まつげに水滴が宿り、震える様に。

 鍛錬しているお武家のような力強さはない。とはいえ、細く引き締まった猫科の獣のような、身体であった。

「どうせ一緒にいるのなら、あなたもどうです」

 と誘われたので、良照も儀式めいた行に参加しているのだが、玄信は父や兄や、その辺で畑仕事をしている農夫たち――つまりは彼の知っている男たちとは根本の作りが異なっているかのようだった。


 着替えてお勤めをし、ようやく朝餉あさげになる。

 ほとんど実のない汁をすすりながら、良照が言った。

「そういえば外ではお武家様が騒がしく、誰かを探しているようでしたが……」

 ぴくり、と玄信の肩が動く。

「世俗のことはわかりません。あなたのように助けを求めてこられるならば、出来るだけのもてなしは致しましょうが」

 通常の玄信に似合わぬ、断固とした拒絶であった。

 この時代、武家は粗野の代名詞のようなところがあった。気に入れば勝手にものを取り上げるし、気に入らなければ斬り捨てる――それが本人たちは当然と思っていた。盗賊の親玉と比しても大差はなかった。

 彼が気にくわないとしても、当然であったといえる。


 昼は食わず、自由にしてよい――ということだった。

 好奇心で玄信の後をついていくと、言葉たがわず、討ち死にした骨を集めて隅の墓場に運び、経をあげて弔っていた。

 日が落ちて暗くなると夕餉ゆうげを作り、寝る。

 たまに托鉢に出ることもあったが、基本はその繰り返しであった。


 二人が暮らし始めてから一週間がたつ。

 玄信は相変わらずだが、良照の方は昼から姿を見せぬ日があった。


 夜。

 魚臭い安油を消すと、山深い庵は闇に閉ざされる。

 玄信の首筋に、良照の息が当たる。

「どうかしましたか」

「玄信さま、どうして父上を殺したのです」


 玄信はすぐに言葉の穂を継げず、しばらく考えた末に、言った。

「あなたは正克まさかつどのの――」

「長男で御座います。しばらく家を離れておりました。戻ったのは父上が亡くなった後です」

「その眼差まなざし――そうでしたか」

 玄信は火皿に火を灯し、かすかに揺らぐ光の中、正座して良照に相対した。

 良照は短剣を握りしめ、震えている。

 剣の刃が炎にきらりきらりと光る。

「私は確かに正克どのの小姓を務めておりました、芳櫻丸ほうおうまるで御座います。錯乱にて正克どのを刺したのは奥方様なれど、それは嫉妬ゆえ――私どもは、いえ少なくとも私は、正克どのを愛しておりました」

「そのような戯言、聞くものか。その刀傷はどう釈明いたす」

「奥方様から刀を取り上げるときに。御家のことでありますから、私はあえて汚名を引き受けて出奔いたしました。仇を討つというならそうなさればよろしい。ですが」

 玄信はあくまでも凛と、良照に言い放った。

「お手を汚すこともありますまい。私は病にかかっております。あと一月もすれば冥府に向かいますゆえ。相手はすでに死んでいたと御報告なさるがいい」

「病と申されるか――」

「いわゆる亀腹というもので、人にうつる病ではありません」

「あなたはそれでよいかもしれません。むしろあなたが悪人であればよかった。しばらく暮らしてみてわかりました。そのお姿、心根――父が惚れたのも当然」

 良照は涙を流していた。

「一目見たときから、心惹かれてしまいました。どうして斬れましょう――玄信さま」

 良照は玄信を押し倒した。

 乾いた唇は塩辛い味がした。


 油が絶え、炎が消える。

 闇の中で貫かれるものの低い呻きが聞こえた。


 玄信の声が響いた。

「もし私が死んだら、土に埋めずに野晒しにしておいてください。むくろの腐り果てる様を見て、この世の無常を知るのです――」


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