3.7
夜が来た。談話スペースの端の席で窓を見つめることを続けるうちに、日が落ちていた。
窓から下を眺めると、幾名かの学生が見えた。誰もが建物から出て、外に向かって歩いている。
研究に勤しむ学生が一般に何時頃に帰るのが平均なのかは知らないが、幾楠大学に限っては午後八時が帰宅の目処なのかもしれない。
僕がこの時間まで学生部屋に戻れずにいたのは、気まずさよりも、岩永あかねへのお礼のつもりだった。
彼女にしてみれば、僕という邪魔者が居なければ意中の作木光昭と二人きりだ。僕のせいで作木光昭の機嫌は悪いだろうが、僕が側にいるよりは幾分ましだろう。
それに、彼らの身の安全は、僕がこの談話スペースに居る限り確保できる。ここからは、唯一このフロアと外界を繋ぐエレベータが見える。
つまり、誰かが岩永あかね、作木光昭を襲撃を目論み、訪れたとしても、僕に必ず顔を見られるということだ。今のところであるが、誰もここを通っていない。
僕はここで夜を明かしたほうがいいのかもしれない。作木光昭と顔を合わせれば、険悪な空気になることは必至である上、岩永あかねには気を遣わせることになる。
合わない人間とは、無理に合わせなくて良い。そういう生き方が楽じゃないか。
僕のこの良案を伝えるために、学生部屋を訪れようと立ち上がった瞬間、岩永あかねの大声が響いた。
「いい加減にしてよ!」
それは先程まで慈愛というに相応しい振る舞いをしていた岩永あかねとは思えない、怒気を孕んだ声だ。
そして続くように、乱暴に扉を閉める音が響き、大股開きの岩永あかねがエレベータの前に立った。
「岩永さん、どうかしたんですか?」
僕はエレベータの到着を待つ岩永あかねに駆け寄り、声を掛ける。
「なんでもないわ。ただ、夕飯を買いに行くだけよ」
なんでもないということはないだろう。なにかひと波乱があったのは明白だけれど、僕に伝える気がないのは分かった。
「どこまで行かれるのです?」
「学内のコンビニ。すぐそこよ」
機嫌が悪い岩永あかねは、僕に口数少なく答える。お前は来るな、放っておいてくれ、という声が聞こえるが、そうは行かない。
如何に学内であろうと、安全地帯の外に出るのだ。護衛役が付いて行かなくては、僕がここに居る意味がない。フード男が幾楠大学の学生で、今もこの建物の周りにいる可能性も、排除出来ないのだ。
「だから、付いて行きますよ。僕も夕飯が欲しいので」
エレベータに乗り込む僕を、不審なものを見るかの様に岩永あかねが見つめた。それに答える様に言い訳をすると、岩永あかねは簡潔に答えを寄越した。
「お好きに」
「ありがとうございます。それにしても、忙しいですね」
「え?何が?」
「岩永さんですよ。午前は上機嫌で、その後、僕に気を遣って、今は不機嫌。失礼を承知で言いますけど、アップダウンが激しいって言われません?」
「言いたいことは言わないと、損するだけよ。特に、拒否と嫌悪の意思は言葉だけじゃ足りない」
「作木さんと喧嘩ですか」
エレベータから降り、エントランスから建物の外へ出る。外は日が落ちているこの時間であっても、蒸し暑い。人がまばらな学内を二人で歩く。
「君のこと、もう帰そうって言うのよ」
岩永あかねは不機嫌の理由を話しだす。僕のことで、作木光昭と言い争いになったのか。
「当然だと思います。正直、僕が居る意味は無いとも思っています」
「でも私は、君がここに居るのが正しいと思う。それは私達というより、私と深雪のため」
僕が岩永あかね達と共に居ること推薦したのは、橘深雪だ。
彼女は岩永あかね達の身を案じたというより、二人きりにさせるのを阻むために僕を使った。
僕は契約的に問題がなければ、従うのはやぶさかでない。だが、岩永あかねはいい気はしないはずだと思っていた。
「フェアじゃないのよ。ここで能村くんを帰しちゃうのはさ」
「よく分かりませんね。僕が邪魔なのは理解しているつもりです。消えろと言ってもらえれば、僕は消えますよ」
「私はね、光昭のことが好きだけど、深雪のことも好きなのよ。深雪に卑怯だと思われたくない。
だから、深雪の仕掛けたものはすべて受け入れる。その上で、私は欲しいものを手に入れたい」
欲張りだ。そう思った。
「光昭を恋人にして、その上で深雪とは友人でいたい」
岩永あかねは、正面を見据えながら言い切る。
1つのものを取り合いになったら、それは争いだ。お互いが傷つかずには済まない。
特に、恋愛の、欲望の絡む争いは、岩永あかねが言う、スポーツの様な爽やかさな結末にはならない。
作木光昭が誰と付き合ったとしても、いや誰とも付き合わないとしても、敗北したものは傷つく。以前のような関係には戻れない。
岩永あかねもそんなことは承知しているだろう。その上で、目指す。この人は、超が付くほど我儘な女王なのだ。
「そういうわけなんで、能村君にはしばらくここに居てもらうから」
「承知しました。計画に変更はないということですね」
そういうことよ。と言った後に、岩永あかねは小声でごめんね、と謝った。他人の恋愛事情に首を突っ込まされるというのが、ストレスだと思っているのか。
契約であれば、是非もない。喜んで、針の筵で邪魔者になりましょう。
幾楠大学には、大学構内の端や隅に購買用のコンビニが在る。岩永あかね達の居る研究棟からは、最寄りのものでも徒歩で五分ほどの距離になる。
「もう少し近くに欲しいよね」
色々な無駄口を叩きながら買い物を済ませると、真っ直ぐ元の研究棟に戻る。この後に食べるつもりの食事に加えて、水やお茶などしばらく生活するのに困らないよう、備蓄も買った。
「こんなに持つなら、無理にでも光昭を連れてくれば良かった」
岩永あかねの手には、二リットルのペットボトルが入ったビニル袋が吊られている。当然、僕も同じだけのペットボトルを両手に持っている。ビニルの細い持ち手が掌に食い込み、痛い。
大学構内の建物はどれも、直方体で窓がなければ壁と見間違う。そしてそれらは僕らが帰る研究棟の間で、行く道を遮るように鎮座している。
行きは馬鹿正直に建物を迂回したが、重い荷物を両手にしているとショートカットをしたくなる。目の前の三号館と書かれた建物の中を横切れば、研究棟はすぐそこだ。
「よっと」
岩永あかねはビニル袋を下げていない方の手で学生証を裏口の扉の横の端末に翳す。軽い電子音の後、三号館の扉を押すとゆっくりとそれが開いた。
扉の先は一本の廊下になっており、今はもう誰も居ないのだろう、明かりが消えていた。暗い一本道の廊下を、岩永あかねと共に歩く。
ひどく静かな廊下は、僕らの息遣いとカツカツ、という足音が大きな音で響く。そして建物の反対側。つまり出口の扉が見えたところで、そこに人が居るのが分かった。
男だ。扉を遮るように仁王立ちになり、僕らを正面から見据えている。目深に被ったフードのそいつは、僕らが今、一番警戒しなくてはならない人間。フード男だ。
「岩永さん、逃げてっ!」
僕が叫ぶと、岩永あかねは状況を察し、僕と共に来た道を駆けて戻る。両手の荷物は投げ捨てた。それを見たフード男は僕らを追う。速い。
運動能力の無い僕ではこの建物で追いつかれる。そして、そのまま先を行く岩永あかねにも。
「くそっ」
僕は走るのをやめ、フード男と対峙する。男も僕と少し距離を離し、立ち止まった。違う、これは僕の求めていた形じゃない。だが、岩永あかねの僕の身を案じたあの表情が頭を過って、思わず身体が動いた。
精神に、身体は追随する。そういうことか。くそ、迷うな。
このままいけ。
これで岩永あかねが作木光昭を呼んでくる。そして事務所に電話をしてくれる。後は、ここで生き残ることだ。
フード男は様子見をやめ、僕に向かって襲いかかる。喧嘩なんて僕の仕事じゃない。だから、そのノウハウなんて知らない。
だが僕の身体は反射的に迫り来るフード男の顔面に向けて、右の拳を振り上げていた。不格好に腕を振り回しただけだ。
案の定、狙いとは違うフード男の肩当たりに拳が当たったが、フード男は構わず突進する。
タックルの様な体当たりで僕は廊下に転がった。腹を強く打ち、呼吸が止まる。一瞬だが、動けない。それが決定的だった。フード男は仰向けの僕に馬乗りになって、僕の顔を見る。
廊下の窓のから差し込む月明かりで、僕もフード男の顔が見えた。
「君、どこかで会ったこと無い?」
精一杯の時間稼ぎをする。それを聞いたフード男は笑う。顔を歪めて。
「何故、邪魔をする?」
「当然だろ。僕は探偵だぜ?」
フード男は僕の口を手で塞ぐ。そして逆の手で僕の喉を殴りつけた。
「っぐ!」
「痛いだろ。喉って柔らかいもんな。それに、殴られると呼吸困難になるんだ」
叫び声が形にならない。加えて、吐き出したくなる不快感が僕を襲う。
それを吐き出そうと大きく口を開けると、フード男の手がより一層強く口を締め付ける。その左手に噛み付こうとしたが、うまく行かない。手足をばたつかせるが、フード男の身体は全く崩れそうにない。
「お前も、僕の邪魔をするんだな」
そして二撃目。鉄槌の様に握りこんだ拳を、真っ直ぐ僕の喉へ打ち下ろす。そして痛みと衝撃。咳き込みたくとも、口を押さこまれうまく出来ない。呼吸が徐々に難しくなる。苦しい。
まさか、このままだと、殺される? 早くしてくれ。
「お前さ、何で邪魔するんだよ」
そして次の鉄槌が振り下ろされる。身体の中で、何かが潰れた様な鈍い感触がある。もはや叫ぶ気にすらならない。早く、早く。
「関係ないじゃん。あんな本を出す奴らの味方なんて。ふざけるなよ」
次の鉄槌がゆっくりと振り上げられる。そして僕は覚悟を決める。きっとこれで取り返しのつかないことになる。だが仕方ない。石郷岡さんの言っていた通り、僕は調子に乗りすぎた。
そのツケが、僕に返ってきたのだ。
そのとき、扉が開く音がした。軽い電子音のあと、扉の開く鈍い金属のこすれる音。僕にはそれが誰かは見えない。だが確信を持って言う。声にならないから、心の中だけで。遅いよ、文緒。
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