3.5
岩永あかねと作木光昭が帰ってきたのは、彼らが宣言した時刻から二時間ほどオーバした後だった。
「ちょっと白熱してね。それで、入れ替わるように学務が来たから、こっちに戻ってこれなかった。ごめんね」
そういう彼女にこそ疲労の色が見える。現在時刻は午後六時。出て行った時刻から五時間ほど経っている。
「お前、ずっとここにいたのか?」
「そうですよ。それが仕事だから、当然じゃないですか」
僕はというと、TVをつけてぼんやりとその画面を眺めていた。
「おい、これなんだよ」
作木光昭は僕の座る椅子の下、そこにある二つにへし折られた雨傘を指して言う。僕が折った。気が付いたら、折ってしまっていた。
「ヨガの練習をしてたら折ってしまいました。僕の猫のポーズに巻き込んでしまいまして。後で捨ててきますよ」
「誰かが来たのか?」
「いいえ。本当に一人で体操してただけですから。ご心配無く」
岩永あかねは猫のポーズが何なのか分かっていないのか混乱顔だ。
「そうかい。今日はもう仕事はない。向こうの部屋でゆっくりさせてもらうよ」
そう言って作木光昭は出て行こうとする。
「待ってよ。みんなでここに居るって約束じゃない?じゃないと危険だって」
「となりの部屋だ。大して差はないだろう。みんな見えるところに居ないとだめか?」
そう言って作木光昭は僕を見る。僕の意見なんて聞くような性格じゃないくせに、こういうところは筋を通すのか。
「となりならいいんじゃないですか?ただ、寝るときはこっちに来てくださいね」
はいはい、といって彼は出て行く。僕にとっても、ここであいつとずっと顔を合わせているのは息が詰まる。終始嫌味を言わるのはしんどいのだ。
「ごめんね。あいつ、嫌な奴だよね」
「どうしても合わない人ってのはいるんですよ。作木さんにとっては僕なんでしょう」
でも、ごめんね。岩永あかねは僕の正面に座る。彼女はここに居るつもりらしい。そうでないと僕が居る意味がないから当然か。
テレビは長いCMが終わると夕方のニュース番組に切り替わった。自動車事故で一家が死亡。緑区で火事。明るい話題より、暗い話題が多い。
今日はそんな日か。
そして次のニュースが読み上げられようとしたところで、岩永あかねがTVの電源を消した。
「嫌いなんだ。ニュースとかテレビ」
僕は答えない。機嫌を損ねたわけではない。ただ、何も言いたくなかったのだ。
「能村くんにとって、合わない人っているの?」
岩永あかねが沈黙に耐えかねて、口を開いた。
「合わないですか。僕には分からないですね。なにせ、自分ってのが全く分からなくて」
「自分が分からないって?どういうこと??」
僕は自分が分からない。それは、達晃くんがお姉ちゃんといっしょに持って行ってしまった物が、何なのか、その正体が分からないからだ。
「逆に聞きますけど、岩永さんは、自分がすべて分かっていますか?」
きっと、岩永あかねも何かを持って行かれたはずなのだ。目の前で、二人の友人が殺人鬼に殺された。その時に何を持って行かれた?何を失った?
何が変わった?
「私は私を分かってるよ。難しい話じゃなくて、何が好きで、何が嫌いで、何がしたいか。それさえ分かっていれば、十分」
僕の真剣な雰囲気に押されたのだろうか、岩永あかねも真剣に答える。そうか、なんてシンプル。
「じゃあ、今は何がしたいのですか」
「そうね。無事に『青い一日』を出版することかな」
「それで?それだけですか?岩永さんは、この本を通じて、何がしたいのですか」
そう、岩永あかねの目的は出版の先にあるはずなのだ。僕はそれを、僕の探求と同質のものだと信じていた。自分が変わってしまったことを、世間に訴える。
傷跡を魅せつける露悪趣味の様な。
「そうね。ねえ、能村くん。君って私のこと、どれだけ知ってる?」
「『東海地区連続殺人事件』の唯一の生き残りです」
「その通りよ。でもね、事件当時は違った。生き残りで、目撃者で、何より容疑者だった」
『青い一日』に記されている内容は、彼女の事件への思いと彼女の苦難についてだった。
「私はね、ずっとあの事件の容疑者として疑われていたの。クラスメイト二人を殺して、自分で自分に傷をつけたのではないかって」
そう、岩永あかねはあの最後の事件の容疑者として疑われていた。
当時中学生の彼女は、クラスメイトの友人二人を死傷し、『東海地区連続殺人事件』の模倣をしたのではないのか。
その可能性について議論がなされたのだ。
「ひどい話よね。私だって襲われてるのに。でも、他の事件と凶器が違ったり、襲った年齢が低いとかそれっぽいことを言って模倣犯の可能性をずっと指摘された。
結局、疑いは晴れたけれどね」
だからといって、彼女の苦痛は図り切れないだろう。それは『青い一日』にしっかりと残されていた。
「でもね、不思議なもので一度世間に悪者って扱いを受けると、ひっくり返らないのよ。雑誌とかテレビとか私にずっと付き纏っていた。
ちゃんと犯人を思い出せ、あなたがしっかりしていたら二人は助かったんじゃないか。……苦しかったな」
岩永あかねは遠くを見る。窓の夕日は少し傾いていた。
「今でも許せない。私は転校せざるを得なくなったし、何より、お母さんが心労で倒れた。私の人生は、この傷よりも後に、めちゃくちゃにされたのよ」
「その思いを、この本に?」
「私は世間に訴える。私が苦しかったって。辛かったって。そして許さないって。それで何か変わるか分からない。でも、やらないといけない」
『青い一日』には、彼女の悲鳴が込められている。彼女は確かに失った。だがそれは違うんだ。僕が知りたいのはそれじゃないんだ。
辛かったろう。苦しかったろう。それは同情しよう。僕に出来ることがあれば協力しよう。だが、僕が知りたいのは、望んでるのは、そこじゃないんだ。
「亡くなられた生徒は、仲が良かったのですか」
僕は、自分の声が震えているのに気が付く。いけない、抑えないと。さっきもう暴れただろうが。
「ええ。二人ともいい子だった。生きていたら、今も友達だったはずよ」
「……その日々を、今も夢に見ますか?」
僕は聞く。『青い一日』に書かれて無くとも、きっとあるはずなのだ。親友を失ったことによる喪失が。なくてはならない。
だが、僕の質問を聞いた岩永あかねは笑った。僕が何か、不思議なことを言ったかのように。
「残念だけど、見ないよ。今は側に光昭が居てくれるから」
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