3.4

 大学の研究室というのに入るのは初めての経験だ。まだまだ学部で青春を謳歌している身としては、研究という言葉に不安と期待が混じった感情が在る。

特に、岩永あかね達の様に本格的に本格的を重ねたようなところは、さぞ厳しい雰囲気なのだろう。

「いやいや、こんな活動的なのは私達だけだよ。普通の子はもっと楽してるって」

 僕を招いた岩永あかねは、研究室の方々に面通しというか挨拶まわりの案内役を買って出てくれた。

だが、やはり夏休みの影響だろう、学生は全くと言っていいほどおらず、結局ただの案内になってしまった。

「普段から来てる人ってのも少ないのです?」

「そうだね。正直なところ、ほぼいないかな。高見先生はゼミとか厳しいタイプじゃないしね。むしろ超緩いことで有名。ここが学生部屋」

 学生部屋と呼ばれたそこは、生活する準備がほとんど出来上がっていた。座り心地の良さそうな椅子とテーブル。そしてテレビに冷蔵庫。

寝袋さえあれば、それで十分だろう。色々準備する手間が無くなって良かった。

「私達もここで深夜まで編集とかしてたからね。冷蔵庫とかは歴代の先輩が持ち込んだらしいけど、この部屋は私達の部屋として使わせてもらってる」

 三人の学生の部屋としては豪華に思える。快適な一週間になりそうだ。

「あんまりチョロチョロするなよ。お前は部外者なんだから」

 人のいい気に水を差すのは作木光昭だ。

「確かに部外者ですけど、必要なら動き回りますよ」

「そうならなきゃいいがな」

 全くですね、と答えるが心は篭ってない。絶妙に機嫌の悪い作木光昭に対して、岩永あかねはどこか楽しそうだ。自宅から持ち込んだ食料やら荷物を収納棚に整理している。

「なんだか、お泊り会みたい。日付が変わるくらいまでいた事はあるけど、泊まりって初めてだよね」

「そうかもな」

 呑気そうだ。自分が暴漢に襲われるかもしれないと、そういう自覚はないのか。

「門には警備員。学生証が無いと入れない建物。おまけにこの部屋の扉も、学生証で認証しないと入れない。更に言えばここは四階で、窓を破るのも現実的じゃない。

……お前、いらないんじゃないか」

「失礼な。安全はどれだけ用心しても十分じゃないのです」

「そうかね。むしろ、橘の方が心配だ」

 今朝、この幾楠大学高見研究室を訪れる前、橘深雪の病室に寄ってきた。どうもあまりお加減が良くないようなので、臨時サポートとして雇った間瀬を置いて、すぐに退散してきた。

孤独を愛する彼女と橘深雪が友好な関係を築けるかは疑問だけれど、こういう仕事には適任だ。

「間瀬は柔道剣道合気道の段持ちです。彼女以上の適任は居ないですよ」

「そうかい。ならいいよ。俺達も何も無ければ橘の病室に居るつもりだ」

「そうしてください」

 橘深雪のメンタル的にも。僕は彼女に少し同情的になってしまったのかもしれない。すぐに流される。石郷岡さんにちょろいと言われるのも当然か。

「それで、今日はどうするんです?何かあるから、大学に戻ったのですよね」

 僕の質問に答えたのは、岩永あかねだ。彼女は僕の持ち込んだ寝袋の中を不思議そうに見つめている。お宝でも探しているのかな。

「出版社の人と打ち合わせ。あと、印税とかの話を大学の学務としないといけないのよ。両方とも先生の部屋でやるから、ここに誰もは来ないよ」

「そうですか。僕はここで待機でいいですかね」

「そうだね。あんまり部外者に話す内容じゃないし。二人とも何度も会ってる人だから危険は無いと思う」

 危険は無い。そうか、今まで真剣に考えて来なかったが、岩永あかね達を襲おうとする人間は誰なのだろう。

出版を差し止めたい一派は出水博信とその取り巻きだったが、彼らは違う。僕らへ依頼を取り下げている上に、そもそも暴力的な手段に訴えないはずだ。

「能村くん、こいつが来たら中には入れないでね」

 寝袋を思うまま弄んだ岩永あかねは、急に真面目なトーンで言った。そして差し出した写真には男が写っている。短い髪にギラついた目が特徴的だ。

「伴文明。私達に出版をやめろってうるさいのよ。関係も無いくせに」

 そうか。伴文明が来る可能性はあるのか。彼は既に手を引いたと出水博信には伝えているそうだが、どこまで信用できるか。無茶をしそうな雰囲気はある。

「伴文明の身長ってどのくらいですか、作木さん」

「お前より少し高いくらいか。俺よりは低いから百七十センチくらいじゃないか。フード男もそのくらいか?」

「そうですね。そのくらいだったかと」

「あいつか。なめた真似しやがって」

 作木光昭はもう犯人を伴文明として認識したらしい。僕が警戒するべきは、暴走した作木光昭かもしれない。


 冗談めいたやり取りはそこそこに、一週間を共に過ごすにあたってのルール決めなどを簡単に行った。

だが、ほとんどのインフラを大学に頼っているの上に、一週間という短い期間である。厳密にルールを定めても、無駄に終わるだろう。

それでも依頼主である岩永あかねが楽しんでいるようなので、僕はそこそこに乗って上げていた。サービスという奴である。

 そして、昼食を食べ終えた程度の時刻で、彼女達の第一のお仕事が始まった。

「じゃ、私達は行ってくるね」

「ええ、頑張って下さい」

 そのくらいの挨拶をして、広めの部屋で一人きりになった。つまり、思考と探索の時間だ。

 岩永あかねは明るく振る舞っているが、それは僕に対して気を遣っているからだろう。

僕は機微に疎い方だと自認しているが、この状況で自分が邪魔であるということは理解している。だが、それを露骨に態度に出されると立つ瀬がなくなってしまう。

僕はもう一人の依頼主である橘深雪に頼まれて、ここに居るのだ。

 そんな僕の複雑な状況は、昨日、橘深雪から打診された次点で想像は出来ていた。だが、それでも橘深雪の提案を素直に受け入れたのは、決して責任感からではない。

単純な理由だ。ここであれば、『青い一日』の原稿が在るはずだ。

 僕にとってこの依頼は、石郷岡さんにやれと言われたから遂行しているだけだ。それ以上のモチベーションはない。だが、岩永あかねがこだわり続けている『青い一日』には大きな興味がある。

悲劇嗜好として、僕は知りたい。彼女が友人の死を目の当たりにして、どう変わったのか。どう変わったと自覚しているのか。

 岩永あかね達と出版社との話し合いは二時間程度かかると言っていた。なら、順番に棚を開けていけば原稿が見つかるだろう。

行動に移そうとしたとき、僕は橘深雪の部屋で同じような失態を演じたことを思い出す。そうだ、わざわざ紙で印刷しているはずはない。パソコンを探さなければ。

僕は部屋の隅の作業デスクの上に置かれた、明るい色のノートパソコンの前に座る。きっと彼女の定位置なのだろう。開けて起動ボタンを押すと、見慣れた窓のアイコンが現れた。

そして一瞬の後、パスワードの入力を求められる。ユーザ名はAKANE。やはりここでお手上げか。

 僕は一縷の望みを掛けて、適当なパスワードを入力していく。『password』『PASSWORD』『AKANE』。そして彼女の生年月日。

残念というか当然というか、どれも不一致という結果になった。モニタの脇にでも書いていないかと思ったが、彼女の私用パソコンだ。探すだけ無駄だろう。

ノートパソコンをシャットダウンし、紙媒体の資料を探す。

「ほんと、ださいなあ」

 こういう展開は既にやっただろうが。何で学習しないのだ。パスワードを開ける方法なんて、どうにでもなるんじゃないのか?想像力が足りない馬鹿め。

 自分を卑下しても何も始まらないが、今回は本当に嫌気が差している。だが時間がもったいない。

 そしてこの部屋の収納という収納を一つ一つ物色していく。ファイリングを開き、棚を開ける。だが出てくるのは資料やメモが精々だ。彼女の中身に到達するものではない。

半ば諦めて、岩永あかねの鞄を開く。その中には、雑多な荷物の中に一つ、真っ白な表紙の本があった。文庫サイズであるが、ブックカバーではなく、表紙が真っ白なのだ。

そうか、これが『青い一日』か。出版社から製本したサンプルを貰ったのか、自分たちで形にしたのかは分からない。だが、僕の直感に近いものが、これが目的物だと告げている。

僕はその本を読み始める。きっと、これで岩永あかねのことが見えてくる。僕と一緒なのか。そして、ヒントをくれるはずだ。僕がどう変わったのか。

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