2.6

 そのまましばらく石郷岡さんは押し黙った。それは決して空気が悪くなったわけではなくて、単純に彼女が眠ってしまったからだ。

僕も昨夜からバタバタが続いているので疲労が溜まっているのだが、流石に運転手が眠るわけには行かない。

 幸い、石郷岡さんから目的地の大雑把な場所は聞いていたので、迷いながらも到着することができた。時刻は午後六時の少し前。まだ日は高く、外は暑い。

石郷岡さんもこの蒸し暑い車内で、よく寝られるものだ。

「あら、着いてたの」

 車は公民館の駐車場に止まっている。この築年数が僕のダブルスコアくらいありそうな古めかしい公民館が、目的地だ。

「ここで合ってますかね。北部公民館」

「合ってる合ってる。出水さんが居ないと、合ってても仕様がないのだけどね」

 そして、さあ行きましょうと言いながら車から降り、建物の中に入っていく。僕も石郷岡さんに続く。

建物は外観と同じく古さを感じる雰囲気であったが、不思議と懐かしさを感じさせた。

扉を入ってすぐ目に付くホワイトボードには、市が主催のイベントのポスターが貼ってあり、その横には会館時間の告知がある。

どの地方の公民館も似たようなものだろう。喧騒やプレッシャーとは無縁の、どこまでも穏やかな雰囲気。

幼い頃、よく誰かと行った気がする。姉と僕と、後一人と。何をしたっけ。そうだ、プラネタリウムを見たんだ。

「能村君、どうしたの?」

 石郷岡さんは既に、ミッションを達成していたらしい。彼女の隣には、小柄な老人が居る。待ち合わせ用のソファに座り、こちらを見ている。

目が合うと、会釈をされたので、慌てて近くまで駆け寄る。

「彼は?」

「私の助手です。あまりお気になさらず」

 僕は出水博信に挨拶をする。

「能村です。石郷岡の助手です」

「これは遠くからご足労おかけしました。このような田舎に来て頂いてありがとうございます」

「いえ、恐縮です。こちらが御用があるのですから、伺うのは当然です。どうでしょう、ここでは人の目がありますから、場所を変えませんか」

 そして、僕らは建物を出る。出水博信が先頭を切り、近くの喫茶店に移動する。

「あんまりぼんやりしてないでよね」

 僕が公民館でポスターに気を取られていたのを指しているのだろう。

「すいません。なんとなく、懐かしくなってしまって」

「気をつけてね」

 石郷岡さんはそう言うと、出水博信の元へ駆け寄った。きっと本題ではない取り留めのない話だろう。最近は暑いですけれど、お加減は如何ですか?なんて。

 そして僕らが入った喫茶店はこれもまた、いい風に言えばトレディショナルで、悪く言えば古いお店であった。時間が夕飯時なためか分からないが、お客は僕らしか居ない。

「それで、本日はどう致しました?」

 窓際の席に座りひと心地つくと、出水博信が口を開いた。先程も思ったが、小さな老人だ。それは背丈だけでなく、声や僕らにも丁寧に接する態度がそう思わせているのかも知れない。

出版を取りやめさせようとするほど文句を言う老人には思えない。

「ご依頼の報告と、ちょっとした確認をしようと思いまして」

 出水博信ははあ、と気を抜けた返事をした。ただの報告であれば電話で事足りる。直接蒲郡まで訪れるのは、腑に落ちないのだろう。

『ちょっとした確認』というのが今回の目的で、わざわざここまで来た理由なのだがそれは後に分かることだ。

「まずは報告を」

 そして石郷岡さんは話を始める。内容は僕も知っていることだ。『青い一日』に関する関係者の一覧。出版がどこまで進行しているか。

そして岩永あかね達のこと。

「出水さんが当初お考えだった、彼女達が金銭目的で被害者家族の皆さんを利用しているという点は誤りだった、というのが私達の結論です」

 これは僕の持ってきた取材メモの写しと、石郷岡さんの大学、出版社への聞き取りによって明らかになったことだ。

特に、岩永あかね達は大学の卒業制作の一環として本の作成を行っているため、それに寄って得た収益はすべて被害者家族にお渡しするつもりだそうだ。

しかし、大学と金銭的なやり取りの詳細が決まっていないため、まだ情報を公開していない。僕が橘深雪の愚痴を飲み屋で聞いている頃に、石郷岡さんは岩永あかね達の指導教官を問い正し、口を割らせたらしい。

「つまり、彼女達が『青い一日』得られる金銭は、結果的に出水さん達に還元されることになります。この事実は何よりも重要なことであると思い、直接報告に参りました」

 石郷岡さんは依頼人のために行動する。しかし、それは必ずしも依頼を完遂するということではない。出水博信が金銭を求める人間であるのならば、この状況は依頼を取り下げるのに十分だ。

「そうですか。あの子達は本当に事件を忘れられない様にするために、動いてくれてたのですか」

 出水博信の声は少し震えている。岩永あかねと出水博信の間にどのようなやり取りが合ったのか分からないが、きっと岩永あかねは彼女の青臭い目的をそのまま伝え、出水博信はそれを信じられなかったのだろう。

「私達も、彼女たちに出水さん達を害する意思がないと分かった以上、出版を妨害する行動は取りたくありません」

「それはつらいことを依頼してしまいました」

 出水博信は石郷岡さんと僕に頭を下げる。そこで僕はやはり疑問が湧く。こんなに低姿勢な方が、僕らを雇ってまで出版を妨害させようとするか。

「あの、出水さんは何故出版をやめてほしかったのですか?」

 我慢できずについ、口が先走ってしまった。既に聞いていることを聞き返すのはプロとしてあるまじき行動だ。あとで石郷岡さんに怒られるかな。

「ええ、息子家族がいなくなったことなんて、思い出したくないですよ。まして、それでお金を稼ごうだなんて、とんでもない。罰当たりな行いです。私だけでなく、他の近所の方も怖い思いをしました。

みんなの意志だったんです」

「みんなですか。じゃあ僕らへ依頼したのは、色々な方が話し合って決めたということですか」

 勝手に質問をした僕を睨む石郷岡さんだが、出水さんの答えを聞くと驚いた顔をした。知らないことだったのか。

「そうです。ここらへんは私達の事件があってから、一人で外を出歩かないとか警戒をしなくてはいけませんでした。

なにより、無差別に人を襲う人間が歩いていると思うと、外を歩けませんよ。それに、息子家族をなくして幼い孫を引き取って大変だった私達夫婦を助けてくれたのは、昔からのご近所さん達です。

私一人で決めるなんて、とても」

 やはり、出水博信は自分の意思で僕らに依頼をしたのでは無いのだ。きっとご近所様の後押しによって、否応なく行動させられたのだ。

「それに最近は、伴さんも来られないし。ええ、依頼を取り下げるのもいいかもしれないですね」

「出水さん、その伴という方は?」

 石郷岡さんが質問する。僕がきっと違う話題に深堀りしそうなのを察したのだろう。分かりました、後にします。

「伴さんは、その、どういう方なのですか」

 石郷岡さんは伴文明を知らないのか。どのくらいの期間に渡り調査したのか分からないが、出水博信側の人間には手が届いていないらしい。

だが僕は知っている。そうか、橘深雪が飲み屋で言っていた伴は、ここに行き着くのか。

「伴さんはね、僕らが本で困ってる時に相談に乗ってくれたんだ。あんな悲しいことで金稼ぎなんてさせない、って」

「それで、事件に関係ある人なのですか」

「当時、ここらへんに住んでたと言ってましたな。伴さんが色々働きかけてくれたみたいでしてね。岩永さんとも、伴さんが話し合ってくれたんですよ」

「今はもう、関わりがなくなられたのですか」

「ええ、つい先日。『申し訳ないが、私はこれ以上の活動は控えます。投げ出して申し訳ない』って。随分謝られて、気にせんでいいのに」

 それを聞いた石郷岡さんは考える様に、ティーカップの珈琲を見つめる。口を挟む気がしないので、僕も珈琲を飲む。既に冷めているが、ほんのりとした苦味で頭が冴えてくる気がした。

気のせいだと思うけど。

「その伴さんに何があったのか、気にはなりますが私達とは関係が無いと考えていいでしょう。話を戻しますが、出水さん、調査の方は如何致しますか」

 伴文明が今現在どうなっていようが、関係がないと本人が言い切った以上、僕らは気にしなくて良い。問題は出水博信がどうするかだ。

「周りの皆さんもね、伴さんがやめるなら、もういいかしらって言っててね。私もそれに倣いたいのですが……」

 出水博信は口をつぐんだ。言いづらいことがある、だが聞いて欲しいという態度だ。僕なら無視するが、

「何か、心配事がありますか?」

石郷岡さんは聞くだろうな。

「実は最近、孫が会社に行っていない様なのですよ。この本と関係があるか分かりませんが、あの子がなんて思うか」

「もしかして、ご両親を亡くしておられる?」

「ええ、あの事件でね。私達よりも、ずっとあの子が傷ついていたでしょう。幼いときに両親を同時に亡くしたのですから」

 そして僕は、我慢が出来ず口を挟む。ムズムズする気持ちが耐え切れないのだ。

「お孫さんのお名前、教えてもらえます?」

「ええ。洋世といいます。出水洋世」


「結局、出水さんの依頼を受けちゃったんですね」

 僕らは出水博信と別れると、無駄な口を一切聞かず、車に戻り帰路に着いた。出水博信は、バックミラーから彼の姿が見えなくなるまで、ずっと頭を下げていた。

 あの後、出水博信の依頼は僕があまり気が向かない方向へ転がった。曰く、孫が会社に行かない理由を突き止めてくれ、だそうだ。

「出版取りやめよりも、だいぶ簡単な仕事でしょ。それに、おじいさんの気持ちも分かる。自分より悲しい思いの人が居るって思うと、気が気でないよね。それに……」

 僕らは出水博信の孫で、ここ最近会社に行かなくなった出水洋世について、クリティカルとも言える情報を持っている。

「橘深雪の取材メモ。これが原因だってのが、僕らの予想ですよね」

「まだ決まったわけじゃない。でも、可能性は高い」

 橘深雪のメモには、出水洋世は質問のほとんどに回答をしていないようだった。それがどのようなことを意味するのか、まだ分からない。

いい予感はしないというのは、僕も石郷岡さんも感じるところだが。

「でも当初のミッションは達成できた。運転手ありがとう」

 石郷岡さんが定めていたミッションは、『出版取りやめという依頼のハードルを下げる』だった。

石郷岡さんが調べた結果、出版は既に準備体制に入っているらしい。警察沙汰など、よっぽどの理由が無い限り、取りやめるということは難しいそうだ。

この事実を多分、岩永あかねは知っている。だが、警察という機関に頼ることを避けるために、橘深雪や作木光昭の前で嘯いているだけだ。

「残念だけど、私達では無理としか言いようがない。だから、出水さんの妥協点を見つけるのが目的だった」

「意外に紳士的というか、穏やかな老人でしたね。出水さん」

「多分、周りの声に押し切られたのね。特に伴って言うのが原因でしょ。何者なのか知らないけど、何がしたかったのかしら」

「本当に気に入らなかったんじゃないですか。居るじゃないですか、正義の人」

 僕は少しだけ馬鹿にしたような口を利いた。

「自分の正義感だけで行動して、当事者でもないのに出張ってくる善意の部外者。信念で動くから、始末が悪い」

「伴ってのがそれってこと?信念があるのはいいことだけど、今回はどうなんでしょうね」

「出水さん達も、伴がいなかったら僕らに依頼なんてしなかったでしょ。そうすれば、いらない仕事が無くなった。ハッピーじゃないですか」

「そんな簡単な話しじゃないでしょ。少なくとも、出水さんはわだかまりを抱いたままだった。それが少しでも納得に近づいた。

彼の成果じゃないけど、結果だよ」

 石郷岡さんはやけに伴の肩を持つ。きっと信念で行動する人間が好きなのだ。気に入らない。

「まあそれはそれとして。出水洋世の方はどうします?」

「あら、それは明日以降の話?能村君、手伝ってくれるの?」

 そうだ、僕は今日までの助手だった。ならば今後の調査方針なんて、気にする必要はない。

「いえ、手伝いませんよ。僕も僕の仕事が待ってますから」

 それもきっと体力系の。石郷岡さんこそ手伝ってくれないかな。むしろ代わって欲しい。思い切って打診してみるかと思ったが、横を見ると石郷岡さんは目を瞑っていた。

既に会話は終わったと言わんばかりだ。流石にまだ眠っては居ないだろうけれど、起こすほどのことではない。

僕はなるべく揺れが少ないように、少し速度を落として石郷岡さんのマンションを目指した。

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