2.4

 吊院事務所に行く前に、自分の下宿先に帰り一眠りしようかと思った。だが、朝から騒動に巻き込まれていたおかげで石郷岡さんとの約束を無視していたことを思い出し、足を事務所に向けることにした。

「だって作木の野郎、スマホを触ろうととすると怒鳴るもんな」

 あんな暴力的な男が、二人の女性から好意を集めて居るのかと思うと複雑な心境だ。

やはり女性はあのくらい強気な男の方が好ましく思うのだろうか。確かに小柄で軟弱な僕よりも男性的な魅力を感じさせるのは間違いない。事務所で石郷岡さんに強気に出てみようかな。

いや、出てみるぜ。気持ちを新たにする。精神に、身体は追随する。

 それはそれとして、岩永あかねのキャラクタも僕には中々つかめなかった。初めは高圧的な人格でデフォルトなのかと思ったが、二人になると一転して弱気になった。

ギャップのある性格というより、不安定なのか。この変化も『青い一日』に記されているのだろうか。しまった、岩永あかねと二人切りになったた時に原稿を僕にも貸してもらえるか、聞いてみればよかった。

それが読めれば、僕のこの件への興味はほぼ完遂される。橘深雪には交渉出来る状態じゃないし、きっと岩永あかねにしか尋ねようがない。

「やあ、おかえり。今日はゆっくりな出勤だね。来ないかと思ったよ。寝坊かな」

 そんな自問と反省をしていると、あっという間に事務所に着いた。そして迎えるのはやっぱり石郷岡さんだ。時刻は十三時。いつもよりもずっと遅い出社だ。

「いえいえ、僕が寝坊なんてするわけじゃないですか。ちゃんと目覚ましで起きましたよ」

石郷岡さんは事務所の隅の一人用ソファという、いつもの定位置で弁当を広げている。僕もお腹が空いたな。

「じゃあ、なんかトラブった?」

「ええ。大胆な事件に巻き込まれました。聞きます?」

「苦しゅうない、話せ」

 苦しゅうないってこういうタイミングで使う言葉かな。時代から違うか。それにしても偉そうな言葉が似合うな、石郷岡さん。そして僕は事務所に入る前の決意を思い出す。強気で男性的に。やってみよう。

「話して欲しかったら、俺の隣に来いよ」

 僕は自分の座るソファの、空いている右側を叩く。まるで犬猫を呼びつけるように。

「あ?」

 すごく睨まれた。というか僕が完全に間違えた。これじゃあまるでセクハラ中年だ。石郷岡さんに怒られても無理はない。仕切り直し。

「聞かせてやるよ、俺の物語」

「……」

 石郷岡さんは無言になった後、僕を手招きして自分の元に寄らせる。そして自分の弁当箱からお手製の玉子焼きをひとつまみし、僕の口に放り入れた。甘目でおいしい。

手作りの玉子焼きなんて何年ぶりだろう。懐かしい気持ちになる。

「大変だったね。お姉さんに話してみ?」

 そして慈愛の表情の石郷岡さんが目の前にいた。思わず姉を思い出す。

「あ、はい」

 強気は僕には向いていないらしい。また不得意が増えてしまった。


 石郷岡さんの玉子焼きで胃袋が刺激されたのか、我慢できず、コンビニで昼食を買いだして二人でランチと洒落こむ。

話のネタは今朝の事件だ。昨夜に橘深雪と偶々出会い、そして襲われる現場に遭遇し、濡れ衣を晴らすまでのスペクタクルな物語を情緒豊かに、さも吟遊詩人かの様に歌い上げた。

僕の右手にはリュートの代わりにサンドイッチしか握られてないが。

「朝から本当にバタバタしたのね。とりあえず無事で良かった」

 石郷岡さんは僕がこれほどの面倒に巻き込まれていたとは思わなかったようだ。僕だって『朝、大変でした』と言われたら、目覚まし時計が止まっていたくらいの話しか期待しない。

まさか暴行事件の容疑者にされていたとは露と思うまい。

「私の知らないところで色々と情報を掴んでいたようね。流石能村君、優秀な助手」

「ほぼ完全に巻き込まれた結果ですけれどね。こっち側のキャラクタは、結構な部分を把握できたと思います。人間関係も見えてきてます」

 橘深雪、作木光昭、そして岩永あかね。この三人の関係を、ただの大学の同期と言い切ると言葉が足りていない。

作木光昭は橘深雪から好意を勝ち得ている。これは確実だ。そして岩永あかね。彼女は分からないが、橘深雪の言を元に考えるなら彼女も作木光昭に好意を寄せている。

そして肝心な作木光昭は、岩永あかねに寄っている。これは橘深雪も言っていたことだけど、僕の直感半分。根拠は特になし。

「つまり、橘深雪が若干不利な三角関係ね。それで愚痴るために能村君を拉致ったと。あーやだやだ女子っぽい」

 石郷岡さんはそう言うと、まるで周りに不快な匂いがあるかの様に、手で周りを仰ぐ仕草をした。

「女子っぽいですか。そいうの僕には分からないですね。誰だって愚痴を溢したい日とかあるでしょ」

 石郷岡さんはふっと軽く笑う。まるで分かってないわねと言わんばかりだ。

「まるで女心を分かってないね」

 はっきり言われた。

「あのね、グズグズの三角関係するよりも、はっきり告白したほうが楽になると思わない?それをしないで、ほとんど赤の他人の能村君に愚痴るだなんてナンセンス。

意味がない」

 女子っぽいというか、なんと言うか強い人の意見だ。僕は弱い人間だから、決断できず、蚊帳の外の人間に愚痴りたくなる気持ちはよく分かる。

「女子っぽいのはそこじゃないよ。その橘ってのが能村君を仲間に引き入れようとしたことよ。彼女、自分の身体をダシに、岩永あかねの弱みとか握ろうとしたんじゃない?

新聞部のちょろい男に調査させてさ。そうじゃないと、ほぼ初対面の男を部屋まで招くとかしないって」

 そうだったのか。純真だった僕は本当に橘深雪は泥酔していただけなのだと信じきっていた。

「女性って怖いですね。そこまでするのですか」

「怖いのは男性も変わらないって。本当にそんなことしようとしたのかは、本人の胸の中だけどね。ところで、彼女はどこに入院してるの」

 詳しくは聞いていないが、大学病院だろう。作木光昭も入院していたし、お気に入りの病院というのはあまりコロコロ変えたりしないものだ。何なら後日聞いても良い。

「話を聞かないといけないからね。そのうち行ってきなよ」

「え?なんでですか?僕は特に用はないですよ」

 僕はもう、彼女たちの判断では橘深雪の事件の容疑者では無いのだ。僕が出る幕は無い。石郷岡さんの言うことを聞いていれば任務完了。楽しい金満夏休みの到来になるはずだ。

「作木の依頼、受けるんじゃないの?」

 石郷岡さんは当然、と言った口調でそう言った。僕は作木の依頼なんて無視するつもりで居た。

「嫌ですよ。あんな奴の言うこと聞くなんて」

「それは解るけどね。でも、契約違反しそうになったんでしょ?能村君と作木の間の契約がどんなのか知らないけれど、放置しておくのは問題あるんじゃない?」

 吊院探偵事務所では依頼人と僕ら探偵の間で契約を行い捜査等々を行う。その契約内容は僕ら担当が追記することが認められている。

つまり、僕は以前の依頼人として訪れた作木光昭と探偵として契約を結び、ちょっとした追記もしたわけだが、これは今は関係無いので割愛する。

契約違反をした場合、基本的には違約金が発生する仕組みだ。だが、それはこちらから依頼人にしないで欲しいということを、あらかじめ提示するのが目的だ。

作木光昭の様に、金さえ払えば破っていいという認識をされると、正直困る。

 そして僕は、そういう認識を当たり前の様にするところが気に入らないのだ。

「確かに契約違反は嫌ですけど、この契約はそこまでヘビーな内容じゃないです。金を盾に破られるとむかつきますけどね」

「なら受けちゃえばいいじゃない。七日の身辺警護なんて、簡単じゃない?」

「石郷岡さん。僕は体育会系な仕事は嫌なんですよ。それにもう一回殴られてますし。僕のカラーじゃないですよ」

「カラーなんて言えるのは一人前だけだよ。私も君も仕事を選べるほど優秀でも偉くも無いよ」

 石郷岡さんの真面目節が出た。たかだかアルバイトにそんなプロ意識なんて期待されてないと思うが、それで終わらないのが石郷岡さんなのだ。

常に最善のための努力を惜しまず、自らを謙虚に。

「やるにしても、僕一人で作木と岩永の警備はできないですよ。身体は一つですし。あとは石郷岡さんのお手伝いもできなくなります」

「そこは依頼人と相談したら。作木なんて護衛が居るのか疑問だし。あ、でも一度殴られてたんだっけ?最悪、だれか他のメンバ使えばいけるでしょ。

私のサポートは今日まででいいよ。昨日から知らないところで頑張ってくみたいだしね」

 乗り気にはまだまだなれていないが、石郷岡さんがここまで譲歩してくれた以上、僕が我儘を言うのは野暮だ。

「分かりました。僕は作木の依頼を受けますよ。それでもって、今日限りで石郷岡さんのサポートは切り上げます」

 その言葉を聞くと、石郷岡さんはそれでいいと微笑んだ。石郷岡さんはサポートがいなくなり仕事が増えたのに、何故嬉しそうなのだろうか。

なんとなく、それを聞くのが一番野暮のように思った。

「さて、ご飯を食べたら行きましょう。今日までサポートなんだから、全力で手伝ってもらうよ」

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