2.3
僕が昨夜に初めて見た橘深雪の部屋は、物が整理され、パーティ会場で彼女を外から見たように整った印象を与えた。
だが、今はどうか。彼女と居酒屋で話したとき、彼女の印象は恋愛感情を中心として、散らかったように思えた。
友情を取るか恋愛を取るかというチープな悩みと簡単に言い切れるのは、他人だからだろう。本人の中では複雑で、難解な問題になっているはずだ。
散らかって、ぐちゃぐちゃになって。
それは丁度、今の橘深雪の部屋のように。
「ひどい……」
綺麗に整頓された収納棚は中身がすべて吐出され、衣類から電子部品、大学の講義資料まで、すべてが床の上で一緒に混ぜ合わされている。
フード男の目的は、僕の予想通りこの部屋の探索だったのだろう。ならば、僕らが出て行った後に探索を行うのは合理的だ。
そして、僕ら戻ってくるまでに彼が仕事を済ませるには、このような汚れた有り様になるのは仕方なかった。
「橘が見たら、泣いてしまうな」
軽口ばかりの作木光昭も、この有り様には思うところがあったのか。初めて気遣うような発言をした。
「この有り様ですと、何を盗られたか分からないですね」
「深雪本人でも難しいかも。どうしよう……」
今まで狼狽える態度とは無縁に思えた岩永あかねも、この惨状をどう判断していいか決めあぐねている。
「警察に知らせては?ここまでされて、友人も襲われて、まだ自分たちの中に仕舞っておくつもりですか」
遅すぎる提案ではあるが、彼女達のこの異常な状態を思えば当然の判断だ。
「でも……」
「このままですと、次は誰が襲われるか分かりませんよ」
作木光昭、橘深雪が襲われたのだ。次は岩永あかねが襲われると考えるのが妥当だ。
それは先程から分かりきっていることだと思ったが、犯行の有り様を見せられて改めて自覚させられたのか。
「あと一週間。それだけでいいのよ」
七日程度で出版になるのか。いや、具体的には後戻りできないところまでフェーズが進むというところか。これが長い時間なのかどうかは分からない。
「警察に行くかどうかはお任せしますよ。ともかく、僕が犯人でないことは分かっていただけたと思います。もう、行ってもいいですよね」
そうだ。警察に相談するかどうかは彼女達の問題だ。仮に警察に相談してもらえたら、僕と石郷岡さんのお仕事がそれで終わる。
それは嬉しいが、サポート役の僕が仕事を終えてしまうのは出しゃばり過ぎだ。活躍も、行き過ぎるのは良くない。なぜなら次に難しい仕事を任されてしまうからだ。
ここから帰ったら、事務所に行かないと。橘深雪のことやフード男。石郷岡さんに伝えなければいけないものがたくさんある。そういえば、石郷岡さんと作戦会議をする約束だった。
「待てよ。お前さ、俺達の依頼を受けてくれねえか」
作木光昭は唐突に僕に声を掛けた。こいつは何を言っているのだ。僕はあくまで幾楠大学新聞部の学生としてここに居る。なぜここで、依頼なんて単語が出てくる。
「一体何の話をしてるんです。依頼って何を」
「しらばっくれるなよ。いいだろう別に」
「良くないですよ。何のことだかさっぱりわからない」
「依頼は単純だ。俺達を出版まで守って欲しい。もしくは橘を襲った奴の、フード男だっけ?そいつの排除だ」
作木光昭は僕の意見など、聞く気が無いらしい。
「能村君、幾楠大学の新聞部じゃなかったの?新聞部にお願いするようなことじゃないと思うけど」
岩永あかねは知らなかったのか。だが、そこまで驚愕といった様子ではないあたり、怪しいと思われていたのかも知れない。
「違うぜ。俺は新聞部とは仲がいいからな。岩永からこいつらのことを聞いて怪しいと思ったよ」
「そうなの。なら早く言ってくれればいいのに。能村君、本当?」
岩永あかねは確認の意味を込めて、僕に聞き直した。言い訳をするのが僕の役目なのだろうが、ここまで完全に見抜かれていると潔く認める方が良さそうだ。
後で石郷岡さんに怒られるだろう。怖いけど、見抜かれるような嘘を吐いたのも石郷岡さんだ。
「ええ、そうです。作木さんの言う通りですよ。探偵事務所ですけど、便利屋という認識で何の間違いもないです。嘘を吐いていたことは謝ります」
「別にいいわ。それで何の用事で嘘を吐いていたの?」
「それが言えないから、嘘を吐いていたのです」
自分の身分を明かすのは構わないが、調査の内容はとてもじゃないが言えない。あなた達の出版を取りやめさせるためです、なんて言ったら、作木光昭に殴り殺されるだろう。
「時間の無駄を省くために予め断っておきますが、僕の目的は口が裂けても喋りません。これは僕の唯一に近いプライドのようなものです。
そして依頼のことですが、受ける受けないというのは僕では判断できないので、後日回答とさせて下さい」
実際は僕が担当する限り、僕の一存で依頼を受けても構わないのだが、僕はこの依頼を受ける気はさらさらないので、逃げ口上を言った。
受けない理由は単純に石郷岡さんの助手で忙しいこと、そして作木光昭が気に入らないということの二つだ。特に後者の要因が大きい。
「この人は信用できるの?私は分からないけれど」
「以前俺は頼んだことがある。そのときは……」
そこでどんっと大きな音がなった。それは僕が拳を裏拳の要領で壁に叩きつけたために出た音で、それで目的は達せられた。作木光昭が黙ったからだ。
「なんだよ」
「分からないわけじゃないだろ。契約違反だ」
僕の敵意というのを受け取りながら、作木光昭は平然と睨み返してきた。自然と言葉遣いが悪くなる。岩永あかねは少し怯え、僕と作木光昭を見比べている。
彼女は事態についていけないだろう。だが、説明はしない。
「分かってるよ。まあ頼むわ。金払いが約束されてるし、七日間俺達に付きっ切りになるだけだ。楽なもんだろ」
「楽かどうか決めるのはこっちです。後日連絡します。気長に待ってて下さい」
「明日までに」
そう言って、作木光昭はもう用はないと言わんばかりに部屋を出ようとした。そして扉近くに立つ僕と彼がすれ違う。
「悪いな。俺も必死なんだ」
岩永あかねに聞こえないくらい小さな声で、僕にそう言った。
作木光昭が去った部屋で岩永あかねと二人きりになった僕は、どことなく居心地の悪さを感じて出て行こうとした。
岩永あかねは荒らされた状態の橘深雪の部屋を、少しでも片付けていくらしい。僕も手伝おうと提案したが、彼女にあっさりと断られた。
「さっきは……その……」
岩永あかねは改まった態度で口を開いた。だが、何が原因か、滑らかに言葉が出ないようだ。
「さっきがどうかしました?」
「その、ごめんなさい。濡れ衣を着せるなんて、ひどいことを」
そういって、深々と頭を下げた。先ほどの独善的な雰囲気はどこへやらだ。それどころか、泣き出しそうな震え声になっている。
「私、それだけはやっちゃいけないことだと思ってたのに……あなたが私達の邪魔をしてたんだって思うと……我慢できなくて」
涙声というより、もはや泣いていてる。独善的な態度は彼女のニュートラルな態度ではないのか。
「構いませんよ。それにあの状況じゃ僕を疑って当然です」
「それでも、本当にごめんなさい。うう……」
そして岩永あかねは本格的に泣き出してしまった。膝から崩れ落ちて、散乱した衣類と書類の中でしんしんと泣いている。
極端な人だなあ。ある意味で、すごく真っ直ぐな人なのか。自分の感情を黙っていることができないのか知れない。
「そんなに泣かないでください。大事なのは、本当に橘さんを襲った奴を捕まえることですよ」
「……うん。ありがとう」
少し幼児退行し始めた。もしかしてこれが素なのか。
「やっぱり警察はダメなのですか。この状況、僕らでどうにか出来るとは思えません。荒事に巻き込まれるのは僕らも歓迎できかねます」
警察に行くかどうかは僕には問題じゃないが、身辺警護なんて依頼は歓迎できない。
僕は運動神経がマイナスに抜群だし、今は事務所にアルバイトがほとんど居ない。平時なら、まだどうにかできたかも知れないが、タイミングが悪い。
だからと言って捨ておくのも気分が悪い。作木光昭はともかく、この女王なのか幼児なのか分からない女性が標的になるのは最悪だ。
「やっぱり、警察は嫌。本が売れなくなるってこともそうだけど、警察は、嫌」
岩永あかねは警察に忌避感があるらしい。こういう人は一定数居る。警察が担う期待が大きいゆえに、それが果たせなかったときには大きく信頼が傷つく。
特に当事者であれば尚更だ。きっとそのような経験が岩永あかねにはあるのだろう。
「あと、光昭のこと。ごめんね」
作木光昭は僕に対して終始強気な態度を取っていた。僕としては腹立たしいが、岩永あかねが謝ることじゃない。
「僕が橘さんを襲ったかも知れないと思ったら、許せないでしょう。彼はまだ、僕への不信感が拭えていないだけですよ」
「そうかな。光昭があんな風に人に接するの、初めて見た」
「男にはそういうところがあるんです。誰にだって逆鱗があるんですよ。あっさり引かないような、怒りのツボが」
「逆鱗か。ねえ、深雪と能村君ってどんな関係なの?もしかして前からの知り合い?」
岩永あかねは回復してきたのか、僕と橘深雪の関係を気にしてきた。思えば当然だろう。ハジメマシテのはずが朝まで飲んで、なおかつ部屋にまでお邪魔していたのだから。
「そんなことないですよ。正真正銘、パーティ会場で会ったのが初めてです」
納得してもらえるとは思わないが、事実は事実だ。そして僕は少しだけ、今頃眠っている橘深雪に思いを馳せる。彼女の話よりも、岩永あかねはいい人そうだ。
そして橘深雪本人も悪い人間じゃない。正直、似通ったキャラクタに思える。この二人の仲がひび割れるのは不憫だ。少しだけフォローをしておこう。
「余計なお世話かも知れませんが、橘さんとちゃんと話をしたほうがいいですよ。僕に、色々悩みがあると言っていましたから」
それを聞いた岩永あかねは、頷く。心当たりがあるのかも知れないし、そうでないのかもしれない。だが、彼女達の関係が好転することを僕は祈り、橘深雪の部屋を後にした。
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