2.1

 起床は一日のすべての気分を決定する。

穏やかな朝日によって目覚まし時計の小煩いベル音を聞くこともなく起床した日は、すべての問題もクリアに解決していき、幸せというに相応しい一日になるだろう。

今日の朝はその真逆と言っていい予感があった。なにせ僕を起こしたのは、目覚まし時計どころか、男の怒声だったのだから。

「起きろ!てめえ!」

 怒声の中でも最上級。罵声だ。目が覚めのまどろみの間に掛けられている言葉とは思いたくない。

「おはようございます」

 頭が回っていないからか、罵声に普通に返答してしまった。声の主の男は大柄で、筋肉質。僕の返答で更に気分を害した様だ。

「てめえ、なんでここにいる!橘に何をしやがった!」

 大男の声を聞いて、昨夜の記憶を段々と思い出してきた。そうだ、僕は橘深雪の家に居たのだ。そして、あの光景を見て気絶したのだ。

だから、僕が橘深雪の部屋に居ることに疑問は無いけれど、何故この大男に胸ぐらを掴まれているのだろう。そういえば、橘深雪はどうなった。彼女を襲っていた、あのフード男は?

「光昭、もうやめておきなさいよ」

 疑問を口にしようとしたが、まともに答えてくれるとは思えないな、どうしようかと思案をしていると、部屋に新たな人間が現れた。

昨日よりも一層苦々しい表情の彼女は、岩永あかねだ。彼女の声に従うように、僕の胸ぐらから男は手を離す。作木光昭は、それでも僕を睨んだまま視線をはずさない。

「橘は?」

「大丈夫よ。ショックで気絶しているだけで、すぐに目を覚ますって。念の為に検査するから二,三日入院はするけれど」

 橘深雪はどうやら病院にいるらしい。昨日の光景を思い出すと最悪の場合も考えられたけれど、無事だったようだ。

 だけれども、なぜ橘深雪の部屋に岩永あかねと作木光昭が居るのだろう。そしてなぜ、二人ともが僕にとんでもない悪意を向けてくるのだろう。だめだ、まだ頭が働かない。

「おい、どこへ行く」

 顔を洗いに洗面所に行こうとして、廊下へ続く扉に手をかけようとしたところを作木光昭に咎められる。なんだ、僕にはそのくらいの自由もないのか。

「顔ぐらい洗わせてくださいよ」

「その場で大人しくしていろ」

 作木光昭の高圧的な言い方に腹が立ったので強行突破してやろうかと思ったが、彼の体格を考えると僕が怪我をするだけの結果になりそうだ。というかこいつ、入院してるんじゃなかったっけ。

「ちょっとは落ち着きなさい。いいじゃない、顔を洗うくらい。目を冷まして頭が働かないと、自分の置かれている立場も理解できないのかもしれないし」

 作木光昭は岩永あかねの言葉に従って、扉の前から身体を動かす。その扉から出ようとすると、作木光昭は僕の髪を掴み、無理矢理自分の元へ引き寄せた。そして僕に耳打ちをする。

岩永あかねには聞こえないくらい、小さな声で。

「おまえが、橘をやったんだろ」


 トイレを済ませた後、洗面所で冷水を三度顔に浴びせかけ、目頭を指で抑える。ぼんやりとした頭がじんわりと冴えてきて、更に僕があまりよろしくない状況に居ることが理解できた。

 岩永あかねも作木光昭も何か用があり、橘深雪の部屋に訪れたのだろう。そこで何時まで経っても彼女が出てこないから、大家か何かに相談して部屋を訪れた。

そして、僕と橘深雪が倒れているのを見つけた。こんなところだろう。

「そう、それで正しい」

 岩永あかねは部屋に戻った僕の状況説明に、あっさりと答えた。

「そうだとしたら、あまりにひどくありませんか?橘さんは病院に連れて行って、僕は放置ですか。それどころか作木さんには胸ぐらを掴まれましたよ」

 僕も被害者だったということに思い至らないのだろうか。実際は僕の身体には異常が無いようだから、良かったものを。

「あんたは鼾かいてたからね。ひと目でなんとも無いのが分かったし」

「万が一、とか考えません?」

「ごめんね。君のこと、興味が無くて気が回らなかった。というか、君が襲ったんでしょ。えっと能村君だっけ」

 僕はもう完全に犯人ということらしい。とんでもない勘違いをされている。僕は橘深雪を襲ってはいない。僕は、フード男が橘深雪を襲っているのを見ている。

「僕じゃないですよ。僕以外の人間が橘さんを襲ったのを見てます」

「嘘をつけ。俺達が入ってきた時には、誰も居なかった」

 作木光昭は僕が洗面所から戻ると、そこが定位置と言わんばかりに扉の前に陣取った。僕は昨日と同じく、ピンクの星柄の座布団の上に座る。岩永あかねは橘深雪のベッドに腰掛けている。

二人から見下されているようで、気分はあまり良くない。立っていたほうが良かったかも。

「本当です。フードを被った男が襲ってるのを見たんですって」

「すぐに嘘はバレる。思いつきで喋るなよ」

「なんで嘘だと断言出来るのです」

「光昭、ちょっと待ってよ。能村君に昨日の夜に何があったのか、説明してもらいましょう」

 岩永あかねは作木光昭と違って、頭に血が登っていないようだ。冷静で居てくれてありがたい。僕は昨夜、橘深雪とたまたま会い、部屋で飲んでいたことを話した。

「それで、エントランスホールの自販機でジュースを買って戻ると、フードの男が深雪を襲っていた?」

「そうですね。その後は多分、そのフード男に殴られて気絶してたんですよ」

「信じられん。俺にはこいつが怪しく見える」

 作木光昭は本当に僕が気に入らないらしい。誰かが許可さえ出せば、今すぐにでも殴りかかって来そうだ。きっとその許可を出すのは岩永あかねだろう。見るからに忠犬と飼い主という関係に見える。

「もういいですよ。警察を呼びましょう。それで本当のところが分かる」

 僕の言葉聞くと、岩永あかねは更に渋い顔になった。その表情を見て、彼女が何を考えているのかを察する。

「呼ばない。警察は」

 やはりか。関係者が襲われたとあったら、出版の取りやめになることもあり得る。昨夜、橘深雪が言っていた作木光昭が襲われた事件と同じように、見なかったことにするつもりか。

「正気ですか。これで二人目でしょう?」

「私達の本が出版されたら、警察に届ける。今だけはダメなのよ。きっと深雪も分かってくれる」

 橘深雪の昨日の様子を見ると、それは無いだろう。きっとひと悶着あるのだろうが、今の僕には他人の未来の問題に思いを馳せる余裕はない。どうにかして、今の状況から抜けださなければ。

「警察を呼ばないとしたら、犯人をどうするんです?」

「自白の念書でも描いてもらおうかな。出版の後に警察に証拠として渡す。それで捕まえてもらうわ」

「お二人も、相当問題になりそうですよ」

「私達のことはいいでしょう。さ、一筆お願いね」

 岩永あかねは自分の鞄から、ルーズリーフを一枚とボールペンをテーブルに置いた。冗談じゃない。

「何度も言ってますけど、僕じゃない」

「フードの男だっけ。それはありえないよ」

 岩永あかねはそう、はっきりと言い切った。

「能村君の話だと、下の階からこの部屋に戻るとフード男がいたんだよね。でもこのマンションはオートロックよ。どうやって入ったの」

「そんなの、どうにでもなるでしょう。他の住人が入って来るときに一緒に入ればいい。それ以外にも、宅配の振りだとか。なんとでもなる」

「そうね、そうかもね」

 岩永あかねはあっさりと僕の意見を認めた。多分、彼女もその点は重視していないのだ。そこで僕は思い至る。彼らはどうやってこの部屋に入った?

「じゃあフード男はどうやってこの部屋から出て行ったの?」

「普通に、扉から……」

 そう、ここだ。きっとここに僕にとっての問題がある。

「私と光昭がここに来たのは、あかねが約束の時間になっても大学に来なかったからよ。三重に出かけるから、朝早くに待ち合わせしてたのだけどね。

それで万が一を思って、マンションに来た。そして電話しても出ないから、大家さんに部屋の扉を開けてもらった。

光昭の一件があったしね。部屋に入ると、あなたと深雪が部屋に居るのを見つけた」

「この部屋の鍵は?」

 確か僕は、橘深雪の部屋を出たとき鍵を掛けなかった。というより、鍵を持っていないから掛けようがなかったのだが。

「かかっていたわ。もちろん、窓にもね」

 岩永あかねもこの事実の重要性に気が付いているのだろう。僕が部屋で犯行を目撃したとき、部屋の鍵は掛かっていなかった。

「部屋の鍵は深雪のキーケースに入っていった。合鍵は大家さんが持っている一つ」

 だが岩永あかね達が来たとき、部屋の鍵がかかっていた。扉の鍵は、一つは部屋に。もう一つは大家の元に。

「あなたが言うように他に犯人が居た場合、どうやって鍵を掛けてこの部屋から出て行ったのだろうね」

 そう、鍵を掛ける手段が無いのだ。部屋の鍵を外から掛けたとき、当然であるが鍵は部屋の外に出て行くことになる。だが実際、部屋の鍵は橘深雪の部屋から見つかっている。

「どうにかして抜け出たんでしょう。鍵も、その、どうにかして」

「その言い訳が通じると思う?」

「あなたに通じさせる言い訳をする義理なんて、僕には無いんですけどね」

 僕の軽口に機嫌を悪くしたのか、黙っていた作木光昭はテーブルの足を蹴る。

「やめなさいよ。それで、もう言い訳はいいの?」

 いいはずがない。だがここで岩永あかねを納得させる言い訳は思いつかない。こういう時は、間瀬に相談したい。そうすれば大抵の問題は解決するのだ。

だが、ここはダメだ。この敵意に満ち満ちた空間が、僕の思考を鈍磨させている。くそ、頭痛がしてきた。

「少し、休ませてもらえませんか。僕も殴られてるんです。頭が痛くて」

「本当とは思えないな」

「あなた……本当に……」

 なんて女だ。僕は本当に被害者なんだぞ。これで倒れたら、それこそ警察沙汰だろうが。

「岩永、こいつ顔色悪いぜ」

「だから?」

「こいつがここで倒れたら、それこそ隠し切れない。橘を言いくるめるのとは意味が違う」

「別にいいじゃない。倒れたら倒れたで、埋めればさ」

 こいつ、本気で言ってるのか。僕の空想していた岩永あかねという人物像と大きく異なる。あの事件を通じて、人の命を軽んじた性格になったのか。ああ、本当に頭が痛くなってきた。

思考がまとまらない。横になりたい。

「おい、こいつ倒れたぞ」

「仕方がないわね。病院に連れて行きましょう」

 死にかけの脳を稼働させ、罵倒の言葉をぶつけようかと思ったが、もはや何も浮かばない。もう面倒だ。楽になろう。

スマートさは一欠片も無いが、これでどうにかなっただろう。

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