1.9

 足元がふらついた橘深雪に肩を貸しながら、彼女の家まで歩くのはなかなかの重労働だった。

体力的な負担はそれほどであるが、グチグチと喧しいのだ。

「ねえ、変なところ触っていい?」

「いきなり何を言ってるんですか。そういうのって、男が女に対してやるもんでしょう」

 あと、僕の身体には変なところなんてない。

「そういうのは男女不平等。こっちだって触りたい時があるのよ。あ、次の信号右ね」

「そういうもんですかね。あんまり興味ないですけど」

 じゃあいいわね、といって僕の太ももに手を伸ばしてきたので、身体をひねって躱す。ひゃんっといって橘深雪の身体がふらつく。

僕の身体が支えになって転びはしなかったが、非難がましい目で橘深雪は僕を見つめる。

「この道、真っ直ぐでいいですか」

「普通さ、一言詫びない?私、転びかけたんだけど」

「転ぶときの声、可愛かったですよ」

 性格悪い。そうぼやくと指で真っ直ぐ正面を指し示す。その方向へ歩く。

「光昭ならもっと優しくしてくれるのに」

「会いに行けばいいじゃないですか。大学病院なんて近いもんでしょう」

「あれ、私、光昭の入院してる病院がどことか言ったっけ」

「言いましたよ。橘さん、本当に酔ってますね」

「うるさいなあ。今日くらい見逃してよ。もう着いたから。ちょっと待ってて」

 橘深雪の家は、大学生にはちょっと過ぎたマンションだった。僕は橘深雪に肩を借しながら、オートロックの扉を開けて、エントランスに入る。

エントランスにはホテルさながらに、待合用のソファが設置されている。僕の安アパートの様に、入居者のマナー改善を促す貼札もない。清潔でシンプルな空間だ。

多くの光を取り入れるためだろう、全体的に窓が多い。そのためエレベータを待つ間、今更だが誰かに見られないか心配になってきた。

「何してるの。そわそわして」

「落ち着かないんですよ。あんまりこんな上等な建物入ったことがないから」

 このくらい普通よ、と言って二人でエレベータに乗り込む。橘深雪は良いところのお嬢様なのかも知れない。

「適当に座ってよ」

 橘深雪の部屋は建物の印象をそのままに、広めのワンルームだ。僕の部屋の倍はありそうだ。招かれるまま、ピンクの星柄の座布団に座る。

周りをぐるりと見ると、意外と物が少ない。もっとゴテゴテと物で溢れてると思っていた。

「ごめん、ちょっと私、シャワー入ってくる。暑くて気持ち悪い」

 橘深雪はそういって部屋から出て行く。女性が先にシャワーに入っているというシーンは色っぽいはずなのに、本当に気持ち悪そうで今にも吐きそうな顔を見ると、薬でも買ってきてあげたくなる。

僕も酔っては居ないが、暑くて気分が悪い。失礼かもしれないが、冷蔵庫を開けさせてもらう。ミネラルウォーターを拝借。

水を飲んで一息つくと、冷蔵庫の横の小さな棚の上の資料が目に付く。取材メモ。これはきっと『青い一日』の取材に関してだろう。

 橘深雪のプライベートな悩みに気を取られていたが、本来、僕は彼女達の出版を中止させたい側なのだ。違法な取材の痕跡などがあれば、直ぐにでもこの仕事を終えられる。

それを期待し、取材メモを開く。流石にこのシーンを橘深雪に見られたら洒落にならない。吟味はせずに、最新の日付からデジタルカメラに記録していく。機械的にシャッターを切る作業を行っていると、後ろの方のページで気になるところがあった。取材対象:出水洋世。これは僕らの依頼人の関係者か。念入りに画像に納め、メモを元の位置に戻す。内容を確かめるのは事務所に戻ってからだ。

 そして僕がこの部屋に来た目的は、酔っ払いの介護だけじゃない。まして送り狼になるためでもない。『青い一日』の原稿だ。女性の部屋で、他の女性に心をやっているのは失礼かもしれないが、僕の心は今、岩永あかねで占められている。彼女が反対を押し切り、友人が怪我をしてでも世に送り出そうとして訴え。きっと、僕が知り得ないほどの熱量が占められているはずだ。友人の死を見せつけられた後にどう彼女が変わったのかを、僕に見せつけて欲しい。共同著者である橘深雪の部屋なら原稿がある可能性が高い。

 橘深雪のシャワーを浴びる音が聞こえている間、『青い一日』の原稿を探して部屋を漁る。もちろんタンスの棚や机の引き出しなど、元に戻すことを忘れない。

目に付く収納をひと通り見終えたが、それらしいものは見つからない。そこではたと気がつく。このご時世、本の原稿を紙で保管しているわけがない。大学のレポートだってデジタルで提出しているだろうが。

僕は馬鹿か。

 橘深雪のノートパソコンを漁ろうか、だが僕にはパスワードを突破できるような都合のいい能力なんてない。いっそ丸ごと持って帰って、事務所で誰かにパスワードを解除してもらうか。

くそ、ノートパソコンを入れる鞄がない!

 そうやってグダグダと思考しているうちに、シャワーの音が途絶える。つまり、橘深雪が戻ってくるわけで、僕のストーカー行為のタイムアップを意味する。取材メモが手に入っただけ大収穫だろう。

だが、それは石郷岡さんに褒めてもらえる程度のことであって、僕の本丸は手に入らなかった。むしろ千載一遇のチャンスを逃したと言っていい。くそ、くそ、くそ。

「ただいま。ちょっと回復したわ。勝手に部屋とか漁ってないよね」

 橘深雪は存外に鋭い。下手な嘘を着いてもすぐにバレるだろう。僕は正直に告白した。

「もちろん漁りましたよ。こんないいもの見つけちゃいました」

 そう言って僕は飲みかけのミネラルウォーターを放り投げる。ちょっと格好付け過ぎたか。

 空中のペットボトルを両手で受け止めると、橘深雪はそれを一口で飲み切る。僕が先に口を付けていたが、全く躊躇う気配はなかった。

「ありがと。能村君は入らない?」

 そう言うと、橘深雪は僕に微笑んだ。肯定するということは、別の行為を望むことを意味しているのは明白だ。

正直に言うと、僕は橘深雪とそういうことをする気はない。僕にはできない理由がある。

「橘さんって、作木さんに好意があるんじゃないんですか」

「関係ないよ。あいつはあかねが持ってっちゃうんだから」

 橘深雪は壁際の低いベッドに腰掛け、再び笑みを向けた。長い髪がまだ少し濡れていて、艶を増している。テーブルを間に挟んでいるはずのに、彼女の空気がこちらまで香ってくる様だ。

 きっと、橘深雪は自暴自棄の都合のいい相手として、僕でストレス解消というか、性的自傷行為の依代に使うつもりなのだろう。

そして朝になって冷静になった彼女は後悔し、僕とは距離を取る。それは困る。少なくとも仕事が終わるまでは仲良くしてもらわないと。

 それに、こんなありきたりで面白みの無い女を抱くなんて、吐き気がする。

「そういえば橘さん。僕とコイバナしたいんじゃないですか」

「さっきからしてるつもりよ。私が振られた腹いせをする話」

「身勝手ですね。僕の話も聞いてくださいよ」

 少し部屋が静かになった。橘深雪は、僕がそんな愛だ恋だの話をするようなタイプじゃないと思っている。その通りだ。僕にとって初恋は、呪いの様に自分の奥を蝕み続けている。

「僕にも好きな人が居たんですよ。意外かもしれないですけど」

「そんなことないよ」

「そうですか?僕は自分に驚きますけどね。でもその娘、僕じゃない奴と一緒になったんですよ」

「え、結婚しちゃったの?」

「違います。でも、分かるんですよ。本当に好きだったから、その娘が誰かに心を持っていかれちゃったのかが、分かるんです。橘さんだってそうでしょう?」

「……分かる」

「そうでしょう。そして持ってった人は、腹立たしいことに僕のよく知る人でして。すごく頼りになるいとこのお兄さんだったんです」

「……」

「格好良いし、仕様がないかなって思ったんです。でも、僕が気が付いたら二人ともいなくなっちゃったんです」

「え?どういうこと?」

「二人とも死んじゃったんです。それ以上の詳しいことは、僕にはもう思い出せません。そういうことなんです」

「……」

「僕の話はこれでお終いです。ところで、橘さんは作木さんが好きなんですよね。でも、作木さんは岩永さんに惹かれてる」

「やめてよ」

「岩永さんならいいかなって思ってます?」

「ねえ、本当にやめて」

「いいですよ。やめます。でもこれだけは言わせて下さい。作木さん襲われたんですよね。怖いですね。警察に届けてないなら、犯人はまた襲ってくるかも」

「やめてって!聞きたくない!!」

「作木さん、死なないといいですね」

 そして僕はばちんっと頬を叩かれる。それが橘深雪によるものだと気がつく。抗議の声をあげようとしたが、彼女の泣き顔がそれを妨げた。

「ごめん。ちょっと一人にさせて」


 出てけと言われてもおかしくないところを、ちょっと一人にしてと言うところを見るに、橘深雪は人間ができているようだ。

僕の様に気に入らないからといって、適当な話でいじめたりする俗人とは人としての各が違う。

 部屋を出てもマンションがオートロックである以上、建物から外に出ることはできない。1階のエントランスに降りると、自販機が目に付く。今日は熱帯夜だ。

喋り過ぎて喉が渇いた。適当に甘いものを買って、誰のために配置されているのか分からないソファに腰掛ける。窓に目をやると、自分の顔が写っていた。

「なんで泣いてるんでしょうね。僕は」

 きっと季節外れの花粉症だろう。決して悲しいことを思い出しているのではない。いけない。これ以上思い出そうとすると、頭が痛くなりそうだ。また、葬式の映像が頭を過る。

母の泣き声。おねえちゃんは、いつも、子ども部屋で、僕に内緒で何をしてたんだろう。しゅくだいなんて、うそついて。ぼくにはないしょで。

「文緒、助けて」

 僕を空想から現実に引き戻すのは、マンションのドアが開く音だ。当たり前だけど、ここには僕や橘深雪以外の人もいるんだ。いつまでもエントランスで泣き顔を引っ下げているわけにはいかない。

お手洗いで顔を洗って、橘深雪の部屋に戻ることにする。今晩は一人にするのが、空気の読める男の行動なのだとは分かってる。だけど、僕とて終電を無くした男だ。お世話になってもいいだろう。

むしろ、いじめすぎたことを謝りたい。まさか泣くとは思わなかったんだ。

 一人でエレベータに乗り、橘深雪の部屋のある最上階へ上がる。誰も居ない廊下を角部屋まで歩く。もう寝てしまっただろうか。彼女には興味がないが、綺麗な造形をしてると思う。

静かに眠る姿は、きっと美しいだろう。少しだけ、橘深雪という人間に興味を持てた。今までより少し優しくできる。誠心誠意、謝罪ができる。

 そして彼女の部屋の扉を開ける。僕が出て行ったあと、鍵は掛けなかったようだ。ありがたい。そしてリビングに入ると、橘深雪の穏やかな顔が目に入った。

だがそれは決して眠っているんじゃなくて、もっと暴力的な要因によって訪れたものだ。そしてその要因はすぐ目の前にある。僕よりも頭ひとつ大きい。フードを被った男だ。

その男の手の中に橘深雪の首が納められ、白い彼女の顔が百合の花の様に垂れ下がっている。つまり、フードを深く被った男が、橘深雪の首を締めている。その光景を理解した時、僕は絶頂した。

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