1.8

「私達の出版って結構反対されているのよね。『当時のことを思い出させないでくれ』って。なぜか被害者となんにも関係ないような人にも言われた。

私はやめても良かったけど、あかねは折れなかった。けれどそういう人を納得させる気もなくて、断固拒否というか、没交渉みたいな態度だった」

 この辺りの事情は石郷岡さんから聞いている通りだ。でも出水博信氏は息子家族を亡くしている。彼以外にも別に活動してる人間がいるのだろうか。

「初めは手紙とか、メールで活動を取りやめるよう求められた。でも最近、大学に直接乗り込んで来るようになった。

信じられないよね。全然事件に関係ない人が、『きっと被害者が嫌がるからやめてくれ』ってわざわざ言いに来るのよ。あかねじゃなくても、余計なお世話に思ったよ」

 脅迫まがいの手紙やメールで気に入らない相手を攻撃することはよくあるだろう。だが、直接乗り込んでくるのは珍しい。

「その乗り込んできた人って、名前わかります?」

「伴、って名前よ。名刺貰ったと思う。怖い雰囲気だったけど、『遺族が苦しむ』とか『そっとしてあげれないのか』とかずっとお願い調子だった。余計なお世話だって、あかねは帰しちゃったけどね」

 それで帰ってお終いにならなかったのだろう。

「繰り返し来たのですよね。最近も来ました?その、伴さん」

「先月までは来てたかな。その度にあかねが追い返してた。お互い没交渉って感じで、来ては鼻息荒くして帰って行った。あかねも機嫌悪いし、あいつが来ると雰囲気最悪」

 岩永あかねもここまで舞台を整えたのだ。赤の他人の横槍で、中止になどしたくないだろう。

「光昭が襲われたのは、丁度先週。大学の、私達が打ち合わせとかするミーティング室で頭を殴られて気絶していた。私とあかねが見つけた」

 大事には至らなかったものの、検査ということで入院。そして、今日のパーティには出席できなかったそうだ。

「私は直感だけれど、伴がやったと思ってる。光昭が襲われた時間は、伴が来ていて光昭がミーティング室で相手してた。あいつがやったとしか考えられない」

 でもきっと警察は呼ばなかったのだろう。岩永あかねというキャラクタを考えると、それが自然だ。

「そう。あかねは警察はだめだって。光昭も、必要ないって」

 警察に被害届を提出した場合、きっと詳細な調査の後、犯人が捕まる。橘深雪が考えているように伴が犯人だった場合、『青い一日』はきっと最悪な印象と共に報道されるだろう。

『暴行事件を起こしてまで、出版を中止させたかった本』。出版前の宣伝文句としてはパワフルだと思う。

だが、今まで以上の反対意見と多くの訪問者が現れるだろう。たった三人で相手できないことは明白だ。そしてズルズルと状況は泥沼化し、何時まで経っても出版は実現しない。最悪、裁判もありえるかもしれない。

「出版社の人には、伝えました?」

「伝えてない。きっと揉め事を避けるために、出版の約束も反故にするだろうしね」

 そうなれば、事件について知っているのは、岩永あかね、橘深雪と犯人と被害者ということになる。

「もう、ついていけないのよ。友達に怪我させても本が大事なあかねも、自分が怪我しても平気な顔してる光昭にも」

 そう溢す橘深雪は涙目になっている。これが誰かに打ち明けたい気持ちなのだろう。僕はこれを聞くために、彼女に選ばれたのだ。

「なら、抜ければいいじゃないですか。温度差は埋まらないですよ」

「何度も考えたよ。でもね、ここで抜けたら、私はもう光昭と顔を合わせられないからね」

 最後は消え入りそうな声であったが、僕の耳はしっかりと捉えていた。そういう感情があったのか。途端に悩みがチープに思えてきた。結局、抜けるも抜けないも彼女の意思だ。

青春の恋愛模様も少し危険なくらいが、いい思い出になるだろう。殺されたりしない限り。

 橘深雪に興味がなくなってきたところで、彼女はポツリと溢した。

「あかねなんて、いなくなっちゃえばいいのに」


 その後は『暗い話しは終わりっ』と急に明るく振る舞い、アルコールに溺れていった。

不幸なのか幸いなのか、僕はいくら飲んでも酔えない質であるので、橘深雪の酩酊していく有り様をにこやかに見守り、相槌を打つことしかできなかった。

彼女の持つ岩永あかねや作木光昭への不満の感情は、一過性のものなのだ。

色々ありながらも完成した彼女達の集大成の記念に来れないということが、彼女のフラストレーションを僕相手に爆発させる結果になったのだろう。迷惑な話だ。

「私、結構頑張ったんだよ」

 何杯目か数えるのも忘れたほどのビールのグラスを空にした後、顔を真っ赤にしながら橘深雪がぼやく。彼女の色んな感情のどれもこれも、この一言に凝縮されている気がした。

「大変でしたね」

 酔っ払い相手に感情的に相手をする気はないので、適当にあしらうことを三時間ほど続けた後、終電がなくなっていることに気が付く。

タクシーで帰るか。大出費になるな。そう独り言をつぶやくと、仕切り代わりの障子に身体を預けて眠っていた橘深雪がふわっと目を覚まして、言った。

「私の家、来る?」

 何を馬鹿な。僕は今日出会ったばっかりの女の人の家に行くほど軽薄になった覚えはない。何よりそんなことをしたら、間瀬に怒られてしまう。いや、もういいのか?

「こんな時間まで付き合わせちゃったし、私の家ここから近いよ」

 僕のためらいを見抜いたのか、橘深雪は畳み掛ける。正直、ここからのタクシー代を考えると彼女の部屋でお世話になるのはとても魅力的な提案だ。

「わかった。あのやり手っぽい小さい女の人が彼女なんだ。大丈夫。ばれない、ばれない」

「違いますって。あの人は彼女とかじゃなくて」

「へえ。でも、気になってるでしょ。私もコイバナしたし、話しなさいよ」

 橘深雪は僕の胸ぐらを掴んで、自分の方向に引き寄せて話しなさい、と年上ぶった口調で詰問してくる。橘深雪、めんどくせえ。パーティ会場の時と全然キャラクタ違うじゃん。

「分かりましたよ。初恋の話とかしてあげますよ。絶対、後悔しますよ」

「そうそう。初めからそうやって素直になってればいいのよ。さあ、行くわよ」

 橘深雪は僕の胸ぐらから手を離し、障子を開けようとする。だが、障子の取っ手が掴めないのか、何もない場所を握る動きを繰り返している。

「ちょっと、手を貸してよ。酔っぱらいよ、私は。気が利かないなあ」

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