1.5

 岩永あかねの挨拶が終わると、司会をしていた女性がマイクを請け負い、歓談の開始を告げた。

橘深雪さんだったか。彼女も『青い一日』の著者の一人。ざわつく声が会場を満たし始めた頃、僕と石郷岡さんはゆっくりと岩永あかねと橘深雪が居る壇上近くのテーブルに近づく。

「確認だけど、私達は今日はただの取材という体よ。岩永あかね達がどういうつもりで出版しようとしているのか、まずはそれを確認したいから」

 石郷岡さんから道中で聞いた話によると、岩永あかね達が世に送り出そうとしている『青い一日』を快く思っていない人間もいるらしい。

『青い一日』は被害者遺族へ綿密な取材に基づいて、事件前後の生活の変化や今なお続く苦悩についてまとめたものだ。この本が出版されることで、当時の悲惨は記憶が呼び覚まされる人もいるということだ。

 特に僕らに依頼をした出水博信氏は、事件によって息子家族を失っている。既に八十近いご高齢であるが、当時の記憶は鮮明に残っているそうだ。思い出させて欲しいものではないことは、想像が出来る。

「何より、人の触れて欲しくないものを晒しあげて、金銭を得ようとしているのよ。彼の憤慨も尤もだと思う」

というのは石郷岡さんの弁であるが、どうだろうか。本当にそっとしておいて欲しいのなら、こんな騒ぎに関わろうとしないものじゃないのか。

だが依頼者の思考回路は僕らには関係がないので、お仕事に没頭する。


 岩永あかねと橘深雪は二人きりのテーブルで食事をしていた。

ひと仕事を終えた後の特有の穏やかな空気を邪魔するのは心苦しいが、僕らも仕事だ。

打ち合わせ通り、大学新聞に掲載させてもらうための取材に来た幾楠大学の学生を演じる。

「失礼します。少し時間よろしいですか。私達、幾楠大学の新聞部の者でして」

 岩永あかねや橘深雪も幾楠大学の学生として、被害者遺族に対して同様の取材活動をしていたはずだ。ならば無碍に扱うことはないだろう、という石郷岡さんの予想だ。

実際に僕らは幾楠大学の学生であるから、全くの嘘を付いているわけじゃない。と、自己弁護してみると罪悪感がちょっと和らぐ。

「私達、今ようやくご飯なんです。後日にしていただけません?」

 岩永あかねは壇上よりも幾分柔らかい声色であったが、好意的でない内容を口にした。しかし、それで引いては仕事にならない。

「お食事の間だけでもお時間いただけませんか。ご多忙なお二方からお話を伺える機会はそうありません。

それに、同じ大学の学生であるお二方について、幾楠大学でも興味を持っている学生は多いのです」

 石郷岡さんは岩永あかねがプライドが高いタイプであることを見抜いたのだろう。

彼女を多忙なVIPとして扱い、また自分の後ろに幾楠大学の学生がいることを強調することで、断りにくい空気を出した。

 こんなイベントを開く様な性格なら、褒められることや注目されることが好きなのだろう。押せば取材くらい受けるはずだ。

「じゃあ、ちょっとだけなら。お掛けになって」

 岩永あかねは彼女の横で会話を聞いていたもう一人の女性、橘深雪に目配せをして、グラスを二つ持って越させた。そこに橘深雪は水を注ぎ、僕らに差し出す。

あまりに自然な動作のため、本当に橘深雪がこのレストランの従業員でないかと思わせる振る舞いだ。

「お二人は、どのようなご関係で?」

 石郷岡さんの付き人に徹しようと心に決めていたつもりが、疑問が突いて出てしまった。

しまった、と思う。このくらいのことは事前に調べておいて然るべきことで、岩永あかねの不評を買うかもしれない。

「大学の同期ですよ。別に、上下関係は無いんですけど、ねえ」

 僕が二人の振る舞いを不思議に思ったのが伝わったらしい。岩永あかねは先程までの余所行きの声とは違う、少し険のとれた声で橘深雪を見た。

「私が貧乏性で、何かと動いてないと不安になるんですよ」

 橘深雪もそう言って応じた。二人共、壇上で見るよりもずっと穏やかな印象だ。

「本を作るときも、深雪には頼りっぱなしでして。いくらお礼を言っても、言い足りないほど」

「具体的には、橘さんはどのようなことされていたのですか」

 空気が緩んだところで、石郷岡さんは具体的な話題に切り込んでいく。

 僕らの今回の取材は、出版の目的を確かめるためだ。依頼人の出水博信氏は出版を取りやめろと喚いているようだが、僕らはまず出水博信氏の主張を確かめる必要がある。

岩永あかね達が金銭を目的としているかどうかだ。仮に、岩永あかね達が印税を初め諸々の利益を寄付するなど言い出したのなら、出水博信氏はどのように考えるのだろう。

出水博信氏は、自分の悲惨な体験で若者が儲けようとしているのが面白くないだけなのだと思う。

僕の仮定が事実ならば、殊勝な若者の姿に案外あっさり出版を認め、僕らへの依頼を取り下げるかもしれない。

 僕は、正直なところ完成直前の本の出版取りやめなどできるほどの力は、吊院事務所のアルバイト風情にはないと思っている。ただの大学生だし。

つまり、ここで集めた情報で出水博信氏を説得する材料を揃え、穏便に済まそうと言うのが僕らのこの案件に対する態度なのだ。石郷岡さんがどう考えているのかは知らないけど。

「私は基本的には、色々な人に話を聞く役目です。被害者家族の方や、知人の方。九州まで行くこともありました」

「みなさん、どのような態度だったのでしょう。中には、お話を嫌がる方もいらっしゃったと思うのですが」

「もちろんいらっしゃいましたよ。無理に聞くようなことはしませんでした。それでも私達の出版を認めてくださるよう、書面はお送りしました」

 『東海地区連続殺人事件』は類を見ない被害者数とともに、長期間に渡った事件だ。また、犯人が捕まっていないという点も被害者家族を未だに苦しめる原因だろう。

そっとしておいて欲しい気持ちはよく分かる。その書面というのも、送らない方がいいんじゃなかっただろうか。

「その書面というのは、どんな内容なのですか」

 石郷岡さんも同じところに疑問を感じたようだ。

「あの事件を過去のものにしないため、出版を認めてください。という内容です」

 それまで橘深雪の回答を黙って聞いていた岩永あかねが口を開く。なぜだろう、少しだけ先程より顔色が悪くなっているように見える。

「みなさん、その書面には同意していましたか」

「お話した人達はみな、同意していただけました。お会いできなかった人がどう受け止めたのかは分かりませんが、きっと賛成していただけるでしょう」

「出版に反対されている方は、一人も居ないということですか」

 石郷岡さんの質問に、岩永あかねは黙った。出水博信氏が僕らに依頼をした限り、反対しない人間が居ないはずはないのだ。

「正直に申しますと、反対する方はいます。何度もお話をしていますが、まだ同意していただけないというのが現状です」

 橘深雪が、黙ってしまった岩永あかねの代わりに答えた。

「それでも、このようなパーティを開いたのは、その、反対されている方を刺激する結果になるのではないですか」

「反対する人間が間違ってるのよ。自分が受けた屈辱を社会に訴えずに泣き寝入りなんて。私は、間違ってない!」

 岩永あかねが叫ぶ。そして彼女は立ち上がり、呆然とする僕と石郷岡さんを置き去りに、テーブルを離れていった。

きっとこの会場から出て行くのだろう。なんなの一体。隣にいる石郷岡さんがそう小さく零すのを、僕は聞き逃さなかった。

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