1.4
殺人というものをフィクションの外側で意識をしたことはあるだろうか。
人命が自然な形ではなく、他人の意思によって強制的に奪われる行為を、平和な時代に生きる僕らの様な年代が、リアルに感じたことがあるのは稀だろう。
幼い頃から、僕はその人間にとって究極的な事象である、失命というものに囚われていた。
『人が死ぬ。これほど他人に影響を与えるイベントはない』
誰かの葬式で、鉄面皮で強面の叔父がそう零していた。ぶっきらぼうで口下手なこの人は、甥っ子との無口の時間が耐えられず、何とはなしにつぶやいただけかもしれない。
だが、彼の妹、つまり僕の母が棺に向かい、子どもの様に声を上げて泣く姿が、そのような言葉を押し出したのかもしれないと思えた。
『精神に、身体は追随する。お母さんが変わっても、受け入れてあげてくれ』
そして、この日を境に母は少し変わった。いつも通りのことが出来なくなった。整理整頓が得意だったはずが、僕が着れなくなるほど古くなった服や履けなくなった靴を、捨てれなくなった。
それどころか、僕のものが捨てられることを極端に嫌い始めた。服や靴ならば、まだ理解はできる。誰かにあげられるしれない。
それがインクのなくなったボールペンや、消しゴムのカスにまで及んだとき、ようやく父が重い腰をあげ、母を精神病院に送り込んだ。
幼い頃の僕には、母が変わってしまったことが悲しかった。だが徐々に長い年月を掛けて、変わってしまった母を受け入れて冷静さを取り戻すと、母を変えてしまうほどの事象というものに興味が湧いてきた。
精神に、身体は追随する。母をここまで変えてしまった事象とは何なのだろうか。少し調べて、あの日の葬式で送り出されたのは殺人によって命を奪われた誰かであることを知った。
僕が殺人に魅せられる答えはここにあるのだろう。人が変わるほどの力を持った事象。蝿を求める蛙の様に、悲劇的な事件の影を一縷の後ろめたさを伴いながらも追いかけていた。
幸か不幸か僕の家には早くからインターネットという文化が導入されていた。そのため、この手のアングラな情報を手に入れる環境は万全であった。
ナイフに憧れる少年の心境が、能村吉成には殺人事件フリークという形で顕在化していた。そう思うと真っ当の様に聞こえるが、決して誇れるような趣味ではないだろう。
その自覚はあったため、この趣味は高校生ぐらいの時に意識的に封じた。
大量の殺人事件の考察ウェブページのプリントアウトとか、誘拐殺人事件の連日の新聞の切り抜きだとか、被害者へインタビュー特集が組まれた雑誌だとかを丁寧に梱包して、物置に追いやった。
これでゆっくりと僕の悲劇嗜好は成りを潜めるだろう、そう思っていた。だが今日、二十歳を迎えようというにも関わらず、僕はそれからまだ抜け切れていない。
収集癖は無くなったものの、誰かが事故に巻き込まれたなんて噂を聞くと、未だに心のどこかが疼くような気持ちになる。『それで、どうなった?何か、変わった?』。
そんな僕にとって石郷岡さんが見せてくれた『東海地区連続殺人事件』というのは垂涎ものであった。この事件は七年前の二〇〇八年二月から五月までに起こった無差別殺人事件の通称だ。愛知県海部郡の主婦が襲われたことをきっかけに、合計六人の人間が犠牲になった。全ての事件が通り魔的に路上で行われ、金品の強奪など、殺人以外の痕跡が一切見当たらないことから怨恨による事件であると考えられた。
しかし殺された被害者に全くといっていいほど共通点が見当たらず、警察による捜査は難航した。
ここまで読み進めた時、僕もこの事件のことを思い出した。その頃の雑誌といえば、この事件の犯人を推察する記事や、警察の無能さを批判する記事で溢れていたのだ。悲劇嗜好を気取っていた身として、興味は惹かれていたが雑誌が取り上げる内容には興味が惹かれなかった。それどころか、あまりに低俗な内容に意図的に避けていたことを思い出した。
結局事件はそしてそのまま犯人を特定するに至らず、今日を迎えている。犯行も六人目を皮切りにぱったりと途絶えた。これがまた議論を呼び、犯人は既に自殺しているとか大規模交換殺人であるとか色々な噂が飛び交った。僕にとってはどうでもいいことだ。
資料は結構な量があり、読み込むのに三十分程かかってしまった。その間、石郷岡さんは宣言通りソファに横になって目を閉じていた。
本当に眠っていたのかは分からないが、丁度僕が資料を読み終わるタイミングで目を覚ました。
「それで、どう?すごくニュースになってたから、いくら能村くんでも知ってたでしょ」
眠たそうに目をこすりながら、石郷岡さんは僕に質問した。どうやら本当に寝入っていたようだ。
「資料を読んだらすぐに思い出しましたよ。雑誌やらなにやらで、すごく話題になっていましたしね」
「ニュース見ないって言ってたじゃない。またすぐ嘘ついて」
そういえばそんなことも言ったか。興味のあるニュースなら雑誌を切り抜くほどに調べていたりしたのだが。
「大学に入ってから見てないですよ。まさかこんな昔の話を持ってくるとは思わなかったので。それで、この『東海地区連続殺人事件』ってのが僕らのお仕事となんの関係があるんです?」
『東海地区連続殺人事件』は犯人こそ捕まっていないものの、既に過去の事件だ。それが七年越しの今になって、何かが起こるとは思えなかった。
「まさか、今さら犯人を探せとか?」
「違う違う。その事件の被害者に関してよ。まあ行きすがらの道々に話しましょう。出かける準備、してくれる?」
石郷岡さんはソファから立ち上がって、先程脱いだサマージャケットを着始めた。出かける?どこに?
「出版イベントがあるのよ。そんな遠くないだろうから。それに、ご飯も無料よ。どうせ碌なもの食べてないでしょ?さあ、立った、立った」
石郷岡さんのごまかしたような物言いが気にかかったが、仕事を請け負うと決めた以上、拒否権は無い。重い腰を上げて、伸びをする。
それで気持ちがのんびりとした夏休み気分から仕事モードに切り替わるかと思ったが、そんなことはなかった。
なにせ、どこに何しに行くか知らないしね。でも構わない。直感的ではあるが、この仕事からは僕好みの悲劇嗜好を満たす匂いがしているのだ。
「何してるの。鍵を締めるから早く出て」
事務所の扉の向こうで石郷岡さんが待っている。僕も急いで彼女に続いた。
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