1.2

 時系列が前後するが、僕と石郷岡さんが件のパーティに出席するちょうど二時間ほど前のこと。僕こと能村吉成はアパート、大学に継ぐ第三のたまり場であるアルバイト先にいた。

「アルバイトに来てるんだし、たまには店番以外のことしてみない?」

 夕方の事務所は大抵アルバイト仲間の誰かがいるものだが、今日に限って言えば僕と石郷岡さんの二人きりだった。それもそうだろう、多くの大学は既に夏期休暇に入っているから、アルバイトの大半が大学生であるこの事務所に人が少なくなるのは必然と言える。

 大学生二度目の夏季休暇に、なんとなく帰省する気も、旅行に行く体力もなかった。すっかり居心地良くなったアパートから出る気もせず、昨夜見た映画を脳内で反芻していると夕方になっており、事務所に顔を出さないのを気持ち悪く感じて出社してしまった。

 そして誰も居ないだろうなあと思い、事務所のドアを開けると石郷岡さんが居た。窓際の一人がけのソファに小さな身体を預け、膝の上にノートパソコンを置きキーボードを叩いていた。そして僕の顔を見ることも、挨拶でさえすることなく、僕を働かそうとしているのだった。

「僕はこの事務所で何もしないことが好きなんですよ。特に働くってのは今月はもう十分でして」

「私は能村君が働いてるところ、見たことないけどね」

 石郷岡さんは僕と同じく、この吊院探偵事務所のアルバイトだ。彼女は僕と同じく幾楠大学に所属している。つまり大学の先輩である上に、アルバイト先でも先輩であるのだ。現在は四年生でどの学部に所属しているかは知らない。むしろ、大学では会ったことがないから、既に卒業しているのかもしれない。ただ、彼女が大学に居た頃(今もいるのかも知れないけど)に残した『石郷岡ノート』なる講義ノートは、その綿密な調査、講義をカバーする用語集と解りやすい解説、教授の傾向まで考慮された試験対策などの書籍顔負けのクオリティから、幾楠大学の裏ルートで取引されている。あと僕が石郷岡さんについて知っているのは、おおよそ毎日、この事務所にいるということだ。

「働くのに向いていないから大学生をしているのです。ところで石郷岡さんはご実家に帰られないのですか?」

「実家に帰りたくないから働いてるのよ。丁度昨日、吊院さんから仕事を貰っちゃったしね」

 そんな話をしながらも、石郷岡さんは視線をノートパソコンから離さない。仕事をしながら雑談をできるなんて器用だなあと思う僕は、ソファに腰掛け、テーブルの上の書類の山を漁っている。アルバイトの誰かが置いていった講義資料や漫画雑誌、雑貨のカタログなど、整理整頓が走って逃げた後の様な有り様になっている。残念、今週の週刊少年ジャンプは入荷されていないようだ。

「実家に帰りたくないなんて難儀ですね。僕も同じですけれど。ところで吊院さんからどんな仕事を貰ったんです?」

 漫画雑誌を諦めると、適当な講義資料を手に取る。『生命情報解析』と銘打たれているが、僕には中身がさっぱりだ。そもそも理系じゃないしね。

 そして数式と螺旋構造がたくさん乗った資料を机に投げ返そうとすると、僕の手からその資料を誰かが奪った。その主を見やると、先ほどまで視線すら動かしてくれなかった石郷岡さんが、僕の目の前にいた。

「能村くんって工学部じゃないよね。よその学部の講義をとるにしても、レベルが高くない?

 それはそうと、仕事の話を聞きたいんだよね。働く気になったくれて、石郷岡さんは嬉しいな」

 石郷岡さんはテーブルの上の雑多な書類を脇に除け、愛用のノートパソコンの画面を僕に向ける。その画面が視界に入る前に僕は目を両手で隠した。

「能村くん、何をしてるの?」

「その画面、見たらきっと働かなくてはならないのでしょう?きっと事件の依頼者の情報がいっぱい書いてあって、守秘義務的に関係者しか見れない資料なんでしょう!?だからきっと、ひと目でも見たら『見ちゃったね。これって事件の担当者以外には見せられないやつなんだよねー。勝手に見ちゃったら、吊院さんに怒られるなー。きっとバイトも首になるなー。あ、そうだ。能村くんが担当になればいいんだ。そうれば、怒られずに済むよ』って風に僕を担当にさせる気でしょう。その手には乗りませんよ」

「流石にそんなことはしないって。ほら、手をどけて。資料見せながらじゃないと説明が難しいから」

「嫌です。僕は石郷岡さんは信用してないです。頭の良い人と背の小さい女性は信用してないんです。石郷岡さんは両方とも当て嵌ってます」

「その疑心暗鬼っぷりはどこから来てるの。まあいいや。能村くん、目を隠しているなら、私、今からここで着替えてもいいよね」

 石郷岡さんはたまにとんでもないことを言い出す。そして大抵そういうことを言い出すときは、行動の予告である場合が多い。更に加えて言うと、この女性は行動の予告から実行までが凄まじく速い。つまりこの場合、僕の返事を待たず、石郷岡さんは既に着替え始めている可能性が高い。なにせ衣擦れの音がしているしね。普通の男子大学生ならすぐに手をどかし、その様子を隈無く観察するだろう。普通なら。

「石郷岡さん、そんなんじゃ僕は手をどかしませんよ。女性の裸くらいで僕が動くなんて思わないで下さい」

「それは、私の身体が魅力ないってこと?流石にショック」

「そうではないです。僕が女性の身体に興奮しないだけです」

「え、それは、え?」

 不思議な疑問声を出し、石郷岡さんは着替えをやめたらしい。そう、僕にはこの手の男の弱みってものは効かないのだ。どうにもこうにも、興奮というのが分からない質なのだ。それが目下の悩みだったりする。

「えーっと、能村くんは変態ってこと?」

「違います!」

 石郷岡さんのあまりに失礼な物言いに、僕は思わず机を叩き、抗議の声を上げる。僕の目はしっかりと石郷岡さんを見つめており、彼女は本当に着替えていたようで、着ていたサマージャケットを脱いだだけのシャツ姿になっており、その姿は彼女の理知的な雰囲気に似合っていて、興奮こそしないけれど魅力的だなって思い至って抗議する程の怒りがほんの少しの間だけどこかへ行ってる隙に、石郷岡さんは僕の視界にノートパソコンをねじ込む。その画面に映る書類のタイトルには、依頼人、出水博信様。しまった。やられた。

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