電車の中

@t_tsugihagi

第1話 電車の中



「俺、ヤバい人見るの好きだからさ、観察しちゃうんだよ」


 就職活動でよく東京や大阪といった場所へ行く機会が増えたKさんは、そういう人の多い場所はやっぱり、少しおかしな言動をする人が目につくのだといった。

 普通は知らんぷりをするか、その場を離れるかするのだろう。そういう病気や障害の人もいるし、そっとしておくのが一番かもしれない。だから好奇の目でずっと見るのは失礼なんだけどね、とKさんはいうが、やめられないのだそうだ。直接危害を加えられそうになるまで、じっと近くで観察してしまうのである。これで面白い話がひとつできるし、と酒の席でいう。


 この話もそうしたひとつだ。


 夕方過ぎまで就職説明会に参加をしていて、軽くチェーン店で夕食を取った後に安宿へと向かう。

 Kさんは地下鉄に乗ったのだ。

 車両に入ると右車両に続くドア近く、ホーム側の席が空いていた。長椅子の真ん中へ、トンネルの壁しか見えない真っ暗な窓を向かいにKさんは腰を下ろす。時間は帰宅ラッシュを丁度良く過ぎていて、その車両の席も空いている場所の方が多いぐらいだ。

 降りる駅まで時間があったから、昼間から就活だ説明会だと歩き詰めで疲れていたKさんは、少し目をつぶっていた。

 すぐに次の駅へついて乗客が乗り降りし、右隣に人が座った。長椅子だから、クッションの傾く感触がしたのだ。ただ、おや、と思ったことがある。

 近い。知らない人間の隣に座るにしては、距離感が妙に近い。

 しかも、何かブツブツ呟いているのだ。

 寝たふりをしながら目を薄く開いたKさんが隣をうかがうと、サラリーマン風の中年の男が肩の付く距離で座っていた。

 思い切って顔をあげて見渡すと、他にも席は空いている。わざわざKさんの横へ座ったらしい。

 

 まばらな乗客も、Kさんと男の方にちらちらと目をやっていた。

 というのも、男は口の中で何か聞き取れない声でブツブツ言うほかに、膝の上へ大学ノートを開いていたのだった。

 

 男は赤いボールペンを握って、紙面に何かを書いていた。


 シャッ シャッ シャッ シャッ


 ぐちゃぐちゃだ。ぐちゃぐちゃの何の模様かわからないものを男は大学ノートへ描いていた。

 男の念仏のような声よりも、うつむいたまま一心不乱にノートへ殴り書きされるペンの音の方が目立つ勢いで。


 シャッ シャッ シャッ シャッ


 明らかに常軌を逸している素ぶりに、乗客の何人かは隣の車両へ移動していた。好奇心にかられたKさんだけが男のノートをじっと見ている。


 今度は男は子供の落書きのような、あの膨らんだ頭や体のゆがんだ誇張された様子で、座った赤い棒人間を書きはじめた。それは一見スケッチとも思えない代物だったが、描いているのはどうも斜向かいに座っている女子高生のことらしいのだ。


 この時間だから塾帰りなのだろうか。女子高生は耳にイヤホンを指しながら手に握った携帯に目を落としたままで、目の前の言動には興味がないらしかった。ただKさんの横の男は、妙に熱心な様子で向かいの席を見ながら、拙いイラストで制服とスカートの赤い棒人間を描いているし、それはきっと彼女である。後ろの窓も、席も、吊皮も、単純な線と歪んだ線で赤く描かれている。


 ふいに男はノートの棒人間の隣に、もう一人描き始めたのだった。

 

 紙の上で、彼女の左隣の席に同じような制服とスカート、髪型は多分違うのだろう、目の前の娘より髪は長い、同じように座っている別の女の子を男は描き始めたのだ。下手な図形でそこにはいない女の子の絵を。

 やがて、男は何度も赤ペンでなぞり始めたのである。書き加えた新しい女の子の絵だけを、その輪郭が濃く広く赤く、紙面全体に大きく拡大されていってつぶれるまで何度も男はなぞり始めたのだ。


 気持ち悪いことするなあ。


 Kさんも流石に思ったそうだ。

 ふと、男の手が止まった。

 はっとして、Kさんがノートから顔をあげると、男はKさんの顔を見ていた。

 別に普通の、喜怒哀楽のどれでもない無表情だった。当然のようなのっぺりした顔で、男は真っ赤にしたノートから顔をあげていた。

 目の合った途端に男はノートを畳んで、席を立ちあがると、逃げるように右の車両へ行ってしまった。一連の出来事にKさんはあっけにとられて、目も覚めてしまった。しばらくは携帯を見て興奮を冷ましていた。

 

 ただ、何の気なしに、右の車両へ続くドアを見ると、さっきの男がいるのだった。

 

 閉じたドアのガラス窓に、隣の車両から顔をぺったりとくっつけて。


 Kさんのほうを向いて。


 窓枠の外で見えないけれど、動いているその腕の手元はきっと、赤ペンでノートに書いている。

 

 

 目的の駅より早く、次の駅でKさんは電車から降りた。


 男が流石にヤバそうだったからですか、というと、そういうわけではない。とKさんは首を振った。違うんだよ。きっと、男が赤く何度もなぞってたのも、あれは近づいてるって表現だったんじゃないかな。


「男の視線がさあ、今度は男のいた、空いてる俺の隣の席をずうっと見てたんだよなあ」






 

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