領域外のアイラーヴュー

本陣忠人

領域外のアイラーヴュー

「月が綺麗だ…なんて酷く気障だよね。流石に格好つけ過ぎって感じだよ」


 とある晩――シエナは硬いベッドの上で事もなさ気にそう言った。

 その細い体躯をシーツで申し訳程度に包んだ恋人は窓の外にぼんやりと浮かぶ月を眺めていたのだ。


 彼女と同じく…いや彼女と違って、一切の衣を身に纏わない俺は突然の言葉に着いて行けずに無言を貫く。数分前に台所から持ってきた缶ビールの冷たい感触が遠くに感じた。


 不甲斐無い彼氏の返答を求めたのか、それとも諦めたのか。シエナは適当な調子で真意の補足を呟いた。


「ねえ知らない? 夏目漱石の…結構有名な逸話だと思うけど……」


 そう言って振り向く彼女はとても幻想的で、思わず息を呑む。

 何だか今夜のシエナは凄く、平時を超えて、浮世離れして神秘的で妙な雰囲気がある。


「あ、ああ…そう言えば、中学だかの授業中に聞いたことあるな。何か愛の言葉を…誰だか詳しく知らないけど、確かそんな感じの翻訳をしたんだよな?」


 必死に絞り出した言葉はそんな曖昧で、霧のように頼りない存在感を放つ陽炎。

 その渦中で、理系の俺は余り国語に熱心な学生では無かったと誰に向けたのでもない言い訳をしてみた。係数で語れよ。


 しかし、文学部卒の彼女にとってそれは納得の行くものでは無かったらしい。

 茜色の頬を風船の様に膨らませてビールを受け取る代わりに嫌味を一つ。


「パンツと共に知性も放り出しちゃった? 果てしなく有名な話だよ?」

「君はブラと共に優しさを何処かへ置いて来たね…」


 頭の悪い切り返しを滲ませてパンツとハーフパンツを装着。

 心中線上に位置するプラプラしたものが固定され、とても落ち着く。


 ベッドの端に腰掛けてプルタブを引く。

 安物らしく軋むスプリングと手元の軽い音がピストルの代わりになり、彼女の演説が始まった。


「これは英語教師だった頃の漱石のエピソードだと言われてるんだけど―――」


 未だに半裸の女性はつらつらと、まるでその場にいたかの様に詳細に語る。

 熱の入ったその演説――内容はともかく、なかなか愛しい光景である。好きなものを懸命に語る姿は俺だけのものだから。


 個人的な偏愛はさておき、概略は理解した。

 つまりは愛の告白――その日本的情緒に溢れたお洒落感たっぷりなワビサビリミックスだと解釈した。


 だけど、それで?


 過去の文豪のロマンチックな言い回しを引用し、挙句非難した恋人は何を求めているのか?


 分かってる。俺に欲しているんだろ。

 

 甘美な液体で喉を潤した後に溜息混じりで問いかけた。


「つまり、シエナは俺に『I love you』を翻訳させたい系?」

「さて、どうだろう…理系の君ならどう表現するか…興味はあるけどね」


 ピンクの箱から細長い煙草を取り出した彼女は火をつけて小悪魔の様に煙を吐き出した。


 昇る紫色の煙を払い除けて数秒思案。


 どうやら恋人が求めているのは俺個人の理屈における新解釈らしいが、数字に塗れた人生を送ってきた卑屈な人間に詩的なポエムは浮かばないらしい。早々に諦めた。


 なので、現実的な案を実行する為の行動に移ることにした。


「なにそれ…回答放棄?」


 ベッド側のボディバッグを漁る俺に届く訝しみの声。違うよ、そうじゃない。


 目的物を発見したので、フローリングに降りて跪く。


 突然の紳士的行為に動揺した恋人の肩からシーツが落ちるのと同時に俺は小箱を差し出した。


「これが俺の『』。シエナ…俺と、結婚しよう……」

「んあっ?」


 俺の掌に輝くゴールドリング。

 数字に塗れた仕事をして得た対価―――テンプレのような給料三ヶ月分の指輪。


 そのサイズは寝てる間に測ったので間違い無いはずだが、タイミングは多分王道とは外れている。

 

 宙に浮いたままの指輪が次第に重くのしかかる。

 流石にKY過ぎたかと不安に押し潰されそうな道化に降りる天使の梯子。


「っ…、はい。喜んで……」


 身体の殆どを純白のシーツて隠した恋人が俯き紡いだ了承の声。俺はそれより大きな声を上げる。


「っし! 最高だ!」

「いや、最低だよ…」


 歓喜に震えガッツポーズをしたが、即座に冷水が横入り。え?マジで?


 再び寝台に腰を下ろした俺に告げられる容赦無い一言。


「もう少し…何というか機会を伺って、タイミングを考えるべきだろう…」

「いや、俺的にはココしか無いと思ったんだけど……」


 婚約者の左手を取り、薬指に証を嵌めながらすっとぼけてみた。効果はいまひとつのようだけど…。


 ならば、こちらにも考えがある。


「じゃあ敢えて言い換えてみようか…」

「どういうふうに?」


 黄金の輪を月明かりに照らす恋人を抱き締めて俺は宣言する。


「俺と一緒に死んでくれ…」


 手早く小さな鼻を摘んで唇を塞ぐ。ジタバタと藻掻く恋人の小柄な体を空いた手で抑えて安定と鎮静を待つ。


 ああ…もうすぐ、まもなく。

 紛れもない永遠が訪れる……。

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領域外のアイラーヴュー 本陣忠人 @honjin

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