潮騒

@otaku

第1話

 それは今年の四月にふと思い立って宮城に旅行したときの話だ。

 長い間担当していたあるプロジェクトが終わったので何日間かのまとまった休みを貰ったのだが、勿論友人たちと都合が合うわけもなく僕は一人でそこに行った。初日は新幹線で仙台まで行って、それから市内で車を借り宮城県内のめぼしい観光名所を色々と回った。そして最後にA市のとある民宿に泊まった。民宿と言ってもここ二、三年の内に建てられたものなので、その単語から連想される時化た感じや汚らしさは一切無かった。僕はそこの従業員の男とふとしたきっかけで仲良くなって、翌日は彼の案内でA市内を観光することになった。それで驚いたのが、もうそこはありふれた日常を取り戻しつつあるということだった。

 多くの人にとってあの震災の衝撃は凄まじかったはずだ。かくいう僕もそうだった。あの日からもう六年が経ったとは思えない。当時大学一年生だった僕はこんな自分にも何か出来ることはないかと葛藤して、そうして年度が変わりキャンパスの掲示板に震災ボランティア募集のビラが貼ってあるのを見つけると迷わずそれに申し込んだ。連日テレビで報道されていた被災地の様子からある程度覚悟は出来ていたつもりだった。でも結局僕は何も知らない子供だったと言わざるを得なかった。僕は三陸のある小さな港町に派遣された。いや、行ってみると港町なんてどこにもなかったのだ。ゴールデンウィークの短い期間ではあったもののそれは筆舌に尽くしがたい体験であった。その体験から得られたものはちっぽけな自己肯定感などでは決してなくて、ただ牙を剥いた自然の恐ろしさだけが僕の中に刻み込まれた。津波が襲った後の町並みを見て、本当にここから全て元通りに戻ることなんてあるのだろうかと絶望したのを覚えている。東北に足を踏み入れたのはそれ以来だった。

「どうです、美しいでしょう」食後の運動がてら海岸沿いを二人で歩いている際に彼はそう尋ねた。

「はい、とても」

「どうしてその港町の方を訪ねなかったんですか?」

「端的に言うと勇気が無かったんです。震災から短くはない年月が経って、被災地がいまどのようになっているかは前々から気になっていました。でもあのとき見た光景の記憶が未だに目に焼き付いていて……」

「この辺もあのときは酷い有様でしたよ。地元の人と自衛隊と、それからあなたのように津々浦々から集まって下さった震災ボランティアの方々と、皆で力を合わせて何とかここまで復興しました」

「そうだったんですね」

「それでもまだ震災が過去のものになったとは思っていません」そこで一度息を詰まらせてから、彼はこう続けた。

「私の妻は、まだ発見されていません。自衛隊や震災ボランティアの人たちが去ったいまも私はこうして毎日海岸に出て彼女を探し続けているのですが」

 そう呟く彼に僕は何と声をかけていいか分からなかった。

 夜、部屋で休んでいると、ビール瓶を手に持った彼が部屋に訪ねてきて「良かったらいまから海岸で飲みませんか」と提案してきた。夜の海にはまた昼間とは違った趣があるんですよ。その言葉に特に不自然なところを認めなかった僕は彼の提案に乗ることにした。

 宿の自転車に乗って、二十分程で昼間の海岸に辿り着いた。潮風が吹いていて長袖のシャツ一枚だと少し寒かった。だけれど海は至極穏やかで、遠くの方で夜の空と曖昧に混ざりあっていた。僕たちは砂浜に直接腰を下ろし、星を肴にビールをラッパ飲みし始めた。そうして彼が口を開いたのは五分ほどの沈黙の後であった。

「こんな腑抜けた海があの日全てを攫って行ったなんてやはり信じられないんですよね。私はあの日からどこか、決して醒めることのない悪夢の中にいるような気分が抜けないんです」

「心中、お察しします」

「私の話、聴いてくれますか?」

「僕なんかでよろしければ」

「あの日は、体調が悪くて会社を早退したんですよ。私は元々隣町でサラリーマンをやっていましてね……」

 実際に当事者たる彼からあの日のことを聞く覚悟が果たしてそのときの僕に本当にあったのかは分からない。しかしながら僕に話すことで彼の気持ちが少しでも軽くなるのならという人助けに似た感覚があったことは否めなかった。僕はその気持ちを利用されたのだ。彼は堰を切ったように話し始め、僕はただ無言でそれに耳を傾けた。

「高校を卒業してすぐに入った会社でした。練り物を取り扱っていて、まあそんなことはどうでもいいんです。八年働いていましたが、入社以来一度も早退なんてしたことがなかったんですよ。それがあの日に限って仕事にならないくらい吐き気がして、それで昼前に上がらせて貰いました。

 家に帰ると妻はクスリをやっている最中でした。私たちはお互いの実家を離れアパートで暮らしていましたから、私の不在の間誰も彼女を止める人間は居ませんでした。……こんな田舎町でと驚くかもしれませんが、でもこの時代、手に入れようとさえ思えばどこにいようと大抵のものは手に入ってしまうんですね。妻には昔から精神的に弱い面がありました。何をやっても満たされなくて、ついそういうものに逃げてしまうんでしょうか。彼女とは高校時代からの付き合いだったんですが、当時から既に大麻なんかを吹かしていました。別に見た目は普通の女の子なんですよ。案外不良と呼ばれる人たちよりもそういう子の方が一度嵌ってしまうと抜け出せないものなんです。それでも結婚する際に法に触れるようなことはもう金輪際しないと誓わせました。それが守れるのなら結婚してもいいと」

「はあ……」

「ですから居間のソファーで裸になってラリっている妻を見つけたとき、全身の力がくまなく急速に抜けていったのを覚えています。まるで自分の身体ではないかのように感じました。それでいて、ああ裏切られたなあと心は酷く冷静沈着でした。妻は私に気がつくと逆上しました。理性を失っていたんでしょうね。何かを叫びながら、手に包丁を持って私を切りつけてきました。

 このままでは殺されると思いました。勿論、私は妻を愛していましたが、でもそれは結局彼女に殺されてもいいと思えるほどではありませんでした。冷静と言いながらもそのときのことはあまり覚えていません。気がつくと傍らで血に塗れた妻が横たわっておりました。私は服を着替えて家を出て、とりあえずふらふらと外を徘徊しました。吐き気は相変わらずありましたが、でもジッとしていられなかったのです。いつの間にか山の方まで来ており、そうして頂上からいつもと何ら変わりのない長閑な町の風景を俯瞰してたら、初めて、もうそこには戻れないのだなとふっと涙が溢れて来ました。

 そのとき唐突に、地表が立っていられないくらい歪んだんです。

 夢を見ているのかと思いました。でも間違いなく現実に起こっていることでした。それから私の生まれ育った町が津波に飲み込まれるまでそう時間はかからなかったと思います。あの日私は家も妻も両親も仕事も、凡そ考え得る全てを失ったのです」

 そこまで言ってしまうと彼は満足したのか瓶に入っていた残りを一気に飲み干した。僕は身動きが取れなかった。でもそれは決して酔っ払っているからなどではなかった。

「つまらない話でしたか?」

「……いえ」

「私は自首すべきなんでしょうか? 元々そうするつもりだったんです。でもそれは根源的には赦されたいという願望から来る逃避だと解釈することが出来ます。だから神は私にもっと苦しみ抜くよう罰を与えたもうたのかもしれません。あなたはどう思いますか?」

「そんなこと、何故僕に訊くんですか?」

 藁にも縋るような思いでした質問だった。

「あなたが正義感に溢れた人だから。……と言いたいところですが残念ながら違います。例えば私の近しい人に同じ質問をしてみたところで、彼らはきっと皆口を揃えて『自首をしろ』と言うのだと思います。でもそれは心の底から私のことを考えてくれての発言ではなくて結局、そんな放っておいたら何をしでかすか分からない人間を近くに置いておきたくないという防衛機制が働いているに過ぎないんです。あなたに訊いたのは、あなたが私とは全く縁もゆかりもない赤の他人だからですよ。ただ、それだけです」

 僕はいつまでもそこに留まって考え続けた。いつの間にか男は居なくなっていた。真の暗闇の中で潮騒だけがまるで僕の心臓と呼応するかのように辺りに響き渡っていた。









※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。

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