第三話 転 三
常人の能力を超えるための方法はいくつかあるが、生身のままでも薬物を使えば常人の能力の二倍程度までは強化可能だ。
それを超えるためには脆弱な肉体を機械に置き換える必要があるが、それで常人の五倍ぐらいの能力を獲得することができる。オリンピックの薬物強化部門および機械化部門のワールドレコードが、それを証明していた。
さらに機械化してしまえば、さらに上のスペックまで実装することができる。
実際のところ、HIM船に使われる公式部品についても緊急時の使用を前提として、乗員の安全性が担保できるぎりぎりまで機能を高めた上でリミッターをかけていた。
裏物のマニア品質に至っては安全性度外視で、販売されている非公式部品の中には化け物じみたスペックのやつがゴロゴロしている。
ただ、それを実装する者は少なかった。
なぜなら実装したところで実用ができないからである。
どのようなスペックのものであっても、システム側で分散処理と先読み並行処理(可能性がありそうな処理すべてを並行で走らせて、最適なものを選択する処理)を行ってサポートすれば、使用は可能である。
ただ、最終的は判断はHIMの脳で行われているので、リミッタは通常運用の限界としてシステムサポートのない常人の能力の四倍以内に設定されていた。
人間の脳は、利用する者の能力を超えない範囲内で処理が最適化されるようになっているが、その上限値は経験によって随時更新される。そして、常人の四倍までは日常生活可能な範囲内である。
この『四倍』という数字自体は定性的なものなので、厳密に測ればもう少し発揮できているのかもしれないが、五倍ということはなかった。
そして、HIMの脳が処理可能な限界を超えたスペックを、システムサポート付きで実行したとする。
そうすると今度は、脳のほうが限界を超えた処理に最適化しようとして、感覚の上限値を大きく再設定する。これが『閾値拡張』と呼ばれていた。
*
アルフレッドは、カタログ上の数値を実際に発揮してしまった奴を知っていた。
その結果、拡張されてしまった閾値によって、日常生活が非日常的になってしまった姿も見ていた。
通常、HIM船の推進ユニットにはリミッタが設定されており、閾値を超える加速を抑制している。
それが解除されているということは、僅かでも操作を間違えれば許可された緊急加速の値を超える速度で、あっちの世界に飛び去ることがありえるのだ。
ただ、トライスターの連中も完全な悪党ではないから、アルフレッドがそんな事態に陥るところを見たかったわけではあるまい。恐らくは制限速度を気にしながら千鳥足のように船を操る彼の姿を遠目に見たかっただけだろう。
しかし、タイミングが最悪である。これでは自慢の特殊装備や音楽アーカイブを盗まれていたほうがましだった。
「……サム、教えてくれたことはとても有り難いが、しかし如何ともしがたいぞ」
「トライスターの連中も顔面蒼白で平謝りしていたが、確かにそれで事態が改善するわけじゃないな」
「ああ、もうこれ以上は想定外の話を聞きたくないぐらいだ」
これは決して弱音ではなかったが、サムは真面目に答えてくれた。
「善管義務違反を申し立てようか? 船に悪戯された件は明らかに治安維持軍の失態だし、港湾管理者の不行き届きじゃないか。しかも、その状況下で公的任務を依頼されたわけだから、免責は確実だぞ」
サムの助言は有り難かったが、アルフレッドはムードスタンプ『首を横に振る』を公的外交空間に表示した。
「駄目だよ、サム。そいつはできない」
「なんでだよ。
「違うよ。そんなんじゃないんだ、サム――」
アルフレッドも真面目に答える。
「――単に俺は受けた依頼を途中で投げ出さないことが身上なんだ」
「身上? そんなもんで腹は膨れないだろ。悪いことは言わない。こんなのは不公平だよ!」
「サム、お前の口から不公平という言葉を聴くとは思わなかったよ。辞書から削除したんじゃないかと思っていた」
「馬鹿言え。俺はあんたみたいなおかしなやつがいなくなると、最後の最後に仕事を依頼できるやつがいなくなるから実に困るんだよ」
「ふん、そういうことにしとくよ。有り難う、サム」
「どうしても行くのか? 世界を救おうと思っているのならば、あんたらしくないぞ」
「馬鹿言え。九割の職業的使命感と、一割の拘置所に対する嫌悪感があるだけだよ」
「逆じゃないのか」
「違いない」
そして、二人はしばし沈黙する。
一瞬の間に万感の思いが籠められていた。
「じゃあ、気をつけて行って来い」
「ああ、帰ったら報酬は弾んでくれ」
「分かったよ。報酬もそうだが、酒でも飲もうぜ」
「This is the biginning of beautiful friendship――そう言いたいところだが、俺は飲めない」
「カサブランカには程遠いということか。まあ、頑張れよ」
サムは苦笑の余韻を残して、通信を切った。
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