第二話 承
キリエ・カノウが擬似人格通信の着信に気がついたのは、自宅に戻った後だった。
仕事中は個人的な着信そのものはもちろん、着信通知すら非表示にしている。そのため気がつかなかった。いつものように通知制限を解除し忘れていたら、さらに気がつくのが遅れていただろう。
普段はそれでも一向に差し支えないのだが、発信者の氏名を確認したキリエの心臓は大きく脈打った。
リリエ・カノウ――自分の娘の名前が表示されている。
にもかかわらず、キリエは即座に、
(何かの間違いじゃないの?)
と考えた。しかし、擬似人格通信は汎用生体認証を経由しているから、着信先を誤ることはありえない。
リリエが発信先を間違えたという可能性を考えてみるが、そもそも通常使用している宛先リストの中にキリエの名前は決して入っていないだろうから、うっかり間違えるはずがない。
一般的な感覚からすれば、娘からの着信にそんなに驚くほうがどうかしているのだろうし、娘の宛先に自分の名前がないことを確信しているのもどうかしている。
それでも、キリエとリリエの関係はそのようなもののはずだった。
(――なのに、着信)
日付は昨日の昼過ぎになっている。キリエが帰宅したのは深夜零時を越えた時間であり、着信時間は受信者側の時制で表示されるから、まだ十二時間経過しただけである。
しかし、リリエが発信依頼を送信したのは最短でも最初の着信の前日だろう。
恒星系を跨ぐ擬似人格通信の場合、発信側の通信依頼は一般船舶の記憶領域を間借りして虚数空間門を通過する。通信単体では情報量が小さすぎて、アメデオ条件をクリアできないからだ。
しかも、船舶自体も長距離移動でなければアメデオ条件を満たさないので、殆どの通信文は一時的に遥か彼方の恒星系に送られることになる。ここまでで少なくとも半日かかる。
そこで、運が良ければ受信側の恒星系に向かう直行便の記憶領域に載せかえられて、また虚数空間門を通過する。これにも半日かかるので、最短でも一日だ。
ちょうど良い便がなければ、他の恒星系を経由して送られることが多い。そうなれば更に時間がかかる。
虚数空間門は同時に二つの船舶が通過することのないように、接続先と接続時間が厳密に決められている。
だから、通信依頼の時点で予定着信時間が明示されるものの、船が遅れたらそれまでであるから「必ず時間通りに着く」とは限らない。
キリエは、目の前に表示されている着信メッセージの詳細情報を開いてみた。
キリエの住む星の時制にあわせた発信時刻は、更に一日半前だった。合計で二日経過していることになるが、それでも速いほうだろう。
詳細情報の中の経由地を確認しようとしたところで――
(いや、そんなことをしている場合ではないわ)
と、理性が囁いた。娘が発信した通信だから、内容が緊急かつ深刻であるのは間違いない。
しかし、理性がそう囁いてもキリエの手は感情を反映して小刻みに震えていた。
本音を言うと、キリエは怖くて仕方がない。リリエが家を出る際、キリエに向かって最後に言った言葉は、キリエを全否定するものだった。
言われても仕方のないことだったが、それでもキリエはそれに強い衝撃を受け、それから暫くの間は精神安定プラグインを実装していなければならなくなった。
(でも、このまま知らない振りをするわけにはいかない)
そうすることは、娘との完全な断絶を意味する。
キリエは、震える指先で擬似人格通信の受信アイコンに触れた。画面が変形して、娘の形をとり始める。
そして、キリエは擬似人格通信により表示された娘のリリエの姿を見て、言葉を発することが出来なくなった。
大学入学とともに自分を罵倒して去った娘。
それ以前から親子関係は修復不能なほどに壊れていて、家を出てからは音信不通の状態であった娘。
それなのに今、自分から通信をしてきた娘。
その理由は、擬似人格通信の画像でもはっきりと分かった。
(お母さん、リリエです――)
娘は少し怒ったような顔でそう言った。そして、僅かにためらった後、
(――お母さんならすぐに分かるよね。これが私に出来る最後の手段だということは)
と、早口で言い出した。
極限状態にあるというのに、それでもリリエの全身からは「不本意だ」という空気が発せられていた。
*
虚数空間を利用した恒星間航行が可能になり、人類があちこちの星に散らばると、すぐにある問題が発生した。
それは「情報伝達の手段がそれに追いつかない」という点である。
太陽系内ですら、光通信によるネット情報の同期に時差があるために問題が発生することがあったが、それが恒星系同士ともなれば「鮮度が失われた食品」以上に、まったく実用に耐えないものとなる。
そこで代替手段として、虚数空間航行が可能な船舶による情報の同期や、虚数空間そのものを通信経路として利用することが考えられた。
しかし、前者は「そこまでして同期しなければならない情報はあるのか」という根本的な問題から、部分的な利用に留まっており、後者はアメデオ条件という純粋に技術的な問題がクリアできていなかった。
虚数空間は、複雑な処理を行うと極めて短時間のうちに完了する。ところが、簡単な処理を行なってしまうと逆に膨大な処理時間がかかる。
これは実数空間と虚数空間の性格の違いによるもので、虚数空間航法を確立する初期の頃に発生した、最も悲惨な事故の被害者となった宇宙飛行士の名前を取って「アメデオ条件」と呼ばれている。
要するに船舶が一定の距離以上の移動をしないと、虚数空間を安全に利用するのに必要な「複雑さ」を確保できないのだ。
行き先の情報が重要となる旅客船の場合は、寄港先の最新情報を船内のサーバで差分更新することで、観光情報などの劣化を最小限に食い止める努力を自主的に行っている。
他にも重要な情報を同期するための手段として、船舶の往来はフルに利用されていたが、個人的な会話となるとどうしようもない。
虚数空間通信は、個人利用では情報量があまりにも小さすぎてアメデオ効果を迂回することが出来ない。
さらに、虚数空間門を使った情報伝達を行ったとしても、恒星系内では光以上の速度は出せない。
そこで生み出されたのが「擬似人格通信」である。
原理的にはこうだ。
まず、本人の性格や行動特性の累積から、出来る限り本人の思考パターンを模倣して正確に表現できるモデルを作成する。
この擬似人格プログラムを代理人として、必要なメッセージのやり取りを行なえば、少なくとも相手の回答を待つ時間差は解消できる。
ただ、擬似人格プログラムは高い再現精度を持つものであっても、発信者本人の躊躇いまでは再現しきれない場合がある。
離婚条件について話し合ったはずが、戻った会話記録では「よりを戻す」という結果になっており、発信者自身が隠されていた感情に気がつき、実際によりを戻すことになったケースもあれば、逆の場合もある。
長年の試行錯誤により、感情表現に関するパラメータに二者間の心理的距離や情報秘匿強度指数が厳密に適用されるようになると、本人の感情再現性が飛躍的に向上したが、未解決の問題が残されていた。
擬似人格同士の心理的距離が離れているにもかかわらず、強い感情を抱いている場合については、モデルの精度が低くなる傾向にある――これが残された問題である。
ただ、普通はそんな相手と擬似人格通信はしないので、一般的には知られていなかった。
*
「……分かるわ、リリエ」
キリエの声は少し擦れた。
(今になってやっと実感できた。お母さんは確かに大切なお仕事をしていたのだと)
娘は固い顔で話を続けた。
(でも、それによって私が受けた寂しさや悲しさは消えたわけではない。一人ぼっちの誕生日、人気のない家で眠る心細さ、その他もろもろの事実が、今でも次から次へと湧き上がってくるの)
「……」
(今回、他に手段がないと分かった時ですら、本当はお母さんに頼りたくはなかった。私だけの問題ならば何も言わないつもりだった。でも――)
リリエの目が、今まで以上に真っ直ぐにキリエを見つめる。
(――私には今、好きな人がいます。その人の命がかかっているの。だからお願い、お母さんの一番得意なことで彼を助けて下さい。そして、過去のあれこれを忘れさせて下さい。そうすれば私、もっとお母さんに素直になれそうな気が……)
そこまで言ったところで、リリエは黙って涙を流し始める。
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