第二話 〇〇下のおじさん




 村の家々には、正式な住所とは別に、固有の呼び名があった。


 正しくはその場所をさすもので、家ごとに呼び名があるわけではないので、屋号とも少し違う気がする。



 ちょっと説明しようか。



 村の民家はだいたい散居という形であり、住宅地のように固まって建ってはいない。だからといって単独でぽつんぽつんとあるわけではなく、屋敷林を共有するように二、三軒くっついて建っている家々が多い。


 そういう家々がある場所に、ひとつひとつ、住所とも屋号とも違う名前が付いているのである。


 架空の名だが、例えば「高井戸」と呼ばれる場所に二軒の家が東西に並んでいたら、東側の家は「高井戸東」西側の家は「高井戸西」と称される。東西南北のほかにも、前後や高低差で区別されることもある。


 地元の人間なら、住んでいる者の名前や住所を言うよりも、その呼び名のほうが早く通じるし馴染み深い。



 そんな感じなので、その家に住んでいる人間のことも、〇〇東のお婆ちゃん、〇〇前の息子などと呼ぶことが多いようだ。




 ずいぶん前のことだが、父の実家の近くの高台に〇〇下と呼ばれる家があった。


 下、と区別されているということは、かつては「上」もあったはずだが、そこには竹の生えた土台しかなかったから、〇〇下という家は一軒だけぽつりと建っている状態だった。



 その家に住んでいるのは初老のおじさんで、早くに奥さんに先立たれ、子供も他県で家庭を持ったとかで、もう長いこと独りで暮らしていた。


 〇〇下のおじさん、と呼ばれていたその人は、高台から段々につくられた水田を広く所有していて、毎朝その田んぼを見回るのが日課だった。登校する小学生たちと行き合うのが楽しみだったらしく、ゆるやかな坂道を県道まで下って来ると、最後の登校班が通り過ぎるまで、田んぼの土手に座って「おはよう。いってらっしゃい」と声をかけるのである。


 孫がいても遠くてあまり会えないから寂しいんだろう――近くの人たちはそう言っていた。



 ある年の冬のことだ。


 その日、帰宅した子供たちが妙なことを口にした。



「〇〇下のおじさんが麦わら帽子かぶってた」



 よく聞いてみると、半袖にサンダル履きで首にタオルを巻いて、まるっきり真夏の格好だったようだ。もうすぐ冬休みというその時期、日陰には溶け残った雪が積もり、いくら晴天だったとしても、そんな格好で出歩ける気温ではない。



「いつもみたいに挨拶してくれなかった」



 なんだか険しい顔で、じっと黙って土手に立っていたのだという。



「おかしいな、どうしたんだろう?」

「様子でも見に行くか」


 その夜、集落の何人かで〇〇下を訪ねてみた。



 玄関に鍵はかかっていなかったが、田舎では普通のことである。戸を開けて声をかけたが応答がない。灯りは点いていた。


 

「お邪魔するよ!」


 大きな声で呼びながら靴を脱いで上がり、それぞれ茶の間や台所をのぞいておじさんを捜した。


「変だなぁ」


 茶の間の電気コタツはスイッチが入っており、湯呑み茶碗にはなみなみとお茶が注がれていた。ただし冷めきっている。ファンヒーターの電源は点滅していて、連続燃焼時間のリミットがきて自動的に停止したことを示していた。



「奥、見てみるか」


 仏間のある廊下の突き当りまで進み、ふすまを開けた。



 最初に目に入ったのは、布団だったという。


 開けっ放しの押入れから、中途半端に引き出されて落ちかけている布団。


 その向こうに視線をうつすと……足が見えた。



「どうした!?」

「大丈夫か!?」


 慌てて布団をどかすと、〇〇下のおじさんがうつ伏せに倒れていた。


 どす黒い紫色の肌を目にしたとき、触れてみるまでもなく、すでに生きていないのがわかったという。


 苦しんだ様子が見てとれ、うように両手を突き出し、爪が畳に食い込んでいた。



 警察が呼ばれ、不審死ということで調べられることになったが、結果は病死だった。


 おじさんは前の日の晩、布団を敷いている最中に、心臓発作を起こして亡くなったらしい。



「お世話になりました」


 後日、息子さんが集落を挨拶に回って、家は処分することにしたと話した。ほどなく取り壊されて更地になり、売ったのかどうかは知らないが、新しく家が建つことはなかった。


 やがて、〇〇下は〇〇上と同じように竹林に飲まれ、誰も住まない土地になった。




「おかしくない? 前の晩に亡くなってたんなら、子供たちが朝見たのって誰だったの?」


 この話を聞いたとき、私は父に尋ねた。



「おじさんの幽霊に決まってるだろう」



 あの村で生まれ育った父にとっても、怪異とは「そこにあるもの」のようだ。



 〇〇下のおじさんが、なぜ真夏の格好をしていたのか、それに何か意味があったのか……それは誰にもわからない。ただ、その後しばらくのあいだ「あぜ道ですれ違った」とか「高台から下って来るのを見た」とか言う人がいたようである。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る