狭い世界⑤
「早いって」
クルノは言いながら少女を自身の影に隠す。
同時に、少女が飛び出してきた角から黒い服に身を包んだ男が二人現れた。
どちらも三十代程で、目に見える武器は持っていないがよほど平和ボケしている人間でなければ丸腰とは思わない。
男二人はクルノの影に隠れる少女を見つけ、こちらに向かってくる。
「その少女をこちらに渡して貰おうか」
二人の内、体の大きい方がドスを聞かせた低い声で言う。
後ろの男が見えないところで懐に手を滑らせている所をクルノは見逃さなかった。
交渉とは形だけで、隙を見せたら実力行使に出るつもりなのだろう。
「そっちの事情によっては、返してあげてもいいけど?」
ノアもその事に気づいているようで、表向きは抵抗しないという意思表示に両手を広げながらも、何が起こっても動けるように両足はしっかり準備している。
いつもはこういう場合ノアが話をする事は無いので不安な気持ちはあったが、クルノはノアに任せる事にした。
「お前らのような下等な人間に説明するような事じゃない」
貴族区や上等区等に住む人達は、貧民区や一部の一般区の人間を軽蔑し扱う所がある。自分が選ばれた人間だと言う自尊心が貧民区の人と同じ人間だと思うのが嫌なのだ。
「下等な人間ってなんだ、お前ら魔王か」
ノアの突っ込みに誰も笑わないし、誰も何も言わなかった。
クルノは時が止まったのかと思った。
「コレが最後だ。素直に渡して立ち去るか、ここで死ぬか選べ」
男がもう一度警告する。今にも襲い掛かってきそうなほどの迫力だ。
クルノは、心の中で小さく溜め息を吐く。どの道向こうに話し合いをする気が無かったのでこうなる事は分かっていたが、ノアに任せたのは少し失敗だと思った。
「ノア、よろしく」
クルノが小さく囁く。息の合う二人にはこれだけで十分伝わる。
クルノはノアの懐から素早く短剣を取り出し投げつけた。
「りょーかい!」
男達がそれを弾いた時には、ノアの二本の木刀が猛獣の牙の様に男達に襲い掛かかっていた。
ノアが男達を足止めしている間、クルノは少女を肩に担いで走り出す。
少女を抱えている状態ではあるが、普段から貧民区を活動圏内としているクルノに土地勘のない男達が後から追いつけるはずがない。
「きゃっ、離して下さい。私はモノではないのです!」
状況を飲み込めない少女がクルノの上で暴れる。昼間とはいえ貧民区で少女を担いでいる状況はどう見てもクルノが誘拐犯にしか見えないが、元々人通りは少ないうえに人通りが少ない道を選んで走ったので誰にも見られずにすんだ。
ある程度距離を離した所で、周囲に敵の気配がないか確認してから暴れる少女を降ろす。
降りてすぐ少女はクルノから距離をとった。
近くの家の壁を背に、捨てられた猫のような眼差しでクルノを睨み付ける。
「急に担ぐなんて信じられません。貴方は女性の扱い方がなっていません」
「ごめんなさい」
少女は静かに喋る。
クルノは実際に女性の扱い方を心得ては居なかったが、状況が状況だけに心得ていた所で同じことをしていただろう。とにかく、機嫌を損ねないように謝る。
あまり心のこもってない謝罪だったが、少女は少しだけ警戒心を解いたようで、壁に這わせていた手を下ろす。
「……私はティアと言います。それ以上言えません」
目を背けて、おずおずと少女――ティアは自己紹介をする。
「俺はクルノ=ラルシュレイこの隣の一般区で傭兵事務所をやってる。ティア、君はどうして追われているんだ?」
自己紹介を軽く済ませ、クルノが問う。
ティアは分かりやすく嫌な顔をした。聞かれたくない事なのか、視線が泳ぐ。
「……秘密のままでいいですか?」
「事情が分からないままこれ以上君の味方は出来ない」
いくら出来る限り多くの人に力を貸す方針とは言え、上流階級のいざこざに巻き込まるかもしれない話に何も知らず乗るほど、クルノはサービス精神旺盛ではなかった。
もう既に奴らの妨害をし、逃げている。これ以上関与して身元がばれてしまったらクルノ達はここで暮らしていけくなる。
引き返すとしたら最後のチャンスだ。納得する理由で無かったら、即座に元の家に引き渡すつもりだ。
しかし、納得できる理由なら、彼女の目的が達成できるまでは手伝うつもりだった。
ティアはうつむいて考える。少しして、意を決したように顔を上げた。
「家出です」
出会ってから一番歯切れのいい言葉だった。
「あの人達は私を連れ戻しにきた私の家専属の傭兵です」
そのままティアは続ける。クルノは何も言わず黙って耳を傾けた。
「……何のために生きてるか分からなくなったんです。
私はここの人たちに比べたら何不自由ない暮らしをしていると思います。でも、私が家の中で自由に出来る事はここの人達よりずっと少ない……自分の意思でやりたい事を決められないんです。だから、一度外に出てみたかった。お供も付けず、一人で気ままに街を歩いてみたかったんです」
クルノには分からない話だった。クルノがティア位の年は、丁度師匠に拾われ出会う人全てに刃物を向ける日々が一変したぐらいの時だ。ただ安心して日々を過ごせる事のありがたみを覚えている。
でも、貴族が庶民の苦労を知らないように、庶民も貴族の苦労を知らない。
「最初はただ歩いてるだけで楽しかったんです。でもそれから何をしたらいいのか分からなくなりました。それに気づいてから、急に怖くなって……今はどうしていいか分かりません」
ティアの声が少し震えていた。
籠の中の鳥は、外を夢見ても籠の外では生きられない。それを知ってしまったのだ。なら、あの時傭兵達に連れられて帰れば良かったのでは。クルノがそう思ったのを感じ取ったのか否か、最後にティアが付け加える。
「でも、この得体の知れない怖さがなくなるまで……自分が何をしたいのか見つけるまでは帰りたくなかったんです」
クルノは考える。ティアの迷いを払う方法はいくら考えても何も出てこなかった。無理矢理家に帰しても良かったが、それではこの子の芽生え始めた自立心が消えてしまう。
「……日が暮れるまで位なら面倒をみれる。でもそれ以上は俺達の身が危ないから手伝えない。君は今どうしたい?」
「もう少しだけ、お願いします」
「よし分かった。俺達の事務所まで抜け道を使うから、しっかり着いてきて」
クルノはティアを連れ、貧民区の家の隙間を縫うように歩き出した。
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