あの子がいた家

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あの子がいた家

 不可思議な恐怖、というものを体験したのはあとにも先にもあの一度だけです。


 まだ私が小学校に入ってすぐ、恐らく二年生の夏休みだったと思います。私の母方の祖母は、茨城県のとある田舎町に住んでいました。当時はまだつくばエクスプレスの開通前でしたから、祖母の家まで行くとなると車で五時間ほどかかります。運転し終わると、父は肩が痛いと嘆いていました。


 祖母の家の周りにはスーパーやコンビニはなく、ひたすら田んぼや畑が広がっていました。毎年夏休みに行くとその時期はいつも稲が大きく実っており、辺り一面緑のじゅうたんの様です。

 祖母も家庭菜園というには少し大きな、しかし出荷して生計を立てられるほどの量はない田畑を持っていました。車で向かうといつも、途中にある田畑で作業をしていたのを覚えています。もんぺに大きな麦藁帽を被り、日に焼けていた祖母は、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑います。古稀を迎えていた祖母ですが、腰はまっすぐで喋り方もはっきりしており、とても壮健な身体でした。


 祖母の家は瓦屋根の、大きな日本家屋です。母が生まれる前からあり、大昔には小火騒ぎなどもあったそうですが、それでもよく手入れをされているからか綺麗な外観をしていました。私が生まれる少し前に祖父は亡くなっているので、祖母は一人で住んでいます。

 祖母は父たちには麦茶を、私には特別にラムネや水ようかんを用意してくれました。祖母は毎年私たちがやってくるのを楽しみにしていたようです。夕餉には祖母の作ったごちそうが並びますし、私にはたくさんのお小遣いもくれました。祖母はいつもにこにこと笑い、私は彼女が怒鳴ったところを一度も見たことがありません。


 ただ、そんな祖母が一つだけ、口を酸っぱくして注意することがあったのです。


「ええか。部屋ぁ出るときは、絶対に電気を点けたままにしたらいかんよ」

 それが祖母の口癖で、折に触れて言ってきました。

「分かってる」

 と私は言われるたびにすげなく返していました。母も子供のころからよく言われていたようで、「少し過敏だよねえ」と苦笑いしていました。


 祖母の言葉を疑問には思っていませんでした。当時の私は環境問題について少し関心がありました。テレビで温暖化や森林伐採のドキュメンタリーを見ては腹を立ててるような子供だったのです。小学校では節電を喚起するシールを配っており、それを家中のスイッチの下に貼りつけていたほど。ですから、祖母の注意もただ環境問題、もしくは単純に電気代を考慮したものだと、特に気にも止めていませんでした。




 夜、庭で花火をして、もうそろそろ寝ようかという話になったときです。毎年、一階にある座敷に布団を敷いて、父、母、私の三人で寝ることになっていました。ただその年の私は、「一人で二階で寝る」と言いだしたのです。二階には祖母の寝室、また昔、母や叔母(母の姉)が使っていた空き部屋があります。

 どうしてそんなことを言い出したのかはっきりとは覚えていません。恐らく学校で「まだ親と寝ているのか」とからかわれ、一人で寝る機会をうかがっていたのだと思います。父と母は「そんなの手間でしょう」と私を一緒に寝かせようとしました(私がまだそそっかしくて一人では寝かせるのが不安だったのかなと思います)。

 ただ祖母はにんまりと笑って

「まあ、ええじゃないか」

 といつものように優しく、私の味方をしてくれました。

 ただやはり彼女は、私にぐっと顔を寄せていつものように言うのです。ええか、部屋ぁ出るときはどんなときでも電気を点けっぱにしたらいかんよ、と。




 私は夜中にふと、トイレに行きたくなり目が覚めてしまいました。壁の時計を見ると、二時頃を少し周った頃だったと思います。トイレは一階、風呂場の横にあるだけです。父たちは私が寝るとき、まだお酒を飲んでいたはずですがもう寝てしまったのでしょう。廊下に出てて階段の下を覗き込むも、真っ暗でした。

 皆さんも思い当たるかと思いますが、勝手が違う他人の家の階段というものは昇りにくいものです。おまけにこの家の階段は段差がある上に角度が急。さらに実家とは違い階段に電気がついていない。下まで真っ暗で、踏み外したら大怪我をするかもしれません。

 それになんというか、祖母の家は古いこともあり、階段を踏むたびに軋んで音を立て、真っ暗なままだと少し怖いというのが本音でした。


 そこで、私は寝ていた部屋の引き戸を全開にして、電気を点けました。ぷぷん、という音を立て蛍光灯が点くと、部屋から廊下に光が差し込み、階段のほうにもわずかに光が当たります。さすがに下まで明るくとはなりませんが、かなり降りやすくなりました。

 トイレに行くのはせいぜい数分、これくらいなら電気代も問題ないだろうという結論を出し、私はそのまま階下へと向かいました。

 風呂の横にあるトイレで小を済ませて水を流し、私は再び階段を昇っていきます。周囲に民家も、走っている車もないからか、とても静かな夜でした。私の足音と、木製の階段が時折、ぎしっと軋む音だけがよく聞こえました。登るにつれ、徐々に部屋から届く明かりが強くなっていきます。

 と、そこで気づきました。


 たたたたた、と。


 上のほうから、誰かが走り回っているような音が聞こえてくるのです。初めは聞き間違いかと思いましたが耳を澄ませると、やはりたたたたた、と音が聞こえます。

 始めは、電気に気づいた祖母が起きてしまったのかと思いました。ただそれにしては、足音はやけにせわしない気がします。かといってネズミの足音よりは大きいです(祖母の家には未だにネズミがいて、時折天井裏を走り回る音が聞こえるのです)。

 階段を昇り終えても、廊下には何もいません。

 たたたたた、という音が聞こえるのは電気の点いた部屋の中からです。

 何だろうと不可思議に思いながらも、私は恐る恐る部屋の中を覗き込みました。


 予想外の光景に、思わず息を呑みました。

 部屋の中を、まだ小さな子供が走り回っていたのです。

 私より少し年下、まだ幼稚園生くらいに思えました。

 子供は素早く、箪笥の物陰に隠れてしまいました。

 私は混乱しながらも部屋の中へと入り、そして子供が隠れている箪笥をそぉっと覗きこみました。しかしそこには誰もいません。隠れる場所などないのに。


 私はしばらく(数秒、数十秒かもしれません)ぽかんと呆け、そして絶叫しました。声を聞きつけ、すぐに隣から祖母が、そして階下から父たちが駆けあがってきました。私はただ泣き喚いて父に抱き着くことしかできませんでした。

 背中を撫でられ、落ち着いてから、私はことの成り行きを語りました。

 話を聞いても父と母は微笑むだけでした。「大丈夫、私もずっとこの家に住んでいたけれどそんなもの見たことがないわ」と母。「子供だったのならそれは座敷童じゃないかな、幸福をもたらしてくれるんだよ」と父。

 ただ、祖母だけはいつもよりずっと低い声で、私に問いかけてきました。


 ――電気を点けっぱなしにしたんか、と。


 祖母の目は大きく見開かれており、顔は色を失っていました。今まで見たこともない顔をした祖母が怖くて、私は何も答えることができませんでした。その日は結局、父たちに連れられ階下へと降り、両親に挟まれるようにして眠りました。

 座敷童、そんな筈がないと思いました。

 だってあれは、ただの子供ではありませんでした。その子の肌の色は黒く、ただれていたのです。全身に大やけどを負い皮膚がべろべろに剥がれた子供が、その事実には気づいていないかのように無邪気に走り回っている――そんな風に思えました。




 翌朝になって日が高く昇り、少し気分が落ち着いてから祖母が話をしてくれました。まだ祖母が小さい頃――戦後すぐということになるのでしょうか?――この近くに住んでいた女の子が一人、行方不明になったそうです。最終的には警察による大規模な捜索が行われたそうですが結局、彼女の遺体は見つからなかったそうです。よくうちにも遊びに来て、可愛い子だったんやけどなと祖母は懐かしむように言います。

 その女の子は誰もいない部屋に電気を点けっぱなしにしておくと、入ってもいい部屋だと思い遊びに来てしまう。だから、必ず電気を消さなければならないそうです。


 彼女の遺体、と祖母がそう表現したのが何となく引っかかったのを覚えています。

だって行方不明ということは、どこかに隠れているだとか迷子になっているだとか、そういうことが考えられるわけです。それなのに「遺体」だなんて、まるでそれじゃあその女の子が死んでいると分かっていたみたいじゃないですか。

 それにどうしてあの子の肌が真っ黒でただれていたのかという説明もつきません。ただこちらを見る祖母の目がやけに冷たいように思われ、それに関して私は何も問いかけることができませんでした。


 私はそのことが気にかかり、祖母の家の近所の人に、その子について尋ねてみたことがあります。老人の中には女の子が行方不明になったことを覚えている人もいました。ただ、電気を点けっぱなしにしたらその子がやって来るという話には思い当たりがないようです。つまり不思議なことに、あの子供は祖母の家だけに現れるということになります。




 あのとき見た子供がなぜ火傷したような姿だったのか、祖母がなぜ遺体だと決めつけていたのか、私は今では一つの結論を出しています。でも、あえて語ろうとは思いません。祖母は私が高校に上がってすぐに亡くなりました。私の仮説を確かめるすべはもうありません。


 ただ今でも誰もいない部屋を出るときには、電気を必ず消すようにしています。またあの子が部屋の中に上がり込んでくるんじゃないかと、そう思ってしまうのです。

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