クドリャフカ・2

「アイスクリーム?」


 俺はその女から差し出されたアイスクリームを受け取った。

 この地方特有の寒さもあって溶けずにいるアイスクリーム。

 シゲシゲと眺めた後にそれを一口舐める。

「随分と甘い。バニラ味だな、妻が好きだったよ」

 特別な物ではなく、路地で売っている普通のアイスクリーム。

 確か表通りでコズロフが売っているものだ。

 普通のアイスクリームなのに、郷愁なのか後悔なのかなんとも複雑な味に感じる。

 感情は味覚も左右するのだろうか。

 そんな事を考えながら、俺は窓に映った自分を見る。

 アレクサンドラ・ユーリエビッチ・ソーンツエフの顔を。

 思えば自分の顔をマジマジと見たのも久しぶりだ。

 余りにも色々な事があったと言わんばかりにシワだらけの顔。

 まるで自分では無いみたいだった。

「随分と自分を見る事を止めていたんだな。外見だけでなく、自分の全てを見ない様にしていたんだ」

 シワを更に複雑に歪め、アイスクリームをもう一口舐める。

「こんなもの、もうずっと食べていなかった。二十年。二十年ぶりだ」

 街のはずれ、元々人通りの少ないこの通りだが夕方になりさらに人影は無くなっていた。

 この道は我が家に続く道。

 誰も待っていない家に続く道だ。

 舐めかけのアイスクリームを眺め、俺はユックリと喋り続ける。

「1986年4月25日、この国で大きな事故があった」

 俺にアイスクリームをくれた女は何も答えず、ジッと俺を見続けていた。

 奇妙な格好をした女。

 動物の耳と尻尾をつけ、舞踏会にでもいくのだろうか?

 いや、舞踏会に行くにしてはちょと変わった服だ。

 その昔、貴族に仕えた給仕の格好だろうか。

 その女の手を見る。

 そこにはアイスクリームを包んでいた新聞紙。

 二十年前の今日おきた事故の記事が書いてあった。

「原発事故。まだこの国が別の名前だった頃の話だ。……二十年も前の話だ」

 俺は語り続ける。

「大国同士が冷戦というものに突入している頃、秘密主義が強い我が国の、地図にも載っていなかった土地での話だ」

 女の返事も待たず俺は語り続けた。


 冷戦時代であったが、幸いにも俺は生活に不満がなかった。

 原子炉運転の技術員は、いわばエリート職であり生活も保障されていたからだ。

 戦争に備えての実験も多かったが戦争が起こるという危機感も無く、俺は目の前にある幸せを守る事で精一杯だった。

 その頃の俺には、もうすぐ生まれてくる子供と妻の事が全てだった。

 あの日は戦時下で原子炉が休止状態になった時に、炉が正常に制御できるかの実験をしていた。

 原子炉を扱っている以上、本来なら万全を期してしなければならない実験の筈だった。

 だが小さな問題が重なり、実験は滞っていたが故の焦り、それが更に問題を引き起こし続けた。

 安全規定値を大きく外れる状態で実験の決行。

 不安定な炉の運転。

 予期せぬ事態の発生。

 実験は中止するべきだった。

 中止の進言は技師達の間で幾つも上がっていた。

 だが叩き上げの地位故に、功を焦った上官は無理に実験を進めた。

 彼もまた失敗が許されなかったからだ。


 この実験はまずい。


 そう思いながらも誰も止める事は出来なかった。

 上官に逆らえばクビになり強制労働地帯へ送られてしまう。

 今の世の中で考えればたかだかクビと思うかもしれない。

 だが、当時のそれは死を意味する事に近い事柄だった。

 強制労働地帯への送還、マイナス七十度にも達する極寒の土地での重労働。

 油断すれば体中がすぐに凍傷だらけになり、うかつに顔を擦ればそれだけで皮膚が張り付き剥がれてしまう寒さ。

 食べ物や医療だってキチンとあてがわれない。

 故に病気も蔓延する。

 悪循環。

 まともな生活じゃない。

 だからといってそこから逃げ出そうとすれば銃殺される。

 事実上の流刑だ。

 俺はそれを恐れた。

 俺だけじゃない、そこで働いていた皆がそうだったと思う。

 逆らいさえしなければ恵まれた生活が保障されていた。

 誰だって自分が可愛い、自分の生活が大事だ。

 心のどこかで”誰かがこの実験を止めてくれるのでは?”

 果ては”何かあっても大事には至らないのでは?”そう思っていた。

 とにかく、この実験が終わればまた平穏になる。

 家に帰って暖かい布団の中でゆっくり眠る事ができる。

 多少のミスなら仕方がない。

 そんな重く、それなのに何処かおかしい空気の中で実験は続けられた。

 そして、あの惨劇が起こった。


 原子炉の暴走。


 まず爆発が起こった。

 爆発自体でも大きな事故だ、死傷者もでた。

 だが、それ以上に恐ろしい事が待っていた。

 放射能汚染による被爆被害。

 爆発した炉から放射能が漏れ出し、それは僅かな時間でドンドン広がっていった。

 原子炉業務に関わっていながら、あまりに知識や対策が乏しかった。

 避難出来なかった人々はもちろん、極秘事項のために理由も状況もわからず現場の後処理に回された人達の被爆。

 汚染は雲にのり、雨になって降り注ぎ、近隣国、果てはヨーロッパ全域にまで及ぶ問題になった。

 何十万という人が、たった数日で死の影をおった。

 二十年たった今も被爆で苦しむ人達がいる、その人達の子供にまで被害は及んだ。


 俺は自分の生活を守りたいだけで、何十万という人を地獄に落としたんだ。


 いや、俺の所為ではないのかも知れない。

 そう思いたい。

 だが止める事ができたかも知れないのも事実だ。

 事故発生からすぐに、機密漏洩を恐れ緘口令がしかれた。

 漏洩もクソもない様な状況だったが、そんな事は関係無かった。

 だがその時間で逃げれた人、対策ができた人、助かった人がいたかもしれない。

 例えたった一日の違いだったとしても、逃がれられた人がいるかもしれない。

 なのにそれすら行われなかった。

 この期に及んで、まだ逆らって罰せられるのを恐れていたんだ。

 事が過ぎ去るのを待っていたんだ。

 その後に待っている事態を想像も出来ずに……。

 信じられるか?

 本当に俺が止めなかったからなのか?

 もちろん逆らっていれば、事故以前に政治犯として捕まっていただろう。

 結局のところ俺には未来は無かったかもしれない。

 だが妻は無事に逃げる事ができたかも知れない。

 お腹に子供がいた妻はあの日避難を急がなかった。

 こんな事になると判っていれば現場を放り出してでも駆けつけた。

 無理にでも避難させた。

 いや、逃げるまでも無い。

 例え自分がどうなろうと実験を中止させた。

 あまりにも色々な物を失った。

 あまりにも色々な物が覆い被さってきた。

 いっそあの時、俺も死んでしまっていたなら。

 もう何度そう思ったか判らない。

 俺自身も被爆した、だが生き残ってしまった。

 治療の苦痛。

 自責も何も無く、ただ苦しさから逃れるために死のうとした事もあった。

 だが政府が死なせてはくれなかった。

 犯罪人として罪を裁かれろと。

 スケープゴートだ。

 結局俺は政府公認の犯罪者になっていた。

 自殺未遂を何度も繰り返しているうちに、それを考えなくするための薬を投与された。

 気が付けば俺は自分がなんだか良く判らなくなっていた。

 それでも何があったのかは忘れない。

 忘れられない。

 忘れさせてくれない。

 寝ればあの日の夢を見る。

 起きれば何もかもを失って、それでもまだノウノウと生き続ける自分にさいなまれる。

 それなのに死ねない。

 俺は生きながら地獄に落ちてしまった。

 沢山の人を地獄に落としたのだから当然と言えば当然かもしれない。

 それとも俺はあの日にもう死んでしまって今は夢の中なのか?

 寝ても醒めても終わらない悪夢の中なのか?

 もう二度と取り戻す事が出来ない。

 まともに思考する事も意味がなくなって来ていた。

 そんな状態で街にほおりだされた。

 二十年経ち、もう償いは済んだと言われて。

 いったい何が済んだんだ?

 家に戻っても誰もいない、もう誰もいないんだ。

 俺には何もないんだ。

 罪を償う方法さえ無くされてしまったんだ。


「そんな時に君が現れた」

 俺は女を見た。

「”願いを叶えるチケット”をもって」

 俺は話続ける。

 女は何も言わない。

「夢でもいい。この後悔の時間をやり直せるのなら」

 しばしの沈黙があった。


「あの事故を無くしたい。それが貴方の願いでしょうか?」

 女はやっと口を開いた。

 女はジッと俺を見ていた。

「いや……。正直な所、事が大きすぎて具体的にどうしたらいいのか判らない」

「そうですね……チケットを使うとどういう風になるの私にもわかりません」

 女はジッと俺を見たまま続ける。

「事故が起こる前に戻るのか。事故が無かった事になるのか。それはやってみないとわかりません。事が大きすぎるのであまり例が無いのです」

 女は淡々と語り続ける。

「あの事故には色々な人が関わりすぎています。ですから変わりに別の事故が起こる可能性や、補正がかかってしまう可能性も」

 チケットを持ってきた本人でも判らないのなら、俺にはさらに判りえない事だった。

「結果的には何も変わらないかも知れません。それでもいいのですか?」

「それは……」

 俺は言葉を失ってばかりだった。

 簡単に結論が出せる話では無い。

「それに、これだけ大規模な事に関わる願いが叶えば、貴方が死ぬ確立は高いと思います」

 それは望むところだった。

 願いが叶えば命なんていらない。

「失礼な言い方になってしまいますが……」

「判っている。俺の命と引き換えでどれだけの事が叶うかなんて、たかが知れている」

「たかがとは言いません。ただ、単純に数で言ってしまっても何十万という命が関わっている出来事ですから」

 女は表情をかえず淡々と続ける。

 笑っているのでも怒っているのでも悲しんでいるのでもない、不思議な表情だ。

「成しえない願いに命をかける事は意味のある行為なのでしょうか?」

「そのチケットは命と交換に願いを叶えてくれるのだろう? 命と引き換えの様な物を渡しておいておかしな人だな」

 女が少し笑った気がする。

 だが、それは嬉しい笑いでは無い事くらいは俺にでも判った。

「正確には違います。願いに見合ったモノと引き換えです」

「……それなら、あの日に戻るというのはどうだ? 命をかければそれ位はできるんじゃないか?」

 そうすれば事故そのものに関与する願いじゃない、戻ったその後の俺の行動は別のものだ。

 正確な理論は判らない。

 実際に戻った時に今の記憶があるのか?

 ちゃんと一日時間があるのか?

 考え出したらきりが無い。

「そうですね。戻れたなら奥様を連れて逃げる事もできるかもしれません」

 俺は言葉を発していなかったはずだが、一番知りたかった答えをもらったのかもしれない。

 女は俺の考えが読めるのだろうか?

 いや、今はそんな事はどうでもよかった。

 とにかく”俺の悩んでいる事は考える必要が無い”と肯定してくれたのかもしれない。

 ならばこの方法が一番現実的かもしれない。

「ですが、不確定な要素が多すぎます。賭けみたいなものです」

 その言葉を聞いても俺の気持ちは変わらない。

「確かに無意味かも知れない。それでもやりたいんだ……。何もせずにはいれない」

 結果は変わらないかも知れない。

 だが問題はそんな事じゃなかった。

「後悔したままでいたくないんだ……! わかってる、結局は俺のエゴだ……!」

 ベシャ。

 興奮し立ち上がった俺を引き戻した音。

 アイスクリームを地面に落としてしまった。

 溶けて染みになっていくアイスクリームを見ながら少しの冷静さを取り戻す。

「すまない。せっかくご馳走になったのに申し訳ない事をした」

 女は何も言わない。

 熱くなりすぎた。

 俺は落ちたアイスクリームを眺める。

「少し余計な話をしてもいいか?」

 女は頷いた。

「時間はあります」

「時間か……。時間があるというのはどのくらいを差すのだろうな。一時間でも一年でも、生きていれば時間があるというのか?」

 女は答えない。

「死んで、尚奪われた人間の話だ」


 ニュートンを知っているか?

 ニュートン。

 林檎が地面に落ちたのをみて引力に気が付いたという有名な話がある。

 実際にはもっと別の事で発見したらしいがそれは別にいい。

 ニュートンが万有引力を唱えた事で名誉が回復した人間がいた。

 ”ガリレオ・ガリレイ”。

 神の教えが根強く、天動説こそが真理とされていた時代に地動説を唱え、異端とされた男だ。

 地動説では神の教えと違ってしまう。

 それでは神を否定する事になると、終身刑まで言い渡された。

 だが事実はどうだった?

 この地球は太陽を中心に回っていた。

 天動説がおかしいと思う者も居た筈だが、ガリレオの様に罰せられるのを恐れ皆口をつぐんだ。

 正しい事が罰せられた。

 ガリレオが終身刑を言い渡され、それから四十年以上たった。

 ニュートンが”万有引力”を打ち立てるまで、彼は一も二も無く異端のままだったんだ。

 四十年だ。

 その時にガリレオは生きていなかった。

 実際には減刑し、ある程度の自由はあったらしい。

 だがその後の人生はどうだった?

 家にも戻れず一生監視付きの生活だ。

 彼は家に戻れないまま死んだんだ。

 それから350年たってやっとローマ教皇が裁判が間違いであったと謝罪した。

 350年後。

 そんな謝罪、本人が喜んだと思うか?

 ”それでも地球は回っていた”

 彼は間違った事も言っていたが、地球が回っていた事は事実だ。

 その遠心力と引力で重力なんてものまで作り出していた。

 我々はそのおかげで宇宙に放り出される事も無く大気に包まれ命を貰っている。

 だがその時代、科学的に正しい事よりも神の教えに添っているかが求められた。

 真実が認められず人の考えた神の都合に潰された。

 ガリレオは敬虔なカトリック信者だったらしい。

 350年間、自分の信じてきた”教え”に”異端”であるとされたんだ。

 俺は無神論者だ。

 異端とされるというのがどういった事柄なのか実感は無い。

 だが、信仰のあるものにとってはまさに地獄のような思いだったんだろう。

 ”地動説を排除せよ。”

 神はそんな事を望んだか?

 違う。

 人間がそう思い込んだだけだ。

 地動説では自分の考えた神の教えと違ってしまうと。

 信仰は大切だろう。

 だが信仰に人が仕えるのはどうなのだ?

 何を信じればいいんだ。

 では科学が正義なのか?

 科学でもたらされたものは多い。

 確かに原発による供給は大きかった。

 だが失ったものも多い。

 我々の科学力。

 世界初の人工衛星スプートニク。

 そして始めての有人宇宙飛行に成功したのも我が国だった。

 スプートニク・ショックという言葉がある。

 世界に与えた衝撃は大きかった。

 特に全てにおいて優位と信じていた対峙国が受けた衝撃は大変なものだったと聞く。

 もしあのロケットに核弾頭がつまれていたら、そう恐怖したと。

 実際にはそう言った事態にはならなかったが、その事で色々なものが変化した。

 そんな、世界に先駆ける宇宙技術の成功。

 一見華やかな出来事だが、その影には何も知らない犬達の犠牲があったのを知っているか?

 最初のスプートニクが打ち上げに成功した勢いを殺してはならないと、わずか一ヵ月後に生命を載せたロケットが飛んだ。

 クドリャフカという一匹の小さな犬を乗せて。

 なぜ犬なのか?

 理由は色々あったらしいが、一番の大きな理由はいきなり人を飛ばすのは危険だからだ。

 動物実験だ。

 打ち上げの準備のため、野良犬達をかき集めて訓練は行われていた。

 クドリャフカ、彼女もその中の一匹だった。

 その実験の何よりの問題は片道キップだった事だ。

 本来なら科学者としては万全を期したかったのだろうが、政略的な事も絡みわずか一ヶ月で準備をする事になった。

 後の有人飛行に向けての先駆けというのもある。

 そのため、打ち上げるのはいいが回収する術の無いまま計画は進んだ。

 たった一匹の小さな命すら守れないまま打ち上げをおこなったんだ。

 犬を飼っていた科学者達はそんな事は望まなかったと思う。

 無事に打ち上げて生還させたかった。

 それが情なのか名誉なのか判らない、理由はどうあれ生還させたかったと思う。

 だが命令に逆らえば未来の無い世界だ。

 泣々従ったのか?

 科学の進歩だと喜んでやったのか?

 それは判らない。

 それでも人間はいい、意志が確認ができる。

 酷い選択であったとしても認識はできる。

 だが何も判らない犬はどうだった?

 世界で初めて宇宙へいける栄誉。

 あの犬はそんな事を望んだのか?

 野良犬だった彼女が、実験のためとは言え、優しくしてくれる人に出会った。

 寄せ集めの集団とは言えきっと家族だったんだ。

 栄誉なんかいらない。

 クドリャフカはただ家族の下へ帰りたかっただけじゃないのか?

 人類の進歩を乗せた科学の英知は、小さな犬のたったそれだけの願いも叶えてやれなかったんだ。

 それすら許さない時代だったんだ。


「……話がそれてしまったな」

 女は身じろぎもせずに聞いていた。

 俺はまた話を始める。


 そんな国だったから仕方が無いなんて言いたいんじゃない。

 言いあげていけば、どこの国であろうと切りが無いだろう。

 ガリレオの事だって、地動説以前にガリレオの態度の悪さに問題があったからだという話もある。

 いまとなっては本当の事なんて判らない。

 ただ、ハッキリわかる事がある。

 俺は家族と幸せに過ごしたかっただけなんだ。

 神を信じなかったからこんな目にあっているのか?

 神は信じない者を地獄に落とせと望むのか?

 何かの本で読んだ。

 最後の晩餐の時にキリストは裏切り者のユダを指差していた。

 だが何故だ?

 なぜ裏切り者と判っていて共に行動したんだ?

 なぜ最後になって裏切り者だと示したんだ?

 キリストが神の使いならば裏切り者のユダを見抜けなかったなんて事は無いだろう。

 見抜けなかったのではなく、判っていて全てを受け入れたのでは無いか?

 もしかしたらユダにそれを命じたのかも知れない。

「神を裏切る者」その恐ろしい出来事を、恐ろしい試練を。

 生涯どころか死んだ後にまで糾弾される罪。

 裏切りの恐ろしさを世の中に伝えるために。

 何度も言うが俺は無神論者だ。

 実際はどうなのか知らない。

 だが俺は「裏切り者」という事柄に恐怖した。

 国を裏切り、後ろ指をさされる事に恐怖した。

 家族に被害が及ぶ事も。

 だから”誰かが何とかしてくれるだろう”と思ってしまった。

 俺がやらなくても誰かがやってくれるだろう。

 俺がやらなくても責任を取る必要はない。

 そう思っていた。

 だが本当の裏切りは何だ?

 何に対する裏切りだというんだ?

 国に?

 神に?

 いったい何にだ?

 責任の問題?

 そんな事は些細な事だった。


「一番の裏切りは自分自身に対してでは無かったか?」


 俺は息を切らす。

 女はまだ動かない。


 あの仕事についてすぐの頃、ある失敗をした。

 仕事についた矢先だ、せっかくありつけたこの仕事を失うのではと恐怖した。

 その時の上司がそれを庇ってくれて事無きを得た。

 彼は至って普通に接してくれた。

 『若い時は良くある』笑って気にするなと言ってくれた。

 だが彼はその事が原因で強制労働へ送られる事になった。

 彼はそれでも笑って気にするなと言ってくれた。

 どういう意図があったのかは今も判らない。

 それが気まぐれであったとしても確かに俺に向けられた優しさだった。

 俺もいつかそうしようと思っていた。

 それなのに俺は先送りにした。

 ”今回は誰かがやってくれるだろう”と。

 何時の間にか理想の自分とかけ離れていた。

 そしてその罰で愛した女を失った。

 生まれる前の命までも失くしてしまった。

 突拍子がないかもしれない、だが実に理にかなった話だ。

“生活を守るため”という名目で問題から逃げたんだ。

 僅かな金を得るために裏切ったとされるユダとなんら代わりが無い。

 生まれてくる子供との生活の為にと言って、第三次世界大戦の手伝いでもした気分だ。

 その場の事だけで、先の重大さに想像がついていなかった。

 俺が一人で被る責任では無いかもしれない。

 同じ様に思っている奴も何人かいるかもしれない。

 その人が同じ様に罰せられるのか?

 同じ様に罪を背負ってるのか?

 そんな事は知らない。

 だが俺は、俺がした事を永久に忘れようが無い。

 俺が何をしてしまったのか俺が知っている。

 誰よりも、俺が俺を許さない。


「だからやり直すのですか? あの日の選択を」

 黙って聞いていた女が口を開いた。


「そうだ……。もう一度。今度こそ正しいと思った事を選ぶんだ」

 女は少し考え、言葉を続ける。

「例えば、事故の直前に戻ったとします。その場合は貴方が実験を止めるという事ですよね?」

「そうだ」

「でも、それをすれば規律違反で罪を問われます」

「そうだな。結局政治犯になってしまうだろう」

「その後に残される事になる奥様はどうなるのでしょうか?」

「それは……」

「貴方はそれでいいかもしれません。ですが、奥様は貴方の罪を背負って強制労働に送られる事になるかもしれませんよ。政治犯の妻の汚名をかぶって」

 俺は言葉を失った。

 確かにその通りだ。

「余計なお世話と判っています。ですが、今を生きてこの先につなげる事をしてみては? 被爆した人達の為に何か償いになる事をしてみるなど」

「……」

「失敗を無かった事にしたいのが貴方の願いなのですか?」

「……そうだな。ここまで言っておいて結局俺は自分の事ばかりなんだ」

 俺は改めて考える。

 まだ何かを偽っていたのか。

 かっこつけたかったのか。

 大義名分が欲しかったのか。

「無かった事にしたいんじゃないんだ。もっと単純な理由なんだ」

 俺は答えを見つける。

「たった一日でもいい。あと一日一緒にアイツを一緒にいれたら」

 自分の真意に俺は崩れ落ちる。

「いや、数分でもいい、一分でもいいんだ」

 本当に言いたかった事。

 本当に求めた事。

「イーラに会いたい」

 本当に望んだ事。

 どうしてそれを認識できなかったのか。

 なぜ歪んでしまったのか。

「自分の気持に区切りが欲しい。ワガママな話だが……さよならを告げたい」

 俺の願い。

 家族の元に還りたい。

「そこで後悔の無い選択をしたいんだ。彼女の為に、生まれてくる筈だった子の為に」

 一番大事にしたかったモノを一番傷つけてしまった。

 それを取り返したい。

「もう間違えない。都合の良い話だが。もう間違えない」

 後悔しても、もう遅い事は判っていた。

 だが他に何を望む事がある。

「たとえそれが一分だったとしても、この二十年間に比べたら……ずっと望んでいた一分なんだ」

 落としたアイスクリームの上に小さなシミができる。

 俺は涙を落としてしまった。


「すまない……。感情的になりすぎたな」

 もう一度立ち上がる。

「涙というのは不思議なものだ。嬉しくても悲しくても流れる」

 女を見る。

 真っ直ぐに見る。

「俺はこの二十年、その涙を流す事すら忘れていた」

 女は静かに淡々と話し始める。

「生きるのは選択の積み重ねです。過去を一度直しても結局また次の選択があります。あの時にああすれば良かったと、また嘆いてしまうかもしれません」

 本当にその通りだ。

 間違えたくないからと怯えて、また間違いを繰り返す。

「きっとその繰り返しです」

「そうだな。ズルイ選択だ」

 既に最悪の結果があるから選ぶんだ。

 結果が良かったなら、今の選択もしなかっただろう。

 あの後に事故が起こらず平穏に暮らしていたら後悔なんてしなかっただろう。

「仮に今回チケットで選択をやり直したとします。でも、もっと酷い結末になってしまったら貴方は後悔しないでいられますか?」

「アレ以上酷い事なんて……」

 今は多少冷静になったのだろう。

 頭が働く。

「そうだな。あの日だって誰があの惨事を想像していたっていうんだ」

 起こってみなければわからなかった事。

 だが、今のように冷静に考えられたら少しは違っていたのではないだろうか。

 自分が成すべき事を歪めなければ、もっと出来る事があったのではないだろうか。

 悲しみはあっても、後悔は無かったのではと思う。

「間違いは良くない事だ。だが、もし間違ってしまったなら」

 もう一度まっすぐに女を見る。

「償うにしても選びたい。どんな事であれ、答えを出し、自分で選んだと覚悟したい。そういう事なんだろうな」

 選らんだ事を後悔しない事。

 いや、後悔はしてしまうだろう。

 それを受け入れる覚悟が欲しかったんだ。

 もう選ばない自分にならない。

 そう成らなければいけない。

「俺はもう誤魔化さない」

 正しい事なのかは判らない。

 判らないが、もう充分失ったんだ。

「もう……」

 女が俺を見つめる。

「余計な事を言ってしまってすいませんでした」

 女は微笑んだ。

「今更こう言うのはなんですけれども、応援しています」

 優しい微笑だった。

 この二十年、見た事が無かった笑顔だった。

 俺に向けられた優しい笑顔だった。

 女は小さな紙を差し出してきた。

「願いが叶うチケットです。名前を書き込んでください。それで契約成立です」

 俺はソレを受け取った。

「ありがとう」

 チケットを眺めながら女に話かける。

「一つお願いがある。これは君個人へのお願いだ」

「なんでしょうか?」

「そんなに親しい訳ではないから無理に聞いてくれとも言えない」

 女は黙って聞いていた。

「もし巧くいったなら、生まれてくる子供に、俺のかわりにアイスクリームを買ってあげてくれないか?」

 今なぜそんな事を頼むのか?

 願いを叶えれば消えてしまう自分が、それでも何かを残したい足掻きなんだろうか?

 それにしたって何か気の利いた物を考えたかったが、妻の好きなものくらいしか思いつかない。

 それもアイスクリームしか思い浮かばない自分に改めて辟易する。

 女は少し考え、言葉を続けた。

「配達人としては、別の願いを叶える事になってしまうのでお受けできません」

「そうか……、無理を言って……」

 唐突に女は持っていたアイスクリームを落とした。

「いけない。せっかくのアイスを落としてしまいました」

 女は俺に手を差し出す。

「配達人としては駄目ですけど。私が落としてしまったアイスを買い直してくれる友人の願いなら喜んで」

 俺は笑った。

「ありがとう」

「……すいません、もったいない事をしました」

 女はすまなそうに笑った。

 俺も笑った。



 地面に落ちていたアイスクリームが溶けていく。


 動物の耳と尻尾をつけた奇妙な格好をした女の子はソレを眺めてた。

「そのアイス、落としちゃったの?」

 話しかけた僕を女の子が見た。

 手にはアイスクリームを包んであったものだと思われる新聞紙で出来た袋。

「その新聞紙、コズロフのとこでしょ? アイスなんて溶けちゃうのになんでかあそこは新聞紙でくるむんだよね」

「新聞紙ですか?」

 女の子は今まで気がつかなかったみたいな顔で包みを見直す。

「ほら僕のも」

 僕は手に持ってたアイスクリームを見せる。

何を隠そう、僕も今買ってきたばかりだ。

「良かったらこれあげるよ。二つあるから」

 記事の内容こそ違うけど同じ新聞紙の包みをはずし、アイスクリームを差し出した。

 女の子がマジマジと僕をみる。

「いいんですか?」

 女の子が僕をみつめながら聞いてきた。

 あまりにまっすぐに僕を見ていた。

 なんだかドキドキしながら答える。

「うん。僕の分をあげるよ。あ、チョコでいい? バニラは母さんが好きなんだ」

「……貴方は食べないのですか?」

「うん。一緒に食べようかと思ったけど、母さんの分があればいいよ」

 アイスクリームを渡しながら僕は話し続ける。

「特に話を聞いた訳じゃないんだけど、父さんとの思い出があるみたいで、昔からこの日には必ずアイスを食べてるみたいだから買ってきたんだけど……」

 僕は聞かれてもいないのにベラベラと喋り続ける。

 何故かはわからないけど、この女の子の事が気になった。

「……どこかで会った事ある?」

 女の子は黙って僕を見ていた。

「ああ、僕はフェージャ。フヨードル・アレクサンドロビッチ・イワノフ。あやしいものじゃないよ。……って自分で言ったら怪しいか」

 僕は笑ってみせる。

 女の子はやっと笑ってくれた。

 でもその笑顔は可笑しくて笑った感じじゃなかった。

 何処か郷愁じみたものを感じる不思議な笑顔。

 その笑顔になんだか照れてしまったのを誤魔化しながらにアイスクリームを渡す。

 女の子は受け取ってからしばらくそれをシゲシゲと眺めていた。

「食べなよ。ここのは中々溶けないけど、また落しちゃったらもったいない」

 それでも女の子はジっとアイスクリームを眺めていた。

「二十年前の今日、何があったか知っていますか?」

「え……?」

 不意に聞かれた質問。

 最初は何を言っているのかわからなかったけど、持っていた新聞記事が会話を繋げる。

「ああ、もちろん。原発事故の事だよね。おねーさんが手にもってる記事がそうだよね」

 おどけるように会話を続けた。

「朝、新聞を買ったけど、アイスについてくるならワザワザ買わなくても良かった」

 僕は笑ってみせたけど女の子は真剣な顔のまま、今度はまた僕をジッと見ていた。

「記事に書いてある男の人の事は知っていますか?」

「え、ああ……。えっと……。名目は政治犯だから表立っては言われないけど、原発事故の時に実験の中止を言って収容所に送られた人だよ」

 僕は母さんに良く聞かされていた話を思い出す。

 政府から発表されている話とは違う話を。

「事件当日に町へ戻ってきて、近隣の人達に危険だから逃げろって言ってくれたんだって。まだ生まれてなかったけど僕も助けられたんだ。それに母さんも周りの人も気をつかってか言わないけど僕の名前は……」

 女の子はジッと僕を見ていた。

「いや、ごめん。とにかくそんな感じ」

  女の子はずっと僕を見ていた。

 目が潤んで見えたのはどうしてなんだろう。

「そうですか……。日時は?」

「え、日にち? そこに書いてない? 1986年4月26日。さっきおねーさんも言ったけど二十年前の今日だよ」

 女の子はジッと僕を見続けていた。

「26日。そうですよね。25日じゃない」

 女の子はそのまま黙ってしまった。

 何故か立ち去れない僕は彼女との話題を探す。

「えっと……こんなところで何をしていたの?」

 少し間を置いて女の子は喋りだした。

「人を待っていました。約束を守るために。友達との約束を守るために」

「人を? ふ~ん」

 あたりを見回してみる。

 でも僕達以外に人の気配は無かった。

「会えたの?」

「ええ。会えました」

「そっか、良かった」

 僕は笑った。

 女の子も笑った。

 今度は嬉しそうに笑った。

「頼まれていた事とは逆になってしまったけど、きっと許してくれると思います」

「頼まれた事?」

 女の子は笑ったまま答えてはくれかなった。

 どうしてかは判らないけど、もっと色々話してみたかった。

 でも母さんも待っているし、今日は特別な日だからそうもいかない。

「ここはあまり人通りも無いし、早く家に帰った方がいいよ」

「ありがとう。お母様によろしくお伝えください」

「……もしかして母さんを知っているの?」

 女の子はまた笑顔のまま答えてくれなかった。

「皆には私情に走っちゃダメって言ってるのに、私もまだまだです……」

「え?」

「独り言です」

 不意に地面に小さな染みができた。

 涙がこぼれ落ちていた。

 女の子は笑ったまま泣いていた。

「……おねーさん泣いてるの? 大丈夫? 何か悲しい事を思い出したの?」

「いえ。……アイスが甘すぎてむせてしまいました」

「甘くてむせるなんて聞いた事ないよ」

 僕は笑う。

「そうですね、私もはじめての理由です」

 女の子は笑ってた。

 僕はこの笑顔を一生忘れないんじゃないか、そう思ってしまいそうな笑顔だった。

「でも、悲しいからじゃないんです」

 泣いているのに嬉しそうだった。

 僕は何か涙を拭くものを探そうとポケットをさぐる。

「ありがとう」

「え?」

 顔をあげた時に女の子はいなかった。


 世界は今日も回って行く。

 涙が地面に落ちていく。

 誰かが言った。

「それでも地球は回っている」

 地球はまわり続ける。

 重力は消えない。

 帰りたかった人々とその想いが放りだされない様に地球が引っ張り続ける。

 地球が止まらないから私達は宇宙へ落っこちないでいられる。


 ここで貴方を待っていられる。

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