クドリャフカ・3
気が付いた時、世界に私は一人だった。
上を見れば薄汚れたコンクリートの長い顔が突っ立っている。
それを幾つも並べたこの新宿は、足元の私の事なんか知りもしないんだろう。
私がいる公園は巧く過ごせば夜露もしのげて便利なところだった。
同じ様に公園を徘徊する者が多く、お互い不必要に関与したり追い出す様な輩もいない。
分相応にしていれば縄張り云々の問題なく、幸いな事に私は体も大きく眼つきも悪かったから、尚更不用意に近づいてくる者もいなかった。
私は両親というモノを知らない。
捨てられたのか何なのか知らないけど興味は無かった。
知ったところで何もない。
私がこの世界で一人な事には何の変わりも無い。
別に世の中と馴れ合いたいとは思わなかったし、所詮そんなモノだろうと思っていたから苦痛は無かった。
下手に信じたり期待したところで特に良い事も悪い事も無い。
自分が食べる分位は自分で確保できた。
日々の食べる物と寝る場所があれば何も問題が無かった。
ただそれだけだった。
ただそれだけの毎日だった。
あのおっさんと知り合ったのはそんな風に過ごしていた時だった。
「おっす、今日も元気にしてるか?」
仲良くしたつもりは無かったが気が付けばいつも話しかけられていた。
特に返事をするでも無い。
それでも、何が気に入ったのかおっさんは毎日私に話かけてきた。
仕事の帰りとか、お昼休みに公園に寄っているらしいが良くは知らない。
私がおっさんと一緒にいたのは、おっさんが気に入ったからでは無く、只面倒なので動かなかっただけの事だ。
ほっておけばおっさんはひとしきり喋って帰っていくだけの事だった。
気がつけば何ヶ月かをそんな風にすごしていた。
とは言え私の生活に時間とか曜日はあまり関係なく、ただ朝か夜か、暖かいか寒いか位のものだった。
「今日もいい一日だった!」
おっさんはそう言って缶コーヒーをあおる。
良くない日があるのかと疑問に思う事もあるが、別にそれを聞いたところで自分に何の得も無い。
おっさんもたぶんそんな事を聞きかえされる事は期待していないだろう。
「神様、今日も一日無事に終わりました、ありがとうってな。乾杯!」
何がありがとうなんだろう。
神様が何をしてくれたと言うのだろう。
私は“ありがとう”と言う言葉を使った覚えが無い。
嫌いとか言う訳では無い。
必要が無い、それだけの事だった。
ありがとうを良く口にするおっさん、日々を普通に生きている様に見えた。
おっさんに神様がどう関わってくるのかなんて知らない。
そもそもおっさんが信仰を持っている様にも見えない。
ただなんとなく神に祈ってるんだろう。
どうでもいい事だった。
どうでもいい事なのに最近はおっさんの言う事を気にする様になっていた。
不思議な物だ、慣れとか習慣みたいな物なのだろうか。
それもどうでもいい事だった。
最初はうっとおしかったけど、特に危害を加えるでもないし放って置いた。
おっさんは本当に色々話かけてきた。
今日食べたお昼の事。
天気の事。
生まれた子供のためにやめた仕事の事。
始めたばかりで慣れない新しい仕事の事。
自慢だという家族の事。
嬉しそうに話ていた。
私には理解できないがおっさんには大事な物があるのだろう。
どうしてそれを私に言うのかは知らない。
言う事で自分の幸せを確認しているのだろうか。
だとしたら迷惑な話だ。
でも他にやる事も無いし、別にどっちでも良かったからそのまま聞いていた。
相槌を打つ事も無く、ただ其処にいただけの話でもある。
いや、時間つぶし位にはなったかもしれない。
「オマエはいつもここにいるけど家はあるのか? 家族はいるのか?」
何故そんな事を聞くのか?
おっさんに何の関係があるのか?
私はそれを聞き返したりはしなかった。
「もし良ければ家にこないか?」
何時の頃からかおっさんの家に来ないかと誘われる様になった。
とは言え、ついていく気にはなれない。
何故ついていく気になれないのか、あまり考えない様にしていた。
考えると自分の好まない答えになってしまいそうだったからだ。
下手に信じたり期待したところで特に良い事も悪い事も無い。
その考えを変えたところで自分にプラスがあるとも思えない。
だからいつもの様に黙っていた。
そういう時は少しの沈黙がながれ、少し寂しそうなおっさんの顔があった。
なぜ私を誘ったのかは知らない。
このおっさんの事だから、たぶん私じゃなくても良かったんだと思う。
誰にでも優しくしそうなおっさんだから、誰でも良かったんだと思う。
「まったく無口な奴だなぁ」
おっさんは笑っていた。
おっさんは良く私の頭を撫でた。
最初は嫌で振りほどいた。
激しく拒絶したけれど、それでも懲りずに撫でてくるおっさんにあきれて好きにさせた。
心地良かった気温が蒸し暑く感じる様になってからもおっさんは撫できた。
まったく、何から何までしつこくて、人懐っこいおっさんだ。
困った事に何時の間にか撫でられるのは嫌じゃなくなっていた。
それどころか今の状況をわりと気に入っている自分がいた。
「あのおじ様の事が好きなんですか?」
私のもとにはもう一人異邦人が来ていた。
街頭のニュースで見た事があるが、メイド服とかいう物を着た女だった。
私でも知ってるとは言え、一般的な格好では無いだろう。
ホームレスも多いこの公園で女一人がそんな格好なのはなお珍しい。
けど周りの皆はあまりその事には関心がないのか、この女をジロジロ見る様な事はなかった。
ここでは無関心が基本だ。
だからこそ私もここで過ごしていた。
私も自分から女を見たりはしなかったが、この女もまた、おっさんの様にやたら話かけてきた。
「あなたが誰かと一緒にいるなんて珍しいですね」
何時も通り女は話かけてくる。
もともと話しかけてきた理由は”願いが叶うチケット”というのが私に当たったかららしい。
自分の”何か”と引き換えに願いを叶えてくれるチケットだそうだ。
それの受け渡しの為に私の所へ来るらしいのだが、私はそんな物は欲しくなかった。
こういった怪しいモノは良くも悪くもロクな事にならない。
この女もそれは理解した上で来てるらしく、今ではチケットを渡す事よりも仕事の愚痴を言う事の方がメインになっていた。
「ルール、ルールって五月蝿過ぎなんです、ウチは」
愚痴の内容は理解できなかったが、その格好同様に少し浮世離れしてるらしいのは感じていた。
「予定された枚数のチケット以外は勝手に配っちゃいけない。回収はどんな些細な事でもキッチリやらないと秩序が乱れるからとか。細かすぎです」
本当にただの愚痴だった。
「多少の温情位はかけてあげたいじゃないですか。私達は何の仕事をしてるのって思ってしまいます」
そもそもこのチケットというのがなんなのか理解できない。
色々と規則があるらしいが、どうにも神がかった事を言っている様に聞こえた。
「……それでもルールは守らないと歯止めが効かなくなってしまうから。それを破ったら私達は権利を剥奪されて大変な事になってしまいます」
そもそも普通という物を私は知らないから比べようも無いのだが、それでもこの女が何か不思議な空気をもっている事は感じていた。
物事に無関心とは言え、公園の住人達がまるで気が付かないかの様にこの女を見ないのも何か関係しているのかもしれない。
「それでも悩んでやめちゃう子達がいて、あの子達は幸せになってるんでしょうか……」
女はしんみりと語った。
でもまたすぐ怒り出した。
「神様側が寛大に許しすぎるからいけないんだと思います。おかげで私達の方で帳尻合わせ」
本気で神様に文句を言っているらしい。
理解しがたい女だ。
信仰とも違う様だけど、まるで身近な存在の様な言い方だった。
そう言えばおっさんもたまに愚痴をこぼしていた。
「いかんな! やっぱ未練がましい。うん」
愚痴というか自問自答なのかもしれない。
「ちょこっと位なら絵なんて趣味だから描いちまってもいいかなって思うんだけどな。自分で決めた事だから自分が守らなきゃいい加減になっちまう気がするんだよ」
やりたい事があるならやってしまえばいい。
どうせ自分がそれを守ってるかどうかなんて、他の奴は知らないのだから。
「俺はあんまり器用じゃないからな、それをしちゃったらズルズルやっちまいそうなんだよ。コレくらいは。コレくらいはってさ」
おっさんは何時もそうやって同じ事を繰り返し言っていた。
よっぽど未練があったのかもしれない。
でも私にはあまり関係の無い話だ。
「あの絵もそうだ。本当は捨てようとしたんだよ。でも母さんがどうしてもってな。いや、嘘は良くない! なんだかんだいって飾ってくれたのを喜んでるのは確かだしな」
おっさんは説明も話も下手だ。
そもそもあの絵と言うのが何の事だか判らない。
「それにな、ヒロシがたまに絵なんか描いてさ。これが結構いいんだよ。俺、嬉しくてな。つい、いっぱい誉めちゃってさ」
おっさんは私の反応なんか気にせずドンドン喋り続ける。
「最近仕事で遊んでやれなくなっちまったからさ。あんまりウルサク言うのも止めようと思うんだよ。だからせめて誉めるくらいはな」
そんなの直接本人に言えばいい事だ。
私に言ってどうするんだろうか。
「アイツがもっと絵を描いてくれたらいいなとか思ったりな。いやいや、何言ってんだろうな俺は!」
おっさんは嬉しそうだ。
よっぽど大事な事なんだろう。
なのに大事なモノを捨てなきゃいけない事なんてあるんだろうか?
大事な物が無い私が言う事では無いかもしれないが。
「コイツもさ、気に入ってるから使ってるんだけどな」
そう言って革製のキーホルダーを私に見せる。
普段はベルトにくくりつけた物をポケットにいれているらしい。
「従兄弟がこういう革細工の作っててな。昔さ、これの絵柄を頼まれて手伝ってみたら面白くてさ。根付なんて洒落たモンはいらないと思ったんだけど自分で使ってみるといいもんだな」
根付、キーホルダーというやつの事だろうか。
たまにポケットから覗いているのを見た事がある。
絵柄というのはそのキーホルダーに描かれた模様の事をいっているのだろうか?
その良し悪しは知らないが、手が込んでいる物なのは私でも理解できた。
「でもボタンつけるとこ間違えたみたいで、すぐバカになっちまうんだよ」
おっさんは嬉しそうに話す。
そんな顔をするなら続ければいいのに。
いや、おっさんの事はあまり考えるのはやめた方がいいかもしれない。
何故かは知らないけど、そんな気がする。
無関心だったハズの私は何時の間にか気にする事が多くなっていた。
それは少し暖かいのに、いつかくる”寂しい”という凍えそうな空気をまとっていた。
この奇妙な生活は更に続いた。
暑さにうなだれる日々が終わり、また過ごしやすい時期になった。
この季節が過ぎると今度は寒さの問題がくる。
色々問題はあるのだが、まあその時になったら考えよう。
一人なら何とでもなる。
幸い新宿は食べ物に困る事は少ないし、寝床の確保だけできれば大丈夫だろう。
そういえばおっさんが持ってきた物を食べた事がある。
前にほんの気まぐれで食べたのだが、私がそれを好きだと勘違いしたのか、以来そればかり持ってくる。
「お! オマエもこれ好きか? よしよし。家の子が好きでな、いっぱい買ったからお前も遠慮せず食っていいぞ!」
それはアイスクリームだった。
「やっぱアイスはバニラ味にかぎるな! 甘い!」
甘いのは当たり前だ。
それなのにおっさんは嬉しそうだった。
嬉しそうなのはいいけど、もう暑い日々も終わるのにアイスクリームなんて毎日持ってこられても困る。
困るのに毎日食べ続けてる私もバカなのかもしれない。
なぜそうしたのか?
なぜ気にする事が増えたのか?
何もかもがどうでもいい筈だった私の心の何処かに、一人の寂しさがあったからかもしれない。
一人の方が融通が利くし、何より煩わしさが無い。
なのに気が付いたら私はおっさんの事を気にかけていた。
何時生まれたか知れない私が何時死んだところで大した問題でも無いだろう。
消えてしまうだけの私に何かの権利があるとも思えなかった。
権利なんて求めてもいなかった。
生まれてきて良かった事も悪かった事もない。
ただ消えていくだけの話だ。
そう思っていた。
だから誰とも関わらなかった。
誰にも何も求めなかった。
誰かに求められたいとも思わなかった。
それでも今感じる寂しさは、おっさんの所為かも知れない。
私を知っている存在があると思ってしまったからかも知れない。
下手に信じたり期待した所で特に良い事も悪い事も無い。
そう思っていたのに、変わろうとしている自分に気が付いてしまった。
これ以上おっさんに会わないのが一番なんだろう。
でも私は動くのが面倒だったし、そんな事でワザワザ自分を煩わすのが嫌だった。
ほおっておけばいい。
そのうちおっさんもいなくなる。
おっさんはそんな私の気持ちなんて知りもせず話を続けた。
いつもの日々。
心地の良い日々。
おっさんがキーホルダーを忘れたのはそんないつもの日の一つだった。
いつも通りアイスクリームを持って来て、何か用事があると言ってすぐに去った。
おっさんが腰をおろした時にキーホルダーのボタンが外れたらしい。
あんなに嬉しそうに、大事そうにしていた物。
そんな大事な物を忘れるなんてよっぽど慌ててたのかもしれない。
そんな忙しい日にも、ここに来てくれたんだと気づく自分。
もどかしい気持ち。
そんなもどかしい気持ちを誤魔化すためだったのだろうか。
それともおっさんがすぐに帰ってしまったのが寂しかったからなのか。
私はそれを持っておっさんを追いかけてみた。
たまにはそういう事もいいかもしれない。
ほんの気まぐれ。
そう只の気まぐれ……。
なぜ私は言い訳をしてるんだろう。
誰に言い訳をしてるんだろう。
答えが出ないまま追いかける。
おっさんは公園をでてすぐにある少し大きな道路の向こう側にいた。
だが成れない事はするべきじゃないとは良く言ったものだ。
考え事をして車に轢かれるなんて、まさにその典型かもしれない。
大きなブレーキ音。
気が付いたら車が私に向かって来ていた。
私は何が起こったのか判らず立ち止まってしまった。
普段なら絶対にこんなマヌケな事はしない。
本当に、成れない事はするべきじゃない。
衝撃。
回る視界。
世界が回る。
それが収まった時、地面がいつもより近かった。
目の前で赤い血が広がっていく。
生々しい色と匂い。
暖かささえ感じそうな程近い距離にある血溜まり。
地面に倒れているんだと気がついた。
なのに私には大した痛みの一つも無い。
怪我一つしていなかった。
目の前には止まった車。
車と私の間におっさんの顔があった。
おっさんが、車に轢かれそうだった私をかばって抱え込み、倒れていたのだった。
血にまみれたおっさんの顔。
怪我をしてるのはおっさんの方だった。
「おお……大丈夫か? ……根付……もってきてくれたのか? なんだ、可愛い奴だな」
おっさんが歪む様に笑う。
この人は何を言ってるんだ。
おっさんは今それどころじゃないだろ?
なんでそんな嬉しそうな顔をしてる?
あの時、おっさんはもう道路を渡ってしまっていた。
なのに私を見つけて、私が車に轢かれそうになったのを見て戻ってきてしまった。
「根付……大事なもんなのにうっかりしてたよ。俺が家に帰れないと思って持ってきてくれたのか? わざわざありがとな」
おっさんは私をかばう為に車の前に飛び出してきた。
「明日でも良かったのに、俺がウッカリ忘れた所為で持ってきてくれたんだな……ごめんな」
明日。
明日があるなんて考えた事も無かった。
いつも寝て起きれば明日になっていた。
それだけの事柄だと思っていた。
そうか、私は何時の間にか待っていたんだ。
明日を。
明日になっておっさんが来るのを。
でも今日は明日を待てなかった。
すぐに帰ってしまったおっさんを追いかけてしまった。
「ドジっちまったよ。ははは……」
なんで笑ってるんだ?
どうして私なんかをかばったんだ?
大事な体じゃなかったのか?
血が広がっていく。
おっさんの目の光がぼやけていく。
嗅ぎたくない匂いが強くなる。
時々公園で嗅いだ事がある匂い。
死の匂い。
「う……っ……」
喋るのも辛くなってきたんだろう、おっさんの言葉が少なくなっていく。
……。
おっさんは本当にバカだな。
私なんかの為に痛い目にあって。
おっさんは……。
思っていた形とは違うけど、おっさんはいなくなってしまうんだろう。
そう、またいつもの生活に戻るだけだ。
それだけの事だ。
バカだなおっさんは。
こんな薄情な奴のために。
知ってただろ?
私に何かを求めても見返りなんてないって。
それどころかこんな痛い目にあって。
バカだなおっさんは。
いったい私に何を求めていたんだ?
……。
わかってる。
おっさんは私に何も求めていなかった。
ただ私に会いに来てくれてただけだった。
見返りなんて求めていなかった。
私はウソつきだ。
おっさんがいなくなるなんて嫌だ。
撫でてもらえないなんて嫌だ。
私は自分にウソをついていた。
おっさんの事なんてどうでもいいなんて言い聞かせていた。
でもおっさんの言ったとおりだった。
ウソをついても自分は騙せませない。
自分は知っていた。
撫でてくれるおっさんの手が好きな事を。
側に座わった時に感じる、働いてきたおっさんの汗の匂いが好きな事を。
もっと笑いかけて欲しい。
もっと話かけて欲しい。
それがおっさんの気まぐれだったとしても構まわなかった。
ずっと、自分が期待して裏切られるのが怖いと思っていた。
いつかおっさんがいなくなってショックを受けるのが怖いと思っていた。
だから期待していないフリをしていた。
何も無いフリをしていた。
期待しなければ失っても傷つかないと思っていた。
でも今はそんな事よりも好きなんだ。
ただ好きなんだ。
おっさんが好きなんだ。
お願い。
おっさんに酷い事をしないで。
お願いです。
神様お願いです。
神様じゃなくてもいいからおっさんを助けてください。
私は生まれて初めて誰かと関わりたいと思いました。
この人を助けたいと思いました。
もう言い訳はしません。
おっさんが好きなんです。
助けたいんです。
なのに私の手じゃ何もしてあげられない。
人間の様に祈る事すらできない。
どうしたらいい?
何もできない。
それでもせめて何かしたくて、おっさんの顔を舐めてみた。
ゆっくり、ゆっくり舐めた。
「お……おお……くすぐったいな……。オマエから俺に触るのは初めてじゃないか? ははは……」
キズを治さなくちゃ。
血を止めなくちゃ。
「いいって……。汚れたら洗えばいいだけだ……」
止まらない。
血が止まらない。
どうしたらいい?
ただの野良犬の私の手は血を止める事もできない。
おっさんを抱きしめる事もできない。
何もしてあげる事のできない、ただ身体が大きいだけの野良犬。
それでもなんとかしたくておっさんの服をくわえ、ひっぱってみる。
動かない。
それにこの方法じゃ体を引きずってしまう。
せっかく大きい身体をしてるのに、おっさんを病院につれてってあげる事もできない。
何も出来ないただの野良犬。。
そんな私なのに、おっさんは何も求めませんでした。
野良犬だから何をしても良いって言う理不尽な暴力も。
可愛がったんだから答えないといけないみたいな見返りのいる愛も求められませんでした。
こんな私をただ優しく撫でてくれました。
たかだか昼休みや帰りがけのヒマつぶしなんだと思っていました。
それに暖かさを感じた自分が嫌になって反応しない様にしていました。
認めるのが怖くて考えない様にしていました。
本当は”何でも無い”と思ってしまうのが怖くて。
だっておっさんが私に話しかけてくれた理由なんてきっと何も無いから。
ただ”何となく”だったと思うから。
その”何となく”に暖かさを感じてしまったから。
今だってこのおっさんは目の前で起こった事だから庇った位なんだと思います。
おっさんは誰であったとしても助けたんでしょう。
おっさんは優しいから。
でもその優しさは私の孤独を加速させました。
私じゃなくてもいい。
そうしたら私には結局何もなかったんじゃないかって。
そう思いたくなかった。
”何でも無い”って事に気が付いてしまって落ち込まない様に”何でも無い”フリをしていました。
”何でも無い”に捕まって動けなくならない様に”何でも無い”フリをしていました。
でも違ったんです。
”何でも無い”って思いたくても、私には大事な事だったんです。
信じてもいいって教えてもらいました。
裏切らないでくれたおっさんのおかげで、裏切られていたとしても関係が無かった事に気づきました。
私がおっさんを大事に思っている事に何の関係も無い事に気づきました。
おっさんは見返りが欲しかったんじゃなく、ただ私を可愛がってくれた。
それだけの事。
それだけで充分な事。
もう私は満たされていたんです。
私には充分以上の事だったんです。
だからお願いです。
私はどうでもいいからおっさんを助けてください。
お願いです。
この人を苦しめないで。
私と違ってこの人には大事な物があるんです。
自分の大事なモノを投げ打ってでも選んだモノがあるんです。
なのに私の為にこの人は自分を差し出してくれました。
私はもらってばかりになってしまいます。
おっさんを連れていかないでください。
おっさんの大事な物を守らせてあげてください。
代わりにならないかもしれないけど、私を連れて行ってください。
私なんかいくらでも差し出します。
どんな罰でも受けます。
どんな事だってします。
良い事をしろというなら頑張ります。
おっさんが助かるなら悪い事でもします。
助けたいんです。
助けたいんです。
助けたいんです。
「本当ですか?」
不意に頭の中に響いた声。
気がつくといつものあのメイドが立っていた。
最近の馴染んだ顔つきではなく、初めて私のところへ来た表情で立っていた。
「その人を助けたいんですね?」
何時もとは違う空気で立っていた。
おっさんが倒れてるのを見て人が集まっている。
ちょっとした騒ぎになっている。
なのに誰も気づかないみたいにメイドは立っていた。
「その人を助けたいんですね?」
女はもう一度聞いてきた。
私の返事を待たずに女は続けた。
「チケットについては説明しましたね。……あなたの全てと引き換えにおじ様を助けてあげられます」
私の全て?
命が無くなるという事なのだろうか。
かまわない。
何の異存も無かった。
「いいんですね」
返事をした憶えは無かったけど女は答えてくれた。
「……わかりました」
女は不思議な顔をした。
「ごめんなさい、神様じゃないからタダではしてあげられないんです……」
その顔は嬉しいのか、悲しいのか、寂しいのか、一瞬だったので良く見えなかった。
見えたとしても今は関係がなかった。
「このチケットを使って願いを叶える代わりに、あなたにはチケットの配達人になっていただきます」
女はまた最初に現れた時の顔に戻っていた。
チケットの配達人?
どういう事なんだろう。
「仕事内容、規律については幾つか話を聞かせた通りです」
仕事内容?
あのいつも聞かされていた愚痴の事だろうか?
「それと……」
女は少し砕けた顔をする。
最近の馴染んだ顔、私のところに来ていた時の顔になっていた。
「ごめんね、今はそれどころじゃないわね。大丈夫、おじ様は必ず助けてあげます」
その言葉は何よりも待っていた物だった。
ありがとう。
ああ、そうか。
”ありがとう”って言葉はこういう時に使うのか。
おっさんが良く言ってたけど、自分で使ってみたのは初めてだった。
思っていたよりも心地がいい響きだ。
「さ、手を出して」
言われるまま私は手を差し出す。
「ふふ、にくきゅうかわいいですね♪」
女は私の手のひらをグニグニと押す。
本気なのか理解しがたい女だ。
「じゃあこれを拇印がわりにしましょう」
拇印。
人の風習で契約の際に押すもの。
本当は判子という道具があるらしいのだがそれが無い場合は指で押すものらしい。
となると、これは契約なんだろう。
「そう、契約です。それからチケットに名前を記入したいのだけど……。貴方の名前、どうしましょう?」
名前。
私に名前は無かった。
あったのかも知れないけど憶えていなかった。
気が付けば両親も無く、誰とも関わらない様にしていたから必要も無かった。
「困ったわ……」
女はおっさんの持っていた袋から転がるアイスクリームを見ていた。
何時もの様に、子供へのお土産だったんだろう。
「そうね、じゃあおじ様につけてもらいましょう」
女はアイスクリームを拾い上げた。
「バニラ、あなたの名前はバニラにしましょう」
私に名前ができた。
“バニラ”
それが、おっさんがくれた私の名前だ。
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