クドリャフカ

伊藤全

クドリャフカ・1

「あなたはしあわせですか!?」


 夕暮れ時。

 買物のためにちょっと寄った近所のスーパーでいきなり背後からデカいベルの音と声をあびせられた。

「おめでとうございます! 貴方のしあわせをお手伝い! 特賞”何でも願いが叶うチケット”があたりました!!」

 もう一度大きくベルが鳴る。

 どうやら間違いなく俺に向かって言ってるらしい。

 ここはベッドタウンの入口にある普通のスーパー。

 この中ではかなり浮いているメイドの格好をした女の子が立っていた。

 近年はハロウィンやオタク文化というのが定着しているのをTVでも良くみかけるけど、こんな所にまでその波が来ているのだろうか。

 耳と尻尾みたいなのがついたメイド服。

 しかもやたら背が高い。

 ヒールも履いていないのに180CM位あるんじゃないだろうか。

「えっと……宗教の勧誘とかなら……」

「違います! コレをどうぞ!!」

「ああ……どうも」

 勢いに押されて受け取ってしまった商品券の様なチケット。

 普通ならすぐに突き返すところなんだけど中々凝ったデザインで印刷されていて目を引いた。

 箔押しに、スカシまで入ってる。

 スーパーの催しにしてはしっかりした印刷だ。

 俺は曲りなりにもデザイン会社に勤めてるのだけど、パッと見ただけでも手間とコストが掛かったチケットだと思う。

 職業柄というか、車内広告を見る時もレイアウトから見てしまうクセがあり、同様に渡されたチケットをシゲシゲと見てしまった。

 こんな状況なら戸惑わない方が不思議なくらいだけど習慣というのは恐ろしい。

「とりあえずですね、願い事を私に言ってコレに名前を書き込むと何でも叶っちゃうんですよ!」

 俺の様子を気にもせずに女の子は喋り続けた。

「はあ……。いやそうじゃなくて。君、何?」

 すっかり押され気味だったが気を取り直して聞いてみる。

「バニラです!」

「バニラ……アイス? ……これが欲しいの?」

 俺はたまたま手に持っていたレジ袋を掲げる。

 中には妻へのお土産にしようと思って買ったカップのバニラアイスが入っていた。

「そうじゃなくて、私の名前です! バニラ!」

「ああ……それはご丁寧にどうも。いや、そういう事を聞いてるんじゃなくて……」

 少し呆れた声で言ってはみたが彼女は全く気にしていないようだった。

 なので質問を変えてみる事にした。

 考えてみればどうしてこのよく判らない子と話を続けるのか不思議だが、何故かそのまま立ち去る事が出来無かった。

「あー……。だいたい何の特賞なの?」

「私の前を通った人の1億人目賞です!」

 意味が判らない。詐欺か何かだろうか。

「えっと……、順を追って話してもらえるかな? なんで君の前を通ると賞がもらえるの?」

「あ、そうそう、何でも叶うんですけど注意が一つありまして……」

 話を聞かない子だ。

「願いがかなう代わりに、それに見合った物と交換する事になります」

「交換?」

「例えば世界征服とい願いを叶えたいなら、それに見合う度量やその代価になる物を持ってないと成立しないんです。例えば誰かの命を救うなら自分の命と交換とか。牛乳1パックなら400CCの血液とか……」

 献血じゃあるまいし。

 いやいや、それよりも何でも叶うって何なんだよ。

 そんなバカな話がある筈が無い。

 まさに詐欺か何かとしか思えない。

 いや、詐欺師にしてはあまりに突拍子なさすぎる。

 それが不思議で、からかいがてらつい話を続けてしまった。

 つっこみどころがあったら責めたてようという意地悪な気持ちがあったのかもしれない。

「随分曖昧で適当なんだね」

「特賞ですから!」

 特賞っていうのは普通は良いものを言うんじゃないのか?

 まあいいか。

「あー……、でも俺こういうの信じてないし」

 最初から本気にしていた訳じゃないし、ぼちぼち切り上げるためにチケットを返そうとしたが彼女はその手を押し返してきた。

「まあまあ、コレも何かの縁です。私が見てない所ででしたら捨てても構いませんし」

 ワザワザ言ってる位だ、そんな事はするなと釘をさされたのかもしれない。

 でも言う事を聞く義理も無い。

「うーん、とは言ってもね……」

 なんだか話を区切るタイミングを逃してしまった。

 何故だ、なんで区切れないんだろう。

 手持ち無沙汰もあってまたチケットに目をやってしまう。

 いたずらにしては凝った印刷の中に、良く見ると手書きで名前記入欄が書き足してある。

「コレ、ここの名前記入欄? ワクが手書きじゃない?」

「あ、はい。名前書く所が無かったので書き足したんですよ」

「書き足したの!?」

 さらに良く見るとチケットの端の方に、切り離しを失敗した様なミシン目のかけらがある。

「切り離しも適当にやったの? 元の部分がくっついてるよ」

「いいじゃないですか! 効力に問題ないんですから」

「良く無いだろう。だいたいミシン目があるって事は、一枚一枚じゃなくて元はタバみたいになってる事じゃないのか?」

「細かい事は気にせず! 願いが叶うんだから儲けもんじゃないですか!」

「胡散臭いなー」

「胡散臭かろうが何だろうが、貴方には必要になりますよ」

「え?」

 返事に違和感を感じ顔をあげたところ、彼女はにっこり笑って言った。

 その笑顔に何故だかドキリとした。

 優しげに笑っては見えたけど、まるで心の奥まで見透かすような目。

 しかも突き刺す様な何かすら感じた。

 その目を見ていられずに視線を反らし、再びチケットを見た。

 得体の知れない気まずさもあって視線を戻せずに注意項目を何となく読んでいた。

 そうすると、ふと気になる事柄があった。

「このチケットってさ、願いが適った次の日に代償を回収ってあるけど……。例えばさっきの話であった命絡みの事とかなら次の日には死ぬって事?」

「そうです」

 実にあっさりと言う。

「そうですじゃないだろ。願いが叶っても死んじゃうんじゃ意味なく無い? さっきの世界征服じゃないけど、一日だけそうした所で何の意味もないんじゃないか?」

「ありますよ! 死を賭してまで叶えたい事がある!! ああ、なんてロマンティック!!」

 祈るように両手を胸の前で組み、夢見るメイドは天を仰いだ。

「いやいやいや、子供の夢ならそれでもいいけど大人には責任ってもんがあるでしょ。死んだら叶えた事の結果なんて確認できないだろうし、それこそ大事な物を守るために身代わりとかいったって、その後は守れないんだろうし。ただの自己満足じゃないかな」

「では、大事なモノって何ですか?」

「え?」

「大人の責任って何ですか?」

 俺はまた彼女の言葉に掴まれてしまった。

 急な質問と、あの何もかも見透かすような目。

 俺はたじろいでしまった。

「それは……。とにかく無責任な事は出来無いって事だよ」

 しっかり言おうとしても、なんだかシドロモドロ言ってしまう自分が情けなかった。

 願いを叶えてそれっきりなんて、“その後の事を放り出して今をやり過ごす”って事なんじゃないか?

 そんな事が良い訳が無い。

 いや、たかだか絵空事の様な話に対して考えすぎなのかもしれないけど。

 とにかく間違った事は言っていない、筈だ。

 なのに、なぜ自信がなくなる。

 とにかくまた目を逸らしてしまった。

 彼女はそんな俺に構わず喋り続けた。

「チケットは大事にしておいてください。これから生まれてくるお子さんの為に必要になりますよ」


 不意に聞こえた声はさらに浮世離れした何かを感じた。

 声というよりは音。

 鼓膜では無く魂を直接叩く様な音。

「なんでそれを……」

 いない。

 視線を戻した先に女の子の姿は無かった。

 あたりを見回して見ても見当たらない、走り去った様な音もしなかった。

「……何なんだ?」

 やり場も無く、自分の手を見てみる。

 不思議なチケットは消えずに残っていた。

「何なんだよ本当に……」


 スーパーを出た頃に辺りはすっかり暗くなっていた。

 予定より遅くなったが急いでもう一つの目的地、病院へやってきた。

「不思議な話ね」

 遅い時間ゆえ、余計静かに感じる病室。

 そのベッドの上で妻の幸子が興味津々といった感じで俺の話を聞いていた。

 幸子は来月に出産を控えているが、体が強い方では無いので大事をとって早めに入院していた。

「からかわれたにしちゃ、ちょっと不思議なとこがあってさ。なんか捨てらんないんだ」

「お養父さんの命日が近いから、もしかしたらお養父さんのお使いかも。この子の事を心配して……」

 幸子は大きくなったお腹を撫でながら言った。

「ああ……。そうか、忘れてたよ」

 たぶん苦い顔をしてしまったに違いない。

 もうすぐ親父の命日だなんて本当に忘れていた。

「お墓参りに行かないとね」

「いや、今抱えている仕事もあるし、オマエの事もある、落ち着いてからにしよう」

「……」

 俺の返事に幸子は困った顔をしていた。

「そんな顔するなって。大丈夫だよ、落ち着いたらちゃんと行く」

「……うん」

 ゆっくりと、静かに幸子を抱き締めた。

「今は自分の事を心配して。体が丈夫な訳じゃ無いんだからね」

「……ごめんなさい」

「ごめん、責めてるんじゃ無いんだ。丈夫な子を産んでくれって事だよ」

 申し訳なさそうに、それでも俺に体を預けてくれる幸子に少し罪悪感を感じた。

 俺は親父の事になると何故かムキになってしまう。

「そうだ、土産を買ってきたよ」

 気まずさを誤魔化すみたいに、持ってきたバニラアイスを差し出した。

「また、バニラ?」

 幸子が笑った。

「いや、だってアイスはバニラが一番美味いだろ? デザインも味もシンプルな方がいいんだって」

「そうね」

 幸子が笑った。


 病院を出ていつもの帰路につく。

 もともと面会時間過ぎているのに入れてもらったので長居はできなかった。

 暗い道を一人歩くと色々な事を考えてしまう。


 俺の名は和田浩司、今年で三十歳。

 高校を卒業後、とりあえず飛び込んだ冷凍食品の営業職で資金を貯めながら、いつの頃からかの夢だったデザインを勉強した。

 最初から大学なりデザインの学校なりに行けば良かったのだろうが親父の世話になりたくなかった俺は家を出てとりあえず就職した。

 正直なところ、親父への反発にしても、デザインにこだわった事にしても、なぜそんなにムキになったのか良く思い出せない。

 とにかくその後、資金をため、改めて専門学校にいき、その後、念願のデザイン会社へ入り、早3年過ぎたところだ。

 改めて一からのスタートは正直厳しかったけど、それでもやりたかった仕事だから頑張れた。

 なにより、妻の幸子が俺を支えてくれたから。

 営業時代に知り合った幸子はいつも俺の話を聞いてくれた。

 気がつけば俺のワガママを聞いて支えてくれた。

 そんな幸子が珍しく望んでくれた事。

 姉妹も無く、早くに両親を無くした彼女は何よりも家族を、子供を欲しがっていた。それなのに俺の夢を優先し力を貸してくれた。

 俺の仕事が安定するまでの間、家計を支えるために残業を増やし、ムリをした幸子は身体を壊してしまった。

 もう仕事が出来ないといという訳では無いけど、明らかに体調を崩しやすくなった。

 俺は申し訳ない気持ちと、少しでも早く生活を安定させ、子供を作れる環境にしようと躍起になった。

 その甲斐があって、今では仕事も軌道に乗り、結婚5年目を仲むつまじく迎える事もできた訳だ。

 そして来月には念願の子供も生まれてくる。

 デザインと言っても企業の提案してきた案をまとめ、それを仕上げるのがメインなので結局はサラリーマンだ。

 それでも自分の提案を取り入れてもらったり、何より自分を信頼し任せてくれるクライアントが増え、自分のやりたい事を仕事にしたと胸を張って言える環境が嬉しかった。

「そうか……、もうすぐ命日か」

 去年他界した親父はまさに典型的な昔気質の職人だった。

 精密機械の工場で部品を作り続けた四十年、何が楽しくて毎日を過ごしていたのだろう。

 いや、確かに昔は尊敬していた事もあった。でも、いつの日か親父の背丈を抜いた頃には世の中も見え始めた。

「本当……毎日毎日、何が楽しかったんだろう。楽しい事はあったのかな」

 今、自分が仕事と家庭を持ってなおそれを思う。

『いいんじゃないか。お前の好きにしろ』

 何を言ってもその返事だった気がする。

 俺が仕事を変えた時も、親父は特に何も言わなかった。

『いいんじゃないか、自分のやりたい事を選べ』

 そう言っていたけど、俺が何をしたいのかはよく判って無かったんだと思う。

 同じ部品を作って家に帰り。

 フロと夕飯に適度な晩酌。TVを見ながら寝こけて朝を迎える。

 誰がやっても同じ日々の繰り返し。

 おまけに仕事が忙しいからと遊んでもらった憶えも殆ど無く、俺はいつもお袋と出かけていた気がする。

 趣味らしい趣味も持っていなかったんじゃないだろうか。

 そんな親父にデザインがどうこうと話しても仕方が無いのでそれ以上は話さなかった。

「自分がやりたい事も判らず、しかも子供に尊敬されていない。俺はそんな親にはならない」

 誰に言うでも無く、今を噛み締める様に呟いてしまった。

「俺はやりたい仕事を手に入れた。家族もだ」

 丈夫とは言え無いが無事に子供を授かった妻。

 そして順調な仕事。

「俺は選べる人間なんだ。流されてただ毎日を過ごしたりなんてしない」

 常に変化する日々を掴み取る。

 それが充実する人生じゃないか?

 誰に問うでも無くその思いを再び噛み締めた。


 カチャン。


 小さく響く金属の音。

 家のドアの前でカギ束を落としてしまった。

 キーホルダーの止め具が少しバカになっていて時々外れてしまう。

 いつの頃からか使っている古いキーホルダー。

 北海道の土産か何かなのか革細工で凝った紋様みたいなものが入っている。

 手作り故に止め具のボタンに不具合があるのだが、デザインが気に入って使い続けている。

「ボタン付け替えるかな。カギを落としたら洒落にもなんないし」

 カギ束を拾い、部屋に入って電気をつける。

 誰もいない部屋はやはり寂しい。

 家には生まれてくる子供の為の玩具やベッドが用意してあるから寂しさもひとしおだ。

 朝に散らかしたまま家を出てってしまった場所を片付け、親父が健在な頃に妻と実家に行った時の事を思い出していた。

 普段は無口だった親父が何時に無く饒舌になっていた。

「親父が無口?」

 いや、俺が子供の頃は色々喋っていた気がする。

 何時からあまり話さなくなったんだろう。

 どうして話さなくなったんだろう。

 とにかくその日は饒舌だった事を憶えている。

 親父にしてみれば息子の妻という新しい家族を迎えたのが嬉しかったんだと思う。


「いやあ、本当にベッピンさんだ! うちの奴には勿体無い! コイツは捻くれたトコがあるけど根はいい奴なんでね、ヨロシクお願いしますよ!」

 見当ハズレな自慢や誉め言葉の連続。

 空回りしてる”寅さん”でも見ている様な言動を聞いているのが恥かしくなり、なんだかイライラとしてしまった。

「そうか……オマエもこれで家庭持ちだな。あとは家族だ! 早く子供を作れ!」

 無責任な事を言う。

 まだそれだけの蓄えも無いし、家の状況ってものもある。

「子供はすごいぞ。本当にこんな大事な物があるのかって判る時が来る」

 悦に入った様に言う親父。

「自分を投げ出しても構わないくらい大事な物がある。宝物なんだ」

 良くあるドラマのセリフを聞かされている様な感覚。

 俺はイライラしていた。

「言われなくても判ってるよ。子供が大事なんてあたりまえだろ?」

 思わずそう口を挟んでしまう。

「自分を投げ出してもなんて無責任だよ。ドラマじゃないんだからさ、残された子供はどうなるんだよ?」

 ついカッとなってワザワザ言わなくても良いような事を嫌味たらしく言ってしまった。

 親父の言う事にはなぜか反発してしまう。

「ああ……。まあ……そうだな」

 バツが悪くなったのか口篭もった親父。

 言い返さない親父に余計イライラする。

「まあまあ、お父さんも幸子さんが来てくれて嬉しいから言ってるんだし。子供の頃はあんなに浩司の事を怒ってばかりだったのにね」

 お袋が助け舟のつもりか、過去の話を持ち出した。

「おお……おお、そうだな」

「昔、お友達の自転車隠しちゃった時は大変でしたね」

「おお、あの時か!」

 小学生の頃の話だ。

 俺が友達の自転車を隠して大騒ぎになった事がある。

 いたずら気分でやったのだけど気が付いたら友達の親や先生も出てくる大騒ぎになっていた。

 今更俺が隠したと言うに言えなくなり困り果てていた時、親父が俺の様子に気がつき、そのままどやされた。

「なんで隠していたんだ! やっちまった事はしょうが無いだろう! 間違いだと思ったら潔く謝れ!!」

 親父が烈火の如く怒り、頭を殴られ、親父に引きずられ友達に謝りに行ったのを覚えている。

 あの頃は親父を尊敬していた気がする。

「本当にしょうがないヤツでね! 俺が怒って謝りに回った訳ですよ!」

 何度も同じ会話を繰り返す親父。

「親父! 俺ももういい加減分別ついてる大人なんだ、いい加減そういうの止めてくれよ!」

 声を荒げてしまった。

「おお……そっか……」

 勢い止まらずに親父を責めてしまう。

「俺はもう自分で生きていけるんだよ! 自分でやった事は自分で責任を取る、いつまでも子供じゃないんだ!」

 少しだけ張り詰めた空気。

 またやってしまった。

 どうして親父の事になるとこんなにもイライラしてしまうんだろう。

「そうか……そうだな」

 珍しく饒舌だった親父はまた無口に戻ってしまった。

 言い返さない親父、昔は口答えしたら殴られていたんじゃなかったのか?

 親父だってそういってるのに。

 皆、そのまま何となく黙ってしまう。

 やり場の無くなった視線を泳がせていると、ふと居間に飾ってある絵が目についた。

 何処かの階段の途中でお袋と子供の頃の俺が笑ってる絵だ。

 中々味のある良い絵で、いつ描かれたものかは憶えてないけど、額に入れられ、ずっと居間においてあった。

 親父が絵の中に入って無いと言う事は、いつもの様にお袋と二人で出掛けた時に似顔絵屋か何かが描いたのかもしれない。

 この絵を見ていると、親父は何時も仕事だと言って一緒に出かけた事が無かったなと改めて思う。

「……そろそろ帰るよ」


 帰りがけ、親父とのやりとりを見かねたお袋がコッソリと俺達夫婦へ話に来た。

「お父さん、最近はあんまり言わないけど本当にオマエが可愛くてしかたないんだよ。お前のために働き詰めで……」

「俺の為になんていわないでくれよ。まだわからないけど、俺だって子供ができたらそうする。そのために今を頑張ってるんだ。いつまでも子供は子供のままじゃない」

 お袋の言う事も判る。

 でも本当にそう思ってるなら何故親父が直接言いにこないんだ。

 お袋にまで八つ当たりし、気まずい空気のまま実家を後にした。


 その後、暫くして親父は体調を崩し入院した。


 気まずさもあってあまり会いにいかぬまま、しばらくの入院生活の後に親父は他界した。

 親父が亡くなった日、締め切りが押していた仕事があり最後の瞬間には立ち会えなかった。

 あまりのあっけなさに呆然とはした。

 でもそれ以上はあまり考えなかった。


 でも後悔は無い。俺には俺のやるべき事がある。

 親父とは違う生き方を見つけたんだ。

 俺ももうすぐ親になる。

 でも親父とは違うんだ。

 何も判らない、何も見えないままの盲目的な生き方はしない。


 プルルルルルルルル


 急になりだした電話の音で我に返った。


 気がつくと片付けの手が止まっていた。

 変な気恥ずかしさのまま片付けを中断し、電話にでた。

「もしもし……。はい、和田ですが……え?」



 俺は取る物も取り敢えず病院に駆けつけた。

 さっき来た道を戻ったはずなのだが、何処をどう走ったのか憶えていない。

 気がつけば病院に飛び込んでいた。

 電話は妻のお産が急に始まったと言う連絡だった。

「だって……、出産はまだ一ヶ月も先の話じゃないんですか!?」

 妻はすでに分娩室に運ばれた後で顔を見る事はできなかった。

 お袋は病院に向かっている所だった。

「ええ、本来はそうなのですが、奥様の体調の悪さもあって若干早まってしまった様です」

 俺を迎えた医者は冷静に告げる。

「若干って……一ヶ月も!」

 興奮して掴みかかろうとする俺に医者は冷静に言い放った。

「1ヶ月はそう珍しい事ではありません。ただ……大変申し上げにくい事なのですが、最悪の場合、子供か奥様かを選ぶ覚悟をしておいてください」

 只でさえおぼつか無い頭の中が真っ白になった。

「な……、何を言ってるんですか……?」

「奥様の身体は現在危険な状況にあります。最善はつくします」

 力が抜けた。

 その場にへたり込んでしまう。

「どうか気をしっかり。貴方が選ぶのです」

 医者がそんな様な事を言っていた気がするが良く憶えていない。

 気がつけば俺は一人で座り込んだままだった。

 何が起こってるんだ。

 母子のどちらかを選べ?

 そんなのドラマの話じゃないのか?

 何で俺なんだ。

 何で俺の家庭がそうなんだ?

 俺が何かやったのか?

 親父には確かに悪い事をしたのかもしれない。

 散々悪態もついた。

 でも何処の家庭も同じ様なものだろう?

 なのに何で俺だけが?

 頭の中がグルグルと回る。

 同じ事柄が何度も行き来する。

 自分でも何を考えているのか判らなくなる。

 どうしたらいいんだ。

「……神様」

 神様助けてください。

 何でもします、だから二人を助けてください。

「ははっ……神様って……なんなんだよ俺……」

 思わず自嘲する。

 自嘲してみた所で何も変わらない。

 何時からそこにいたのか、気がつくと誰もいないロビーのベンチに座っていた。

 こんな時間だからもちろん電気もついていない。

 どうやってここに来たんだろう、思考も行動も繋がっていない。

 虚無感だけがヒシヒシと全身を蝕んでいく様だった。


「お困りの様子ですね」


 気がつくと俺の少し後にスーパーで会った背の高いメイドが立っていた。

「君は……」

「このタイミングで会ったんだから神様のお使いかも知れないですよ?」

 そう言ってあの何とも言えない笑顔を浮かべて近寄って来た。

「チケットは持ってますか?」

「……は?」

 何を言ってるのか理解できなかった。

 チケット。

 願い事が叶うというチケット。

 ぼんやりしていた思考が繋がってくる。

「……ふざけるな!! こんな時になんの冗談だ!!」

 不思議だ、ぼんやりしていた思考が怒りによって焦点を定める。

 そんな俺に、メイドはあの笑顔のまま話を続ける。

「こんな時だからですよ。貴方も今、信じてもいない神様に祈ったばかりじゃないですか」

「……!! ふざけるな!!」

 言葉が浮かばない。

 ちゃんと言い返せない。

 そもそも話をしたい訳でも無いし余裕も無い。

 頭に血が上っているのは自覚し、この場を去ろうとした。

「チケットを使えば二人とも助かりますよ」

「!?」

「もちろんチケットを使った人は死んじゃいますけどね」

 俺の足は止まっていた。

 彼女を見ていた。

「おまえなぁ……!!」

「チケットを使えば二人とも助かります」

 あの目が俺を見ていた。

 怒り、焦り、悲しみ、絶望、色々な思考が頭をかけまわる。

 何がどの言葉なのか認識できない。

 感情が抑えられない。

 だけど彼女の言葉で俺の思考が集まっていく。


 『二人とも助かる』


 その言葉に思考が吸い寄せられる。

 藁にでもすがるというのはこういう事なのだろう。

 馬鹿げた話なのに受け入れている自分がいる。

 今は少しでも救いが欲しかった。

 そんな内容でも話をしていれば救われるんじゃないかと思う自分がいた。

 こんなにも短絡的だとは知らなかった。

 でも彼女には普通には無い何かを感じていたのも事実だった。

 いや、俺が勝手にそう思っているだけかもしれない。

「……それを使えば助かるのか」

「助かりますよ」

 さらにニッコリと笑うのに、眼差しは変わらないままメイドは続ける。

「でもいいんですか? それだと生まれてくる子供と奥さんを置いて行く事になりますよ? 無責任じゃないですか?」

 チケットを使えと言っておきながらメイドは俺に問答を説く。

 不意に自分が以前言った言葉が頭をよぎる。


『言われなくても判ってるよ。子供が大事なんてあたりまえだろ?』


『自分を投げ出してもなんて無責任だよ。ドラマじゃないんだからさ、残された子供はどうなるんだよ?』


 まさに今、この場でその大事と言うのを問われている。

 あんな事を言って何も判っていなかったのは俺の方じゃないのか。

 何が無責任だ。

 こんな時に自分を投げ出してもいいと思うのは当たり前じゃないか。

 それを実感してなかったのは俺の方じゃないか。

「大人の責任でしたっけ? 今選べば母子のどちらかは助かるんだし、貴方の言う生きて守る責任も確かにあると思います」

 どちらかを選ぶ。

 選ばなければいけない。

「アイツを……失うなんて考えられない……」

「そうですよね。前の職場を辞め、先がどうなるか判らない選択をした貴方を支えてくれたんですものね。貴方が仕事を変えて安定するまで大分無理をして。弱かった体を壊して……。ほっとけないですよね」

 何故知っているんだ、俺達の事を。

 いや、今はそんな事はどうでもいい。

 その通りなのは確かな事なんだから。

「それなら、奥さんを選びますか?」

 幸子はモチロン死なせない。

 死んでいい訳が無い。

 俺なんかを支えてくれた、あんないい子を死なせていい訳がない。

 じゃあ、それなら子供はどうしたらいい?

「子供が生まれてくるんだ……。アイツの体は強くない、これが最後のチャンスかもしれないんだ。俺達の子供なんだ。今まで無理させたアイツが、文句も言わず俺を支えてくれたアイツが、心から望んだ子供なんだ。子供が出来たって聞いて本当に嬉しがっていたんだ、それを諦めさせるなんて……」

 子供を持たない人生。

 それでもアイツは笑ってくれるんだろう。

 それどころか俺を慰めてくれるんだろう。

 自分が辛い事を押し潰して笑顔を見せるんだろう。

 そんな事、いい訳がない。

「生まれて……くるんだ」

「子供なんてまた作ればいいですか? 体が悪いと言っても何とかなるかも知れませんよ?」

「バカを言うな!!!」

 声を荒げてしまった。

 怒るのは当然の言葉なのだが、それ以上に自分の何処かにその考えがよぎったからなのだろう。

 それをなんとか振り解きたくて叫んでしまった。

 情けなくて、でもどうしたらいいかわからず声を荒げてしまった。

「いいワケが無い、いいワケ無いんだ……!」

「そうですよね、いい訳が無いですよね。でも選ばなきゃいけないんです。貴方は選べる人間じゃなかったんですか?」

「選べる……。仕事じゃないんだ。こんな事を簡単に選べるワケがないだろう……」

「同じですよ。何だから選べる。何だから選べない。本当に選べる人間というのは何時でもちゃんと選べるんですよ」

 メイドの声が俺の心に染み込んでくる。

 いや、叩き込まれてくる。

 鼓膜だけじゃなく、魂にまで叩きつけられる。

「選ぶっていうのは判断する事じゃないのかもしれません。自分のするべき事を、覚悟を決める事なんですよ、きっと」

 こんな状況なのに、メイドの言葉は例え耳を塞いでいても聞こえてくるんじゃないだろうかと余計な事を考えてしまう。

 それ程に俺の魂を奮わせ、響き渡っていた。

「貴方もちゃんと選ばなくちゃ。貴方のお父さんが貴方に苦労させないと決めて、夢を捨てて安定した仕事を選んだ様に」


 世界が真っ白になった。


 聞いた事のある単語で構成されている筈のその言葉は、それなのにまるで自分の知らない世界の言葉の様に聞こえた。

「……親父が夢を捨てた?」

「本当に何も見えていないんだから……」

 メイドは悲しそうな顔を見せた。

 初めて見せる表情だった。

 だけど何故だ?

 何故悲しそうなんだ?

「貴方の実家の居間に飾ってあった絵。あの中にお父さんが描かれていないのは何故ですか?」

「……居間の絵?」

 一瞬、何を言われているのか判らなかった。

 少し考え、お袋と子供の頃の俺が描かれたあの絵の事を言っているのだと気が付いた。

「お父さんも嬉しかったんじゃないでしょうか。貴方がそれまでやってきた仕事を変えるんだから心配はしたと思います。でも自分が一度は捨てた夢、絵の仕事。それに関わるデザイナーを選んだ貴方に、喜んだと思いますよ」


『デザイナー?』


 不意にあの日の事が蘇る。

 親父に仕事を替えると告げたあの日。

 何故こんなにも鮮明に頭に浮かぶのか判らない。

 とにかく、あの日の事が頭に浮かんでいた。

「親父に言っても判らないだろうけど。……まあ、雑誌の表紙とかポスターとか作ったりする仕事だよ」

 別に許可が欲しかった訳じゃないけど報告はした。

 今思うと何故報告したんだろう。

 思えば、イライラすると言いながらも何時だって何かあれば報告はしていた。

「絵とかも扱うのか?」

「絵? ああ、俺が描いたりはしないけど場合によっては使うよ」

「そうか……。いいんじゃないか? 頑張れよ」

 特に褒める事も文句も言わない親父。

 俺が何をするのか意味が判って無いんだろうと呆れた。


「大事な物の為に、自分がしたかった事を辞めるのも立派な選択ですよ」

 メイドの声が、俺を真っ白い世界から暗いロビーの現実に呼び戻した。

「親父が……絵の仕事をしたがってたなんて……」

 知らなかった。

 親父が何をしていたのか知ろうともしていなかった。

 知らないで好き勝手を言っていた。

 そのうち俺が聞きにくると思ってたのか?

 それに、絵の事がわかるなら何か言ってくれても良かったじゃないか。

 いや、親父の性格を考えたら、やめると決めた事を話したりはしないのか。

 今更聞こうにも、もう親父はいない。

「さあ、時間は無いですよ。貴方も大人なら決めてください」

 沈黙が流れた。

 確かに時間が無い。

 ここで選ばなければ本当に全部失ってしまう。

「俺の一番大事な存在が二つ……。一番なのに二つなんだ。どっちも失えない……」

 自分の考えをなんとかまとめる様に、自分に言い聞かせる様に呟く。

「自分を投げ出しても構わないくらい大事な物がある。宝物なんだ」

 親父が言った言葉が浮かんだ。

 俺が小バカにしてしまった言葉。

 それが今は重く俺にのしかかってくる。

「俺の命なんて……いい。二人を助けて欲しい」

 重くのしかかった言葉から逃げない。

 その重みを受け止める。

 その重みで足を地に付ける。

「俺の家族を助けて欲しい。俺の命で助けられるなら、お願いします」

 メイドはユックリ頷いた。

「……チケットに名前を書き込んでください。それで契約成立です」


 チケットの記入欄に名前を書く事で契約は成立するらしい。

 あまりにあっけなく、あまりに突拍子もなく、なのに何故か冷静さを取り戻していた。

 契約をし、分娩室へ戻る為に廊下を歩いていた。

 今度はそれまでの事をしっかりと憶えている。

 冷静ではあったが気持は落ち着かない、不安は抱えたままだ。

 足が、体が震える。

 それでも歩く。

 さっきまでのボヤけた世界がまるで嘘の様にクッキリと認識できる。

 不思議な感覚だった。

 分娩室までやってくるとお袋が到着していた。

 不安そうな目で俺を見る。

 俺は目を合わせうなずく。

 力強くうなずく。

 大丈夫だ、自分にもそう言い聞かせる。


 静寂。


 こんな時に何を話したらいいのか判らない。

 言葉が出せない。

 お袋は祈る様に手を組んでいた。

 重くて長い質量をもった時間、その中でただ待つ事しかできなかった。


 そのままどれ位の時間が立ったのだろう。

 静寂を打ち破る音がした。

 魂を揺さぶる音が響き渡った。


 産声。


 新しい生命の声。

 こんなにも魂を打ち鳴らす音がある事を初めて知った。

 赤ん坊の泣き声は今まで聞いた事が無い物ではない。

 でも俺が初めて聞いた、俺の子供の声。


 固く閉じていた扉が開き、光が差し込んで来る。

 目が眩むような光。

 その光の中から医者が現れた。

「奥様は大変危険な状態でした」

 光の中、さらに白く佇む医者が淡々と語り始めた。

「体力の低下、意識の混濁。本来なら先刻告げた通り母子のどちらかを選んで頂く所でした」

 俺もお袋も固唾を飲み、聞き入る。

「ですが……、奥様が急に回復し始め、まさに奇跡としか言い様が無い」

「それじゃあ……」

「おめでとうございます。母子ともに健康です。お子さんは早産もあって1300グラムと軽いですが、今は集中治療室に入っていますし問題もありません。すぐ元気になりますよ」

「あ……、ありがとうございます!!!」

 暗く固くなってしまった空間がひび割れていくのを感じる。

 重い質量が消えていく。

 安堵と歓喜。

「本当に奇跡としか言い様が無い」

 医者はもう一度そう言った。

 それが医者としての意見なのか個人としての意見なのか判らない。

 ただ奇跡が起きたと言う事実があった。

「もうしばらくしたら準備が整います。長時間はまだ無理ですがお二人に会ってあげてください」


 二人に会える準備が整うまでの時間に俺はまたロビーへと戻ってきた。

 夜も明け始めたのだろう、心なしか明るくなっていた。

 そのロビーに一人、メイドがベンチに座っていた。

「オメデトウございます。大人になれましたか?」

「ありがとうございます。おかげさまで無事に大人になりました」

 不思議だ。

 さっきまではちょっとした事でイライラしたのに、今は気持ちが落ち着いてる。

 茶化されているのに砕けた笑いをしていたかもしれない。

「早産だから未熟児だけど母子ともに問題はないそうだ」

 聞かれてもいないのに俺はペラペラと語りだす。

「あら、良かったじゃないですか」

「医者が奇跡としか言いようが無いって言ってたよ」

「そうですね、似た様なモノかも」

 メイドは可笑しそうに返答する。

「……ありがとう。本当にありがとう」

「いえいえ、私が何かした訳じゃないですし」

 メイドが微笑んだ。

 今までみた笑顔とは何かが違う気がするのはどうしてだろう?

 本当の優しさが伝わってくる。

 そんな柔らかい微笑みだった。


 そして静寂。


「俺……死ぬんだよな」

 奇跡は起きた。

 それが偶然起こった事であったとしても俺には奇跡と同じだ。

 もう疑う心は無い。

 選んだからこそ、進んだからこそ取らなければ成らない責任が重い。

 でも逃げる事は出来無い。

 それを承知で選んだ事だから逃げない。

 俺の妻と子供が助かった、その事柄を失う訳にはいかない。

「願いが叶ったんだから死ぬんだよな」

「そうですね。そういう契約ですから」

 あっさりと言う。

 そうだよな、散々偉そうな事を言った俺だ。

 今更優しくなんてムシが良すぎる。

 覚悟も出来ている。

 いや、ウソだ、そんな簡単にできる訳が無い。

 往生際悪く言葉が口からあふれてしまう。

「今、子供の顔を見るのが怖い。自分を投げ出しても助けたいって言ったけど、怖いんだ。失いたくない」

 恐怖に潰されない様に話を続ける。

 せっかくの清々しい気持ちを恐怖で汚したく無かった。

 みっともない命乞いなどで台無しにしたくなかった。

 自分がした事が間違いだったと後悔したく無かった。

 なのに言葉が止まらない。

「子供を見てしまったら我慢できなくなりそうでさ」

 一人話し続ける俺をメイドは見ていなかった。

 それに気づいているのは、俺がすがる様に彼女を見ていたからなのかもしれない。

「いっそ子供の顔を見る前にいってしまいたい気持ちもある」

「責任を放り出しちゃうんですか?」

「……だよな。すまん、判ってはいるんだけど直ぐには思った様になれないな」

 判っている。

 結果は変わらない。

 自分の選んだ事を受け入れなくてはいけない。

「出来る事をすればいいんですよ。私も出来る事しかできません。偉そうにこんな事を言ってるけど出来ない事だらけです」

 メイドの声は柔らかった。

 魂まで届くのは一緒だったが、それは優しく奮わせる音になっていた。

「俺は……何時、死ぬのかな?」

「さあ? いつかは死んじゃうんじゃないでしょうか?」

「……だいたいどのくらいとかも判らないのか? 願いが適ってから24時間なのか、願ってから24時間なのかとか……」

「貴方の寿命は私の管轄外だから判りません」

 狐にでもつまされるというのはこういう時に言うのかもしれない。

 予想外の言葉に状況が把握できない。

「え? ……だってあのチケット使って、長いが叶った次の日には死ぬんじゃないのか?」

「ええ、使った次の日に請求、回収されます」

「だったら……」

 不意にメイドから差し出された紙切れ。

 それはチケットと同じデザインが施された半券だった。

 それを目の前に突き出さる。

 半券にはミシン目のついた切れ端がついている。

 良く見ると本体と違って印刷された名前記入欄がった。

「これは……。あのチケットの?」

 そこに記入された文字。

 震え心許ない文字。

 見覚えのある名前。


 ”和田 司”


 親父の名前。


「このチケットで願いは叶っていました。願った人の命と交換で契約は成立していたんです」

 俺の手にしたチケット。

 それはは親父の願いを叶えたチケットの半分だった。

「親父は……病気で死んだんじゃないのか?」

「病気も酷かったから……。最後見てないんだもんね。本当はガンに蝕まれてモルヒネも効かない位に痛かったハズ。それなのに嬉しそうだった。守りたいモノを守っていけるって」

 メイドは不思議な表情で話していた。

「素晴らしい人生だったって。だからアっという間だったって」

 笑ってるのでも怒っているのでも泣いているのでも無い表情でメイドは続ける。

「そのチケットは貴方のじゃなくお父様の物なんです。お父様のお願いは……」


『息子が本当に困った時に助けて欲しい』


 不意に親父の声が聞こえた。

 また頭の中が真っ白になり、映像が流れ込んでくる。

 病室のベッドで体を起す親父。

 その横にはメイドがいた。

「今は痛くて喋るのも辛いでしょ……? その痛みを取るとか……せめて奥さんの為とか……」

 メイドは俺と話している時と違って泣きそうな顔をしている。

 妙に子供っぽい話し方だった。

「そうだな……。本当は母さんにも何かしてやりたいんだが。母さんには苦労かけっぱなしだったからなぁ。でも、アイツの為にだっていうなら判ってくれるだろう。うん」

 親父は笑っていた。

 ずっと忘れていたあの笑顔。

 やつれ細くなった頬を歪め笑っていた。

「他にも貴方の為になる願いはあるはず……もっと自分の願いを……。お願い……」

 俺が知ってる飄々とした彼女の態度とは違い、切羽詰った顔で話かけている。

 彼女の本当の表情。

 これも俺が見えていなかった物の一つなんだろうか。

「俺の為と言うなら、やっぱ浩司を頼むよ」

「でも……。余計な事だと思うけど、あの子に貴方の気持ちが伝わるとは思えない」

「いいんだよお嬢さん。いいんだ。伝わるとか伝わらないとか。そんな事は大事じゃない。理由は簡単なんだよ」

 親父は笑っていた。

「俺の一番大切なモノなんだ」

 何時もの笑顔。

「俺の宝物なんだ」

 何時だってこの笑顔だった。

「欲を言うとさ、そりゃあ色々あるよ。もっと一緒に遊んでやりゃ良かったなとか。無事結婚してくれたんだし、孫とかもみてみたいな。その孫が絵なんか描いてくれたら最高じゃないか? 言ってると、もうちょっとこうだったらってキリが無いな」

 やせ細った顔、落ち窪んだ目なのに光は消えていない。

「あ~……いかん。怖い。怖いよな。死んじまうのかって思うと本当に怖い。それに痛いんだ。死ぬほどいていっていうのはこういうのを言うんだろうな、うん。」

 怖いと言いながら、震えながら、それでも目の光が消えていない。

「でもいいんだ。だってもう先がないってのにさ、気がついたら俺の望む事って希望だらけだよ。悪い事が無くなって欲しいとかじゃなくてさ。良い事がもっと増えたらいいって。アイツが生まれたってのはそういう事なんだよ。うん」

 親父が笑う。

「たぶんな」

 不器用に笑う。

「すごいだろうお嬢さん? 俺にはね、目に見える幸せがあるんだよ」

 映像がかすれていく。声が遠のいていく。


「チケットの切れ端が残ってたのは大目に見てあげてください。手の震えが止まらなくて上手く切り離せないって、苦笑いしていました」


 気がつけばメイドの姿は無く、俺はロビーに一人立っていた。


 分別室まで戻ってみるとすでに用意は整ったらしく、幸子と子供が待つ集中治療室へ案内された。

 手をアルコールで消毒し、マスクをつけて二人が待つ治療室へ入る。

 入ってすぐのベッドに幸子が横たわっていた。

 もう問題は無いと言え、長時間の戦いから開放されたばかりでグッタリとしている。

 だがその表情も顔色も清々しかった。

「良く頑張ったね」

 ベッドに横たわった幸子を抱き締める。

 また抱き締める事ができた。

 暖かさを感じる事が出来た。

 当たり前にあると思っていた物、その暖かさの意味も判らないまま失わずに済んだ。

「早くあの子に逢ってあげて。パパを待ってるから」

 もう一度強く、でも力を込めるのではなく、抱き締めた。

 それからゆっくりと幸子をベッドに寝かせ直す。

 幸子のベッドがある部屋の一つ奥、物々しい機械が並ぶその部屋へと向かう。


 親父に対していつも疑問に思っていた。

 何が楽しくて同じ日々を繰り返すのか?


 決まってるじゃないか。

 大切な物の為だ。

 家族の為だ。

 自分の大切なモノを差し出してでも守りたかった家族の為だ。


「言われなくても判ってるよ。子供が大事なんてあたりまえだろ?」


「そうだな」って、あの時も笑ってた。

 あんな事を言った俺を笑って許していた。

 何時だってあの笑顔だった。


 治療室のさらに奥の部屋、物々しい機械が接続された透明なケース。

 その中に小さな赤ん坊がいた。


 何があたりまえだ。

 俺は、今、初めて知ったばかりじゃないか。


 手を伸ばし、ケースを抱え込む様にその赤ん坊を見た。

 呼吸器をつけて苦しそうだったが、赤ん坊は元気に動いていた。

 この細いチューブが命を繋いでいる思うと不思議な気持ちになる。

 無機質な物にさえ暖かさを感じる。

 生きている。

 苦しくても元気に動いている。

 一生懸命動いている。


 知らなかった。

 こんなにも大切な存在があるなんて。


 俺の世界に言葉でしか存在しなかったモノが暖かさと質量をもってここに在った。 未熟児だからというのもあるだろうけど、あまりにも小さくて不安になる。

 その小さくても動き続ける姿を見ていると視界が滲み始めた。

 ダメだ、もっとちゃんと見るんだ。

 俺と幸子の命を紡いだ存在を見るんだ。


 やっと判った。

 親父がどんな気持ちで俺を見てくれていたのか。

 親が子供をどんな気持ちで見るのか、今、知った。


 子供と目があう。

 笑った様な気がするのは俺がもう親バカというものになってしまったのだろうか?


 この子を見て判った。

 親父がどれだけ俺を大事に思ってくれてたのか。

 俺をどんな気持ちで見ていてくれたのか。


 本当だ。


「子供はすばらしい! 本当にこんな大事な物があるのかって判る時が来る」


 本当だ。


「自分を投げ出しても構わないくらい大事な物がある。宝物なんだ」


 本当だ。


 親父が言っていた事は全部本当だった。


 ケースが壊れてしまうんじゃないかと思うくらいきつく抱き締めてしまう。

 力の加減ができない。

 視界は滲み過ぎてもう良く見えない。

 嗚咽が漏れ、咽ぶ。

 判っていたつもりだった。

 でもそれは言葉を知っていただけで中身が無かった。

 今になってそれが判るなんて。

 親父にそれを伝えられないなんて。

 何度も教えてくれていた親父にそれを伝えられないなんて。

 どうして親父の最後に会いにいかなかったのだろう。

 だって親父が死ぬなんて思っていなかったんだよ。

 だって死ぬ訳が無いって。

 だって最近は俺の事を怒りもしないじゃないか。

 前ならそんな不義理働けば怒ってくれたじゃないか。

 なのになんでだよ。


 赤ん坊が笑っていた。


 全て些細な事だった。

 子供が笑ってくれたらそれで全部良くなるんだ。

 俺は嬉しくなってしまうんだ。

 だけど、そんなの俺は知らなかったんだよ。


 赤ん坊が笑っていた。


 世界はさら滲んでいった。



 夢を見た。

 幸子のベッドへ戻った所までは憶えているのだが何時の間にか眠ってしまったらしい。

 気がつくと白い世界の中、今にも泣きそうな顔をした小さい俺がいた。


(ごめん)


 昔、友達の自転車を隠してしまって怒られたあの日。

 親父に叱られ、ションボリしている俺。

 でもしかめっ面で何も言わない。


(ごめん)


 親父にどやされ、間違ってるのは自分だと判っていても、それでも悔しくて涙を堪えている。

 どやされた位で泣いてたまるか。

 怖いけど泣いてたまるか。

 そう堪えていた。

 自分が犯した過ちよりも、親父に怒られるのが怖くてそれに耐えようとしていた。


 散々絞られ、親父と一緒に友人の家まで謝りに行った帰り道。

 日は落ちて辺りはすっかり暗くなっていた。

 不意に親父が振り返る。

 夕日の照り返しで顔が見えない。

 親父の手が動いた。

 散々殴られ、今もまた殴られるのを覚悟した。

 でも親父の手はユックリ近づいてきて俺の頭の上に置かれた。


「間違いは誰にでもある。そこから逃げるな」


 ……ごめん。


「次はもうするなよ。いいな?」


 視界がユックリと歪んで滲んでいく。

 怖かったのは怒られる事よりも見放される事に変わっていた。


「バカ。男は泣くなよ。俺が怒るのはなんでか判るか? いつだってオマエの味方だからだ」


 ごめん。


 親父は何時だって俺の事を判っていたんだ。

 誰よりも判っていたんだ。

 思えば俺はいつだって親父に何か言って欲しかった。

 怒るのは味方だからだっていったじゃないか。

 でもそんなのは子供の発想だ。

 言わなかったのは俺を認めてくれていたからなのかも知れない。

 それでも何か言って欲しくてムキになって。

 本来の目的を忘れて自分を確立する事だけに必死になってしまった。

 反発する事で一人前になれた気がしていた。

 それでも親父は笑って見ていてくれた。


 ありがとう。


 どうして無くしてから気が付くんだろう。

 俺は誰かに伝えられるのか?

 俺には何が出来るんだろう。

 まだ間に合うんだろうか。

 段々と景色が遠のいていく。


「帰ってメシだ。母さんが待ってる」


 遠くで親父の声が聞こえた気がした。

 待っている人がいる。

 親父、これからは俺も待つんだ。

 子供が、家族が安心して帰ってこれる場所を作るんだ。

 その家に帰るんだ。



 あれから数ヵ月。

 妻も子供も大分安定し、今はかなり元気になった。

 俺は相変わらず仕事に追われてはいるが、前みたいに口だけでは無く家族の時間も大事にしているつもりだ。

 まだまだ至らない事は多いと思うし見過ごしてる事も多いかもしれない。

 それでも少しづつ、今度は見逃さない様に進んでいくつもりだった。


 今日はお袋と幸子と子供を連れて親父の墓参りに来ていた。

 俺一人では墓の場所も良く知らなかったのが情けない。

 和田家と刻まれた墓は綺麗に掃除されていた。

「さて、幸子の御両親にも挨拶にいかないとな」

 今まで自分が行ってきた事の気恥ずかしさも手伝い、親父の前では落ち着かない。 変わろうとは思っても中々簡単にはいかない。

 そんな俺を見て笑う幸子。

 本当に俺は色んな事が見えていなかった。

 そんな落ち着かない俺にお袋がたずねてきた。

「ここに一冊おいていくかい?」

 それはお袋に預けておいた本の事だった。

「雨が降ったら濡れちゃうんだし、家に持って帰ろう」

「でもお父さんにも見せてあげなきゃ」

「大丈夫だよ。何だかんだ言っていつも見てくれてるよ。暇があればこれも家に見に来てくれてるさ」

 お袋に預けた本。

 俺が製本したアルバム。

 家族に配るために製本した、ごく個人的な自費出版物。

「これはアンタが作ったんでしょ?」

「そう、俺が表紙とかデザインをレイアウトしたんだよ」

「レイアウト?」

「あー……。判りやすく言うと……」

 アルバムの表紙は親父が描いた絵。

 俺とお袋が笑っている絵。

 幸子もこの絵がいいと言ってくれた。


「俺と親父でつくったアルバムだよ」


 表紙は親父に作ってもらった。

 中身はこれから俺達で作っていくよ。

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