第二章

2章 第1話

 ふと思い返せば……いったい何が俺をそうさせたのだろうか?

 記憶が確かであるならば、涙だ。

 俺がその暴挙に踏み入ったのは、一人の女の涙がきっかけであった。


「何度も言うけど、困るんだよこんなミスされちゃぁ!」

 本日の業務も終わりかけの時刻。

 かれこれ一時間近くも続いている感情的な声に、俺はかすかな苛立ちとともに目を向けた。


「す、すいません!」 

「謝ってそれで済むと思ってんの? こっちは仕事でやってんだよ!!

 どう責任とるの! 具体的な謝罪の話を聞くまでは終わらないからな!!」

 声を荒げているのは、この会社の営業の一人である。

 そして頭を下げている女子社員は、俺の部下である百池だった。

 傷つき疲れ果てた彼女の目には、うっすらと涙がにじんでいる。


 そもそも、事の経緯を聞く限り百池だけの責任とは到底思えないような話だ。

 現場に居合わせた連中の話によれば、昨日の就業終了後にいきなり営業課が仕事を百池に持ってきたらしい。

 それも、今日の朝までという期限つきの翻訳の仕事をだ。


 むろん、課長はおろか直属の上司である俺にすら話を通していないという不正規なしろものである。

 知っていたら、確実に拒絶しているはずだからな。


 つまり、彼女だけが責められるのはどう考えても筋が通らない。

 俺は静かに体を起こすと、上司である山口課長の顔を見た。


 すると、奴は首を掻ききるようなジェスチャーの後に親指を下に下げる。

 OK。 ちょっとまってろ。 俺の可愛い部下を苛める奴は、例外なく死刑だ。


「おい、そこの営業」

「げ……小西さん」

 見かねて俺が口を出すと、営業のバカはあからさまに嫌な顔をした。

 営業のくせに自分の感情を簡単に顔に出すなよ、この三流が。


「さっきから聞いていれば……だいたい、その仕事自体なんでこっちに振ってくるんだ?

 俺たち総務課はたしかにこの会社の全ての部署のバックアップが仕事だが、フランス語なら営業にも得意な奴が一人いただろ?

 お前と業績競っている奴だから、知らないとは言わないよな?」

 おおかた、向こうの手柄になるのを恐れてわざと避けたに違いない。

 そもそも、フランスから仕事を取ってくるなら、あらかじめ現地の言葉ぐらい自分で勉強しておけ!


「いや、彼女がフランス語堪能だと聞いたんで……せっかくだからと……」

 たしかに百池は大学時代にフランス語を学んでいたらしいが、得意と言うわけでもなかったはずだ。

 俺の知る限り、彼女の専門はイタリア語である。


 確認のために百池の顔を見ると、彼女は小さく首を横に振った。

 どうやら、この営業が勘違いしたまま強引に押し付けてきたようだな。


「たしかにウチの百池は優秀だ。 ……お前が無茶なスケジュールで仕事をゴリ押ししてこなけりゃな!

 聞こえてきた限りじゃ、頼んだのは昨日の定時を過ぎてからだって話じゃねぇか。 それを今日の朝一までに……なんて無理をおしつけておいて、ミスがいくつかあったからって文句を言ってくるのはちょいと虫が良すぎやしないか?

 そもそも、残業は出来る限りしないようにというのが俺たち総務課からの指示だったはずだ。

 その総務課の人間に残業をさせるだなんて……ずいぶんと思い切ったことをしてくれるじゃねぇか」

「ですが、それとこれとは……ひ、引き受けた限りは責任が……」

 責任? 仕事をゴリ押ししただけじゃなくて、責任まで丸投げしようっていうのか、このバカは!


「お前らに非は無いと? ウチの部署の人間に、俺や山口課長を通さず仕事を押し付けて?

 面白いこといってくれるじゃねぇか。 こりゃあ、上の人間と話しをしなきゃなぁ」

 俺が歯をむき出しにして笑うと、営業のバカはなにやらゴニョゴニョと口の中で呟きながら逃げていった。

 ……ふん。 俺の可愛い部下をイジメてくれたんだ。 この程度で済むとは思うなよ。

 そのうちキッチリけじめはつけてやるから覚悟しておけ。


「あの……小西係長、ありがとうございます」

「百池、お前もお前だ。 今後こういうことがあったら俺か山口課長を通してからにしろ。

 どちらもいなかったら、引き受けなくていい」

「あ、は、はい」

 さて、後で営業の上の奴らと話しをつけるのはいいとしてだ。

 百池のメンタル面のフォローもしなくてはなるまい。

 いや、フォローというならばこの部署全体に対して何か対策を考える必要があるだろう。


 ……特に課長だ。

 ご存知だろうか、21世紀の日本における中間管理職の恐るべき実態を。

 会社のトップから残業短縮の方針を出され、同時に以前と同じだけの成果を求められる理不尽さを。

 考えてみて欲しい……その矛盾が、どこで埋め合わせされているかについて。

 そう、残業削減によって部下に任せることが出来ない案件は、全て課長クラスの中間管理職が片付けなければならないのだ。


 この恐ろしい実態を、いかにして解決するするか?

 答えはおそらく二つ。 部下に仕事を割り振ることの出来る環境を作り出すか、部署自体の仕事を削減するかだ。

 だが、後者は自分の所属する組織の社会的な力の衰退を意味するため選ぶことはできない。

 しかし前者は成し遂げるのに時間がかかりすぎる。

 つまり、どちらも不可能なのだ。

 それこそ……反則的な方法でも取らなければ。

 そんな事を考えていたとき、部下のひとりがボソリと呟いた。


「ほんと営業の奴ら、俺達総務をなんだと思っているんだか」

「あー こんな世の中嫌でござるー いっそ、異世界に行きたい!」

「ほんと柳本に言うとおりだよなぁ。 いっそバカンス程度でもいいから、今までの常識が吹っ飛ぶような体験してみたい」

「とか言っておぬし、自分探しの旅とか卒業旅行にやった口だろ」

「あ、わかる?」

 そうか――お前等、異世界に行きたいか。

 お前たちが望むなら、実は俺もやぶさかじゃないんだ。


 その時、俺は一つの覚悟を決めた。

 以前から決めていた計画を、今日こそ実行にうつそう……と。


「おい、百池。 憂さ晴らしをするぞ。 今晩、付き合え」

「つ、付き合うって!?」

 俺の言葉に職場が一瞬沈黙し、すぐさまかつて無いほどざわめいた。

 こ、こら、百池も顔を赤くするんじゃないっ!


「あぁ、勘違いするな。 いつもの趣味でカレーを大量に作るから、カレーの消費を手伝えという意味だ。 他の連中もくるよな? 来るヤツは手を上げろ」

 そう告げると、周囲の野次馬共が一斉に手を上げようとし、同時にピタッとその動きを止めた。

 そしてなぜかニヤニヤしている。

 さ、さてはお前ら……俺と百池がいい感じになってしまえばいいと思ってるだろ!?


「しょうがないなぁ。 二人っきりにするわけにもゆかないし、僕が参加するよ。

 どうせ、コニタンの手料理で参加費無料だろ?」

 視線だけで助けを求めると、俺の直属の上司にして友人であるグッサン……こと、山口課長が仕方なしに名乗りを上げた。


 その瞬間、野次馬共が恨みがましい視線を奴に向ける。

 だが、俺が目を半眼にして睥睨すると、全員が一斉に震えながら視線をそらした。

 上等だお前ら。 覚悟は出来ているだろうな。


「よくわかった。 てめぇら全員ウチに来い。 ……問答無用だ。

 今までの常識がふっとぶどころか、人生が変わるような美味いカレーを食わせてやる!」


 そして俺は、かねてから計画していた『異世界を楽しむための仲間』と『使える部下』を同時に手に入れる計画をスタートさせたのであった。

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