三人の学者と三鹿島さん

    1


 まだ生地の固いぶかぶかの制服が、なんとなしに中学生の頃とは違って自分は高校生になったのだという実感を湧かせると感じるのは、僕だけではないだろう。うちのクラスの友達も、高校生になったから背伸びをしたいのか、長めのセーターで手の甲まで隠してみたりとか、カッターシャツの下に大きなプリントがしてあるティーシャツを着てみたりと、ちょっとばかしイキっている。


 ついでに言っておくと、僕は至って普通に過ごしている。シャツは第二ボタンまで外して、ネクタイは程よく緩めてある。ジャケットの裏に『愛』とか『虎』だとかいう刺繍の類もない(それはかなり古いか)。


 それに比べて、今まさに目の前にいるこの男の人は何だろう。実にいけすかない。


「ミカちゃん。しけた面しよってからに、ちっとは部屋片付けたらどないや?せっかく可愛いお手伝いの坊やもおるんやし」


ニコニコと笑みを浮かべながら、若い男の人が言った。


「啓介よ、お前はその独創的なファッションをもう少し考えてみたらどうや?」


将輝さんもニコニコとして言う。


 雑然とした居間でソファーに座って向かい合う二人の間には、冷たい火花が散っていた。


 モジャモジャの頭に、ずっと口元に含んだ笑み。耳にはピアスが通されている。『愛』と金色でプリントされた黒いティーシャツ。淡いもも色の短パン。身長は僕よりも低い。それにも況して、僕のことを坊や扱いするから、余計にいけすかないのだ。


 博物館に碑板を預けてから一夜明けて、今日は日曜日。昨晩は大学に呼び出されて、山積みの資料やら課題やらを持って帰ってきた将輝さんは、何となく朝まで忙しそう(?)だったので今日は昼過ぎまで寝ていた。なので僕も、特にすることのない日中は将輝さんと同様に、だらだらとして過ごした。


 僕たちが晩ごはんを食べ終わった頃に、丁度このいけすかない男の人が将輝さんを訪ねて来た。手に派手な柄の紙袋と瓶を持って玄関に現れた彼は、僕を見るなり「ミカちゃんのお手伝いさんか? 坊や」と発した。このひと言に僕の眉が跳ねたのは、言うまでもない。


 恐らく将輝さんの知り合いで学者仲間だ。昨日、博物館でも話題になっていた人だったと思う。


 将輝さんの言った通り、彼はかなり大雑把(というより雑)とみた。将輝さんが僕と初めて会った時に言った言葉は、本の位置を変えるな、だったと思うが、彼は僕よりも付き合いが長いはずなのに、どかどかと本の上を平気で歩いたり、模造紙をグニャリと踏みつけたりと、とにかく雑なのだ。


「本の位置変えるなよって、何べんも言ったわな」


「ええやんええやん。場所は部屋の中ってことで変えてへんやろ?」


「まあ、せやけど……」


彼が通った後には、一筋の道が出来ていた。さながら掃海された航路だ。


「で、何の用なん?」


「せやせや。聞いた話やと、あの碑板の一部が盗まれたんやて?サツキの家に盗みが入るなんて、世も末やなあ」


とニヤニヤ笑いながら啓介さん。


「んなこと話しにきたんか。お前も暇やなぁ」


と、将輝さん。


「あんたと一緒にせんといてくれへんか?俺にはちゃんと仕事が有るんや」


そう聞くと、将輝さんは「ふん」と鼻を鳴らし、横に向いていじけた。


「冗談やて。あんたにな、渡したいもんが有るねん」


「ほう」


そう言うと、啓介さんは先ほどの紙袋と瓶をローテーブルの上に置いた。何だろうか。


「何なんこれは?」


「見て判らんか?あんたの好きなアレや。神戸の春言うたらこれやろ。まあ、ちと遅いけどな」


啓介さんは身を乗り出す。将輝さんは一瞬首を傾げたが、「ああ!」と納得したように声を上げた。


「イカナゴか」


「せや」


「そういや、今年はまだ貰っとらんかったなあ。すっかり忘れとった」


「そないな事や思う(お)とったで。どうせ、資料室にでもこもって資料漁っとったんやろ?」


啓介さんはソファーにどしっと座り直した。


「いやあ」


将輝さんは頭を掻く。


「ついでやから、酒も持ってきてん。どや、一杯飲まんか?」


「酒癖も変わっとらんな。僕はあんま飲まんぞ」


将輝さんはチラッと僕を見た。


「飲んだら俺より強いくせに」


将輝さんってお酒も飲むんだな。居間のシェルフには、埃をかぶったウイスキーが置かれていたので、飲まないのだろうと勝手に思っていた。だが思い出してみれば、うちの母さんも週末にはワインのひと瓶くらい平気で飲み干すような人なのだから、将輝さんが飲めないとも限らない。ここはひとつ、大人の楽しみとやらの邪魔をしないようにしなければ。


「僕のことは気にしなくて構いませんよ。母さんがいつも飲んでるので慣れてます」


「そうやぞ?坊やの言うとおりや。分かっとんなあ、坊や」


「あの……坊やって呼ぶのやめてもらえます?そんな歳じゃないんですけど……」


「何言うとんの。あんたみたいな歳の子は、うちんとこやったらみんな坊やって言うで?ま、ええやんええやん。細かい事気にしとったら年取るで?」


そう言うと啓介さんは、はははと大いに笑った。何だろうか、このとてつもないデジャブ感は。前にもあったような……。僕は不意に未紀さんの事を思い出した。


「で、犯人探しは、進んどんか?」


啓介さんはイカナゴの入った薄いタッパーを両手で開けると、机の上に置き、将輝さんにお箸を要求した。醤油と生姜の煮詰まった香りが部屋に広がった。このテイストは…… 恐らく明石以西だろう。ちらりとみりんの香りもする。


「いや、そないには」


お箸3膳とグラスを3つ、居間を渡って台所の棚から取りながら言う。


「あ、僕の分まですみません」


「ああ、いいの。ついでついで。何か入れる?」


「いえ、そのままで」


将輝さんは慣れた動きで戻ってくるとソファーに座った。啓介さんは早速、どこからか持ち出した栓抜きで、一升瓶の王冠を開けると、豪快にそのままグラスに注ぐ。危うく僕のグラスにも注ぎそうになった。


「おっと、未成年や、危ない危ない。坊やにはこれやな」


そう言って、紙袋からオレンジジュースの瓶を取り出した。


「あ、ありがとうございます」


僕の分まで開けて注いでくれた。


「まあ、乾杯や!ほれほれ」


啓介さんは急かしてグラスを持つよう促すと「乾杯!」と音頭をとる。心地よいグラスの音が部屋に響いた。


 僕は一口飲みながら、静かな居間に轟く彼の笑い声をうるさく思いながらも、どこか頼もしく感じていた。


 彼という人物はこういう性分なのだろう。活発なオーラで周りにとても気を配る。二人で暮らしてしばらく経つが、サツキさんも全く帰って来ないので、夜は寂しい。男同士、話すこともない。なんだか久しぶりに賑やかな気分だ。


「未紀から聞いたで、怪しいんは四人か」


しばらくして落ち着いた頃に、啓介さんは口を開いた。


「ああ」


「栖槌と狩谷はともかく、矢永田教授を疑(うたぐ)るんは、ちと気が進まんなぁ」


そう言って、一杯いっきに飲み干す。すると将輝さんが次を注ぐ。


「僕やって気が進まんのや」


将輝さんも飲み干すと、啓介さんが次を注いだ。僕も何となくオレンジジュースを流し込んで、もう一杯入れた。わんこそばみたいに、じゃんじゃん注がれていく。


「やったらなんで疑う。理由もなく人を疑るんは、俺は好かんぞ、将輝」


啓介さんの強気な口調に将輝さんは少し驚いたらしく、目を丸くしてグラスをローテーブルに置いた。普段とは違う言動だったようだ。


「せやな……理由としては、先生が辞める前の事かな?」


「辞める前?」


「ああ、先生は僕が碑板の研究を続けるんに反対したんよ」


「いきなり、ですか?」


「そうだね、辞める2ヶ月くらい前だったかな。急に反対し始めたんだ。それこそ理由もなくだ。いくら聞いても答えようとはしなかった」


ぐいっとまた飲み干す。


「その理由が解らんから、動機が明瞭な残りの三人よりは怪しいて疑っとるねんな」


「ああ」


また二人はグラスを一杯飲み干した。いきなり来てこれは飲み過ぎだ。こんなに飲んだら急性アルコール中毒になるんじゃないか。


「他の三人には充分な動機がある訳やが、それにもましてな」


碑板の財宝や、国王の出自。将輝さんへの怨恨じみた感情が動機として挙げられた3人とは違い、矢永田さんに関しては何の情報も無い。訪ねようにも、居所も判らないのでは尋ねようがないから、厄介だ。


 二人はイカナゴを肴にどんどん日本酒を注いでは飲んでいく。まるで競い合っているかのようにお互い一歩も退かない飲みっぷりだ。見ていて清々しい。何だか自分一人飲まないのも場違いな感じになりそうなので、僕も一杯飲んで、もう一杯注いだ。


 しばらくそんな感じに三人について話していた。


 だが、僕がオレンジジュースをひと瓶飲みきって、ボトルを振っていた時だ。啓介さんは、急に両膝を手で叩いて「よし!」と意気込んだ。


「俺もその犯人探し、加わるわ」


将輝さんは注いでいた手を止めて、啓介さんを見上げた。


「なんでまたそない急に?」


すると、啓介さんは口を大きく開けて、がははと笑った。そして、僕の方に目だけ向け、悪戯っぽくにやけて言うのである。


「気になっとるからや」


啓介さんは言うと、将輝さんが注いでいた分の酒をひょいっと掻っ払って一口に流し込んで、たいそう幸せそうな笑顔でぶはぁ、と息を吐いた。


 僕と将輝さんは、顔を見合わせた。互いが怪訝な顔をしているように思った。


***


 僕はあの後、上に上がって自分の部屋で少し眠った。唯一、如月さんの部屋が空いていたので、許可をもらって、今はそこを使っている。どうにも、将輝さんみたいに一階の雑然とした環境の中、2人掛けのソファーで器用に寝られない。かと言って、将輝さんの部屋(保管庫)の椅子で眠るなど論外。値の張る出土品に囲まれていると、神経を使ってしまって余計に落ち着けない。


 如月さんの部屋は、将輝さんの部屋より一回り小さいが、白と茶色のツートーンで統一されていてシンプルだ。部屋のデスクに飾られた錆びた方位磁針が、どことなく如月さんらしくも感じた。


 騒がしい笑い声で目が覚めた僕は、声がする下の階に降りていった。丁度9時を報せる鐘が廊下の端の置き時計から鳴ったからだ。こんな時間に騒がしくするのは近所迷惑というものだ。まだ飲んでいたらしい。


「いやあ~なあ? 未紀ちゃんがなあ、最近冷たいんよ~。もう、ケイちゃん寂しいて寂しいてしゃあないわ~」


「おいっ! ちょい離れんか! 男に抱きついてもなんも出えへんぞ!」


 またもや感じるデジャブ感。相当飲んだようで、階段に居ても酒の匂いが漂ってくる。一階に降りてみると、案の定、顔を紅くした啓介さんが将輝さんに抱きついている光景があった。将輝さんはそんな啓介さんの脇を抱えると、「はあ……」と大きくため息を吐いて「離れんか!?」と一思いに彼を引っぺがした。


「んふぉが!」


 引っぺがされた啓介さんは、ニタニタと笑いながら反対側のソファーに投げ飛ばされた。恐るべし怪力、将輝さん。


 僕は急いで啓介さんのところへ行った。だが、いつもならあっちこっち足場を探して歩くのに、今回は妙に歩きやすくなったなあと思って辺りを見回すと、なるほど。啓介さんか。トイレに行くときに踏み分けて行ったのだろう。一筋の道が出来ていた。まあ、おかげで通りやすくなったから良いのだが。


「大丈夫ですか?」


 僕は啓介さんの肩を何度か揺すってみた。すると彼は「うむふふふ……んにゃ…よう……」と訳のわからない声を発して、がくりと顔をクッションに埋(うず)めた。


 どれくらい飲んだらこんな風になるのだろうか、と思って啓介さんに、近くにあった毛布をかけた僕は、ローテーブルの方に目を移した。すると、思わず「ありゃぁ……」と口走ってしまった。


 机には、飲みきった一升瓶と、その傍にどこから出てきたのか分からないビールの缶が5、6本とチューハイの缶が2、3本転がっていたからだ。一升瓶を飲み切るのも相当だと思うが、それにビールとチューハイも付けてとなると、啓介さんがそうなるのも頷ける。だが、


「啓介には今夜泊まっていって貰おう。こんなんじゃタクシー呼んで家まで送ってもらっても、玄関に辿り着けないだろうから」


将輝さんの平然っぷりは、唖然とせずにはいられない。顔も紅くなく、かと言って飲んでいないのかと言うと、一升瓶は将輝さんの元に転がっているし、ビール缶5本も将輝さんのところにある。


「啓介のやつ、焼酎の7杯くらいで酔っちゃって。僕には10杯くらい注(つ)いできたくせに。酔うんだったら、僕もしっかり酔いたかったよ、全く。おかげでビールまで飲んでしまった」


「あ、あははは……」


愛想笑いが引きつる。焼酎を10杯も、相当だぞ。


「僕の部屋、空けましょうか?」


このままここで寝かせて、風邪を引かれても困る。


「いや、こいつを持って上がるのは至難の技だ。僕も疲れたし、このままにしておこう。おや、啓介のやつ、また本の位置変えたな……まあいいさ。ちょっと疲れた」


将輝さんは大きく欠伸をすると、ソファーにゴロンと横になり、毛布を被った。酔っているようには見えなくとも、飲んだことには飲んだので、将輝さんも大概酒臭い。せめてシャワーくらい浴びてから寝て欲しいものだ。


 僕は2階に上がろうと階段に向かう。が、将輝さんに呼び止められた。


「そうだ、幸助くん。明日はちょっと用事があるから、学校に行くとき起こしてくれないか。この調子だと、どうも起きられそうにない」


用事とはどことなく珍しく感じる。非常勤で、基本的に朝は起きない彼が、朝から用事がある、というのはちょっと珍しい。


「構いませんよ。その代わり、呼んだらすぐに起きて下さいね。学校に遅れたくないので」


将輝さんはニカリと笑って言った。


「善処するよ」


***


 次の朝、僕はぐうすかとお腹を出して寝ていた将輝さんを叩き起こして、家を出た。啓介さんはどうやら先に帰ったらしく、ローテーブルには置手紙が置かれていた。将輝さんときたら15分以上呼んでも、もう少し、もう少し、と粘るので、最終手段としてフライパンをスプーンで叩き鳴らす羽目になったのだが、まあ電車には間に合いそうなので良しとしよう。


 普段しない事をいきなりするから起きられないのだ、と心の中で愚痴をこぼしながら、駅まで向かう。僕の通う学校が須磨区にあるので、地下鉄西神山手線で通学する事になったのだが、嬉しい事に、山手線には大倉山駅という便利かつ楽な駅があるのだ。


 なぜ大倉山駅が便利かつ楽な駅なのかと言うと、1つはお察しの通り、家からとても近いから。もう1つは、誰もこの駅で降りないし、乗らないからだ。ホームは四六時中閑古鳥が鳴いている状態で、無駄に広いホームは蛍光灯が古いので少しばかり暗い。


 文化ホール横の小さな広場(庭)を抜けて階段を駆け降り、左に曲がる。すると、そこにエレベーターホールが見える。


 僕がそのまま横の階段へ突っ込もうとしていると、ふと駅前の地図と睨みあう人が目に入った。男性は、手に持ったメモ書きと地図を交互に照らし合わせて、場所を確認している。何処か探しているのは間違いないだろう。だが、手伝ってあげる暇はない。こっちは将輝さんのお陰で乗り遅れそうなのだ。


 しかしその男性は、走ってくる僕に気付いてこちらを向いた。(おっと、これはまずいことになりそうだ……)すると、案の定、彼は僕に向かって「君、ちょっと聞きたいんだけど」と声をかけてきた。ゴールは眼と鼻の先だというのに、ここで呼び止められるとは。


 薄々、彼の誰か人に尋ねたそうにする動きが見られたので予感はしていたが、やはりか。というか、いかにも急いでいる人を呼び止めるか?普通。


 黒いスーツに青いネクタイ。黒いメッシュのアタッシュケースを持っている。見るからに気の弱そうな細い身体。肌は神社で引く御神籤(おみくじ)のように蒼白い。40代だろうか。元気無さそうで、しかも暗いオーラが頭身から滲み出ているので、かえって老けてみえるのかもしれない。喪にふくしているようだ。彼は冴えない表情でこちらを見ると、おずおずと口を開いた。


「この辺に住んどる三鹿島さんという方、知りませんか?」


僕はその言葉に意表を突かれた。彼の口から"ミカジマ"の4文字が出るとは思いもしなかったからだ。


「三鹿島はうちの叔父ですが、どういったご用件でしょう」


すると彼は、「おお、そうでしたか。偶然ですね」と口走った。本当になんたる偶然だろうか。今日が平日で、将輝さんに珍しく用事があって、なかなか起きなかったお陰で急いでいて、あと1分で電車が来るようなタイミングでなければ、ゆっくりと話をしていたのに。


「良かったです。実はうちのオーナーが、君の叔父様に会いたいと申しておりまして、それでお伺いしようと参ったのですが、どうも道が判らんかったんです」


「はあ……」


気が弱そうに見えて、意外とよく喋る。


「で、叔父様はどちらに?」


彼はそう聞くと、上目遣いに僕を見た。このパターン、僕に案内して欲しいという事だろう。だが、生憎今は時間がない。


「すみません。場所だけでよろしいですか?」


腕時計を一瞥した限りでは、もう一本逃したのは確実だ。次の便まで7分。その間に案内して戻ってくるのは難しい。しかし、


「んな薄情な!連れてって下さいよ!私、方向音痴なんです!」


僕は彼の急な行動に面食らってしまった。大の大人には有るまじき行動だ。彼は高校生に向かって跪(ひざまず)き、神頼みするように手を組んで僕を見上げた。


 急に周りの視線が気になり始めた。大通を往来する人の痛い目が僕に刺さる。


 恥ずかしい。


「そんな!立って下さい。分かりました、案内しますから!」


遅刻は決定したな。


***


 先ほど駆けてきた道を、もう一度引き返す。同じ階段なのに足取りが重く感じられるのは、落胆で気が重いからだろう。だが、背後をついてくる彼は安堵していて軽そうだ。


 沈黙。


 雀の鳴き声が、公園の木々の間に響いている。


 ──将輝さんに会いたいという人が多いような気がする。まだ将輝さんの元に来て間もないが、彼にわざわざ会いに来るような物好きな人は、思い付く限りでは如月さんと啓介さんくらいだ(悪い意味ではない)。昨晩の啓介さんの来訪は、将輝さんには意外だったようだし。犯人候補の四人が、訪ねて来たのもいきなりだった。


 となると、このタイミングで将輝さんに会いたいと言ってくるのは、あの碑板が関係していると思えてならない。


「あの……束の事お聞きしますが、要件とはどういった事でしょう」


彼はよそ見をしていたらしく、少し遅れて返してきた。「ああ。うちのオーナーが、骨董関係のオークションをやっておりまして、お宅に珍しい品があるとの事を聞き付けはったんです。そいで、買い取りの相談をしたいということで、私が来た次第です」


骨董商? 一昨日の話で出て来たような……。壺が欲しいとの事だったので、碑板とは関係がないという結論になった人だろうか。


「アポはとってありますので、ご在宅やとは思いますが」


普段の将輝さんなら、確実にご在宅だろう。呼んでも二度寝しているので出てこないだろうが。


  そう言えば将輝さんは今日は出掛ける予定だった。そうだと急がなければ。出かけてしまっていると、僕の遅刻が無駄になる。


 公園を抜けて、細い道路を何本か曲がり、見えてきたのは、メルヘンなおもむきの建物。如月さん宅の外観は、実に周りと比べて浮いている。学校の友達には、絶対に知られたくない。


「ここが三鹿島さんのお宅ですか。随分とご立派で」


ご立派か。なるほど、その形容の仕方があったか。


 庭を渡り、玄関前に着くと、ポケットから鍵を取り出す。その時、ふと扉の向こうが騒がしいのに気付いた。将輝さんだろうか。まだ出掛けていなかったか。僕は少し安堵した。


 鍵を挿し込んで、捻る。


 が、その時、突然ガチャリと扉が開いた。開いた勢いそのままに、避ける暇なく顔面にぶち当たる。


「んがっ!」


鼻に激痛が走った。鈍い音が鳴る。


「おや?」


すると、扉の隅から将輝さんがひょっこり顔を出した。彼は外をぐるりと見回すと、僕を見つけて「大丈夫?」と短くひと言発した。


 ──大丈夫な訳がない。僕はそう言いたかったが、あまりの痛さに鼻を押さえることしか出来ない。


「あの……大丈夫です?」


後ろにいる男性が僕を気遣ってきた。


「ええ、まあなんとか……」


気を遣われると、大丈夫としか言えないではないか。


「ごめんごめん。外に人がいるとは思わなかったから。で、そちらの方は?」


将輝さんは僕の後ろへ視線を移した。話をすり替えたな。


「ああ。この方は……あの、お名前は?」


そういえば名前を聞き忘れていた。男性は気付いたように「申し遅れました」と名刺を革の名刺入れから出しながら応えた。


「わたくしは、定(さだ)骨董店オーナー、定 治信(さだ はるのぶ)の秘書を務めております久瀬 邦夫(くぜ くにお)と申します。3日前に送らせていただきましたお手紙通り、本日商談に参りました」


そう言いながら名刺を将輝さんに渡す。その時、ふと香水の香りが漂ってきた。爽やかですっと鼻を通る香り。


 将輝さんは扉の裏から出てきて、眉根を寄せた。


「すみませんが、そのような手紙は届いていないですよ」


久瀬さんは慌てた。


「いや、確かに送り出したはずです。速達の控えがありますから」


「そうですか……まあ立ち話もなんですので、とりあえず中へどうぞ」


将輝さんは扉を大きく開け放つと、扉を支えて久瀬さんを中へ通した。


「そういやあ、幸助くん。学校はどうしたんだい?」


振り向きざまに将輝さんが問うた。


「久瀬さんを案内するために二本逃したから遅刻ですよ。神頼みなんてされたら、断れませんからね」


「神頼み?」


「いいえ、こっちの話です」


僕はクスリと笑った。将輝さんはそんな僕を見て怪訝そうに目を細めると、小首を傾げて中へ入っていった。


 扉が、ガタンと閉まる。


 さて、僕の任務は完遂した。となれば、学校へ急がねば。


    2


 今日は職員の会議があるので、授業は午前中に終わって、半日で帰れる日だった。そのせいで、一時間目に遅刻して来る僕に向けられる視線は、サボりに対する視線であったから、実に居心地の悪い半日だった。


 僕は板宿駅の薄暗いホームで、スマホを弄(いじ)りながら電車が来るのを待っていた。だが、そのうち見るものも無くなって、下校する学生達が、ぞろぞろとホームに降りてくるのをチラチラと見ながら時間を潰した。


 しばらくして、電車が来た。昼間だから乗っている人は少ない。僕は床に置いた鞄を肩に引っ掛けて、急いで飛び乗った。


「おい、君。これ落としたぞ」


僕は肩をつつかれて振り返った。すると、僕の学校の生徒手帳を手に持った男の人が僕を不機嫌そうに見ていた。


「ああ、すみません。ありがとうございます」


どうやら飛び乗った拍子に落としてしまったらしい。男の人は手であげて僕を制すると、言う。


「君、速水幸助くんだっけ? 雪江さんの息子さん?」


「えっ? あ、はい、まあ……。あの、どちら様で?」


僕の名前を何故知っている!? と問いただしたいところだが、さっき生徒手帳を拾った時に見たのだろう。


 男の人は背筋を伸ばした。


「ああ、私は狩谷 悠平という。君のお母さんには、学生時代からお世話になっているんだ。写真を見せてもらった事があったけど、随分と大きくなっていて気付かなかったよ」


そう言って、無骨ながら笑った。僕が狩谷と聞いて真っ先に犯人候補の一人を思い浮かべたのには1秒もかからなかった。


「狩谷さんですか!?」


「そ、そうだけど……。何をそんなに驚く?」


 180センチはあるかもしれない背で、少し上から僕を見下ろしている。線の細い顔立ちだが、鼻の骨がしっかりしていて、何だか、海の男と言われても納得できる。日に焼けた痕があるから、外回りが多いのは窺える。黒い薄手のトレンチコートを着ていて、ただのサラリーマンと間違えそうだ。


 彼がまさか母さんと知り合いだったなんて。聞いていない。


「いや、そういえば母さんから聞いた事があるなあって思って……」


危うく何か言いそうになった。碑板が盗まれた事は隠さないといけないのだ。


「そうか。で、雪江さんはお元気に?」


「あ、はい! それはもうピンピンしてますよ。ヒッチハイクでフィンランドに行ったとか何とかってこの前手紙で言ってました」


誤魔化さねば。


「それはそれは。雪江さんらしい。今もフィンランドでトナカイにでも乗って走り回ってるんだろうね」


「ええ、たぶん」


狩谷さんはニコリと微笑む。何だか悪い人では無さそうなのだが。


「今日はどうされたんですか?」


「えっ? 私かい? ちょっと知り合いに会いに行ってただけだけど。それがどうかしたの?」


「いや、学会中だがらお忙しいのかなぁ……と」


「幸助くん、よく知ってるね。そうだよ、今すごく忙しくてね。あ、でも今回はいい結果が発表ができそうなんだ」


いいぞいいぞ。このまま供述を引き出せれば、何か判るかも。


「へえ、それは気になるなぁ」


もうひと押し。


「じゃあ今度、私の発表の日に来てみるといいよ。好奇心を持つのは良い事だ」


んん。


「じゃあ、名刺渡しとくね」


そう言って彼は名刺を出すと、スーツの内ポケットからボールペンを出して場所と日付を書いて僕に渡した。来た時はこの名刺を係員に見せれば入れるという。


「おっと、私はここで降りるから。それじゃあ、また今度」


「あ、はい!」


狩谷さんは手を振りながら電車を降りた。新長田駅だ。僕の学校のある板宿駅から三宮方面に一駅の駅だ。


 国際会館なら三宮駅なのに。用事がまだ終わっていないのだろうか。


 何はともあれ、何も聞き出せなかったという事は判った。


 しかし、何たる奇遇だろうか。狩谷悠平という人物が、母さんと旧知の仲だったとは。将輝さんはともかく、母さんからは何も聞かされていない。自分の事を話さないのは守秘義務やらなんやらが関係しているらしいが、あまりにも秘密主義なのは困ったものだ。


 こうなれば、僕も僕なりに何か探りをいれてみようかな……。


   ⅩⅩⅩ


 朝っぱらから誰かと思えば、あの定という骨董商の遣いか。先ほど幸助くんには悪いことをしたが、まあ、それはさておき、だ。


 目の前で手を擦り合わせてニコニコ笑っている彼は、その、とても、不快だ。


 ただでさえ好かないそちら関係の人らなのに、こうもニヤニヤとされると無性に腹が立ってくる。


「ご用件は確か飛鳥の壺でしたか?」


「ええ、そうですそうなんです。前回参った時は不在でしたので、改めて参らせて頂きました次第です、はい」


 名刺に目を落としてみる。明朝体で書かれた肩書きを見ると、秘書とある。秘書にしては頼り無さげだ。肩周りに白いフケが付いている事からすると、あまり身だしなみに気を付けていないらしい。


 だが、定骨董店などは聞いたことがない。


 サツキから聞いて一通りは調べてみたが、どこにもそれらしきものは見つからなかった。東北の山奥やら埼玉の街中にある定という骨董商にも問い合わせたが、僕への商談はないと言う。


 となれば、"そっち"の方か。何にせよ穏便に済ませたい。


「あれは貰い物でしてね、ですが鑑定証も何もないので、価値の保証は出来ないのですよ」


「ええ、それに関してはご心配要りません。こちらの方で鑑定にかけさせてもらって、値踏み致しますので、はい」


「現物をご覧には?」


「それが、まだでして……」


見てもないものを欲しがるだなんて、物好きだ。先に現物を見てから話を進めるのが普通だ。まあ、普通であれば、だが。


「では少しお待ち下さい。持ってきますので」


「ああ! ありがとうございます。恐れ入ります」


 僕は立ち上がって居間を後にした。


 あの壺はさして高価なものでもない。どちらかと言えば、縁(ふち)が2、3ヶ所欠けていたりするので、もし本物だったとしても大した額は出ないだろう。これを譲ってきた館長も、差し詰め個人の蔵では入りきらなくなったあまりを、ただで手放すのが惜しかったから、知り合いの僕に安価で譲ったようだ。それをどこから聞き付けたのかは知らないが、買い取りたいと言ってくるのを物好きと言わずして何という。美術品としてならば少し不足だが、何か歴史的価値のある物ならば、或いは欲しがる人もいるのだろうが。


 まあ、表でも裏でも、不自然ではある。


 居間を渡って階段まで来てふと振り返ってみると、 久瀬はニヤニヤと手を擦り合わせてこちらを見送っていた。


「肩周り、払った方がよろしいのでは?」


 すると、久瀬は頭を掻いて、


「あ、すみません。お気遣い痛み入ります」


と笑った。 その時、彼が頭を掻く病弱そうな白い手が、やけに印象に残った。


   ***


 壺を取って戻ってきても、相変わらず久瀬はニコニコと気持ち悪いくらいに満面の笑みで僕を待ち構えていた。壺が入った木箱を持っていって居間中央のローテーブルに置くと、久瀬はますます笑みを深くした。僕もそんな久瀬に笑い返した。


「これはこれは、すみませんわざわざ」


「いえ、お構いなく。どうぞ」


僕が言うと、待ち兼ねたように久瀬は黒いメッシュのアタッシュケースから白い手袋を取り出して、すっとはめた。


 その時、同時に涼しげな香水の匂いが漂って来た。彼には少し洒落すぎているような香水だ。


「こちらがそうですか」


「ええ。大したものではないと思いますが」


「いえいえ、状態が良ければ」


そう言って壺にある取手を掴んで持ち上げる。


「縁が少し欠けてますねえ。ですが大丈夫ですよ。当方はこういったモノを修復する有能な修復士が居ますから」


ほう?


「で、どうですか? 譲ってもらえるのでしょうか?」


「そうですね、貴方が来た本当の理由をお聞かせ下さるのなら、熟慮はいたしますが?」


久瀬は少し意表を突かれたらしく目を丸くしたが、すぐにまたニヤニヤと陰湿な笑みを浮かべた。


「お気づきでしたか」


お気づきも何も、貴方がここに来てからずっと事を早く進めたいオーラを醸し出していたではないか。極め付けに壺をよく観察もせず、修復士に任せようなど、壺の事が枕でしかないのは明瞭だ。


「貴方にはこの壺はどうでもよろしいのでしょう?」


いやぁ、参りましたねぇ、と久瀬は手を擦り合わせた。


 沈黙。


「イマカディ王国でしたかな? あなたの研究してらっしゃるのは」


そう来たか。


「ええ、よくご存じで」


「まあ、こちらも多少準備してきてるんですよ。先ほど案内してくれたのは、貴方の甥の幸助くん、でしたっけ?」


「それが何か?」


「いえいえ、なんでも」


幸助の名前を知っていると言うことは家の場所も知っていたと考えるべきだろう。ならば、何故案内させた?


「用件には心当りがありますが、念のために聞かせてもらえますか?」


「まあズバリ申しますと、碑板を譲って頂きたいのですよ」


 やはり。


「調べがついているのなら、僕の返答はお察しだと思いますが」


「ええ、あなたはことごとく申し出を断っておられますね。前回、福岡で新たなピースを入手された時は唐松組と一悶着あったとか? 今も目をつけられているのでしょう。この界隈じゃ有名ですよ? 雪江2世って」


「それに関してはお構い無く。事は解決しましたので。それより、何故欲しいのです」


「ああ、ええっとですね……」


久瀬は脇に置いていたアタッシュケースから、黒い不透明のプラスチックフォルダを取り出した。


「これは?」


「矢永田教授がまとめた報告書のコピーです。引退される前に書かれたものですが、報告されることなくお蔵入りしていたものです、はい」


「何故それを今?」


久瀬は僕に資料を手渡す。何故彼がそんなものを持っているのだろうか。


「まあ目を通して下されば」


書類に目を落とした。右上をホッチキスで留められたA4コピー用紙には『ハブルハリ王墓発掘調査に関する報告の補足』と題された文章が横書きに40ページほど続いていた。


 大きく分けて、強盗の件と王墓に関することのようだ。


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p.12

 20ⅩⅩ/12/1の発掘調査で発見された数々の副葬品のほとんどは、盗難の被害に遭わず、無事現地の大学内にある保管室に保管された。盗まれた物に関しては、発掘時記録用に撮った写真を参照にする他手段がない。


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p.26

 発掘調査時に起きた強盗による火災は、墳墓入口付近出土の写真56(以後王墓碑板と呼称する)の一次保管されていた中央第一テント周辺を主として起こった。テント3棟と運搬車1台が炎上したが、幸いにも死者は出ていない。襲撃から逃走までの時間は15分程度だった事から、犯行には計画性を感じる。


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p.27

 調査員の中に強盗を手引きした共犯者が居たのではないかと推測されたので、地元警察の協力のもと捜査を行ったが、失踪した調査員の一人が死亡した状態で発見されたため、真相は聞き出せなかった。口封じのためであるのは明確だが、現場に残されていた死亡した調査員の所持品から判断すると、下端であった可能性があるので、たとえ聴取しても大した情報は得られなかっただろう。


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p.36

 王墓内に置かれていた副葬品の成分分析をした結果、一部から約0.1パーセントではあるが、天然鉱石の含有が確認された。また、微量の砂金も含んでいることから、イマカディ王国の周辺には金鉱山があったと推測される。約0.1パーセントの成分については、まだ分析中との事なので、後に上げる報告書にて追記する予定だ。


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p.37

 王墓の第1埋葬室に安置されていた、写真36の副葬品のネックレスを含めたその他多数の副葬品は、コバルトブルー色をしている。また、ハブルハリ王の遺骸にも写真39のようなコバルトブルー色のイヤリングやネックレスが装飾されている。青を神聖視していたイマカディ人にとって、青を含有している鉱物や植物はとても価値を持ったとされる。


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p.40

 クリストファ宝庫から出土した書簡類の中に記述がある王墓碑板は、その記述通り、暗号らしき記号が中央部に彫られていた。現物が盗難に遭ったため、解読には至っていないが、ハブルハリ王の宝物庫に大きく関わっている事は間違いない。


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「これを見てどうしろと?」


久瀬は手を擦り合わせた。


「ええ、はい、40ページの下半分に書かれた、一節。ハブルハリ王の宝物庫の件です」


財宝狙いか。碑板が欲しい理由としては妥当だろう。


「宝物庫の位置なら、当方も判りかねますよ」


「いえいえ、そこではなくてですね、その遺跡の中に貯蔵されたとされる、コバルトブルー色の元となる原石5トンが欲しいのですよ」


僕は少し驚かされた。コバルトブルーの原石の存在は、現地の大学教授と、僕と矢永田先生しか知らないはずだ。


「どこでそれを?」


「ええ、まあ、こちらの話ですので。それより碑板の事ですが、今はどちらに?」


「お答えしかねますね。ですが、あなた方の事だ。もうご存じなんでしょう」


「それが判れば苦労しませんよ」


久瀬は目を細めて微笑んだ。


ひととおり聞いてはみたが、真意が掴めない。碑板を欲しがる理由が原石5トンとすると、久瀬が大手企業の廻しである可能性が出てくるが、宝物庫には数々の美術品や考古学的価値のある品々が納められているとされている事を踏まえると、原石の価値がその美術品以上とは思えない。それに、久瀬が本当の事を言っている確証もない訳だから、慎重にいかなければ。


 少しの間、互いに静かだった。


「譲って下さらないのでしたら、こちらはまた商談に参ります。気が変わったらいつでも名刺の電話番号にお電話下さい、はい」


久瀬は机に置いた冊子をファイルに入れると、鞄を持って席をたった。


「お帰りになるのですか? もう少し居て頂いてもよかったのに」


僕は笑ってみせた。


「ご冗談を」


そう言ってあの陰湿な笑みを浮かべる。器用に居間を渡って久瀬と僕は玄関に辿り着いた。久瀬はニヤニヤとして「では」と言うと、ドアノブに手をかけた。


「ひとつだけ断っておきますが、あなた方が何をしようとしているのかは問いません。ただし、幸助に手を出した場合はご覚悟願いますよ」


そう言って僕は笑いかけた。よく言われるが、こういう時の僕の笑顔は怖いらしい。すると久瀬は「覚えておきます」と言ってドアを開けた。


「いたっ!?」


「おや?」


何だか聞き覚えのある悲鳴だ。


「おい三鹿島ちゃんよ、扉開ける前は外見んかいや。鼻打ってもうたや……ない……か」


啓介だったか。


「あ、どうも失礼しております」


久瀬がペコリと頭を下げた。啓介の鼻にドアをぶつけた事は流すのか。啓介は連れがいたことにやけにびっくりしたようで、久瀬に向かっていえいえ、と頭を下げた後、僕に向いた。


「取り込み中やったか? いやあ、すみませんね、どうぞ」


啓介はドアを開けて久瀬を外に通す。


「では」


外へ出ると、芝生の生えた庭の枕石を一つ一つ踏みながら門を出ていった。


 こじんまりとした弱々しい後ろ姿を見送った後、少しして啓介は僕に耳打ちをしてきた。さして人が周りに居るわけでもないし、声を抑えて話す事でもなかった気がするが、耳を貸した。


「何のようやったんや? あの人とはどんな関係?」


鼻をさすりながら言う。鼻声気味だ。


 だが僕は今とても機嫌が悪い。生憎答える気分ではない。何となく気晴らしがしたかった事もあって、一言、


「あほ」


「うぐっ!」


と啓介のみぞおちに肘を軽くいれた。


   3


 僕と啓介はminiに乗って三宮に向かっていた。学会が開かれているのは国際会館だ。国際会館は、その名の通り国際的な会議にも用いられている。また、パスポートの更新の時にも行く建物なのだが、内部には映画館やレストラン、劇場などもあるのだ。そのため普段は一般客が多い。


 だが、今日は国際会館ではなく、その周辺にあるいつものホテルへ向かっている。神戸で学会が開かれた際、必ずと言って良いほど大半の学者たちが期間中宿泊するホテルだ。200人規模の大所帯でも1ヶ月は泊まれるし、あのホテルのオーナーときたら相当な"商売人"なので、あと少ししか部屋数がないとしても、無理矢理部屋を空けて客を入れようとする。こちらとしては急な用事で1泊ほどする事になっても、学者と聞けば無理にでも部屋をくれて助かってはいるのだが。


「今日は狩谷と栖槌に会うんやっけ?」


助手席で窮屈そうに足をもじもじさせていた啓介が訊いた。


「そうや。昨晩言ったやんか」


「まあ言うたは言うた。けど、2回聞いたからて、バチは当たらんやろ。俺は物覚えが悪いんや」


「そのわりには、随分と正確な時間に迎えに来よったなぁ、ほんま」


「覚えられるもんは、たまには覚えとる。気にすんな。で、や」


啓介は急に真面目な顔になった。ハの字に傾いた人懐っこい眉が、ピンとまっすぐになった。


「学会の発表内容を如何にして聞き出すか、か?」


「さすが、うちの秘蔵っ子。毎度のことながら鋭いなぁ」


啓介は僕の肩を大きく叩いて笑った。先程の真剣モードはどこへ行ったのやら。


「誰がおまえの孫息子や。勘弁やわ」


啓介が更に肩を叩いてきた。そのせいでハンドルがぶれて、危うく車線を越しそうになる。


「まあ、ミカちゃんがじかで部屋に押し掛けたところで答えるとも思えんし、ここは俺の出番やな。俺が二人の部屋に行って世間話でもして、油断を誘う。そこから話を引き出す、て感じで」


大雑把な。


「そんなんで簡単にあいつらが話すとは思えん。何かええネタを持ち掛けて交換条件で話させる手もあるけど、ええネタが無いからなぁ」


「ネタねぇ……」


 丁度、信号が青になったのでアクセルを踏み込んだ。


「やったらミカちゃんの御家芸、俗称ショルダーサーフィンでパスワード盗んで、論文の書かれたパソコンを調べればエエんちゃうか?」


「感心せんぞ、その言い方。でも、最終その手もあるわな」


あくまでそれは最終手段にとっておきたい。別に好きで覚えた特技ではないし、世間ではよしとされない。


「いや、それで行こ。どうせ今んとこ策は無いんやろ。一か八か勝負をかけてみんと、判るもんもわからへんやん?」


啓介にしてはひどくまともな事を言うものだ。ちょっとだけ先生を思い出した。最近は何かにつけて先生の事を思い出す。


「大胆……ねぇ……」


なら、ここはひとつ博打を打とうではないか。


    ***


 ホテルに着いた頃には11時になっていた。車を出ると、額にじわりと汗が滲んだ。雲の無い空から注ぐ日光は、4月の半ばとは思えないくらい夏のようだ。僕と啓介は車を近くのコインパーキングに駐めて、足早にホテルへ向かった。


 国際会館を右手に流し、百貨店前の道を真っ直ぐ北へ進み陸橋を渡ると、JRの三宮駅が見えてくる。その駅と一体化するように建てられた高層のターミナルビルに、そのホテルはある。


 1階のチュロス売りの屋台を物欲しげに見つめる啓介を引っ張っていって、ホテルの中にあるカフェを素通りし、エレベーターの乗った。


「まずは狩谷の方から当たるか?」


聞いたが返事がない。振り向くと、エレベーターの手すりにもたれ掛かって何やらスマホを弄っている。


「おいよ。聞いとんか?」


もう一度聞いた。


「ああ、そないしよか」


緊張感のない奴め。


 2階にあるロビーに着くと、一般客がポツポツといる間に、似合わない背広を着た、いかにも学者と言わんばかりの人達が互いに挨拶を兼ねて情報の交換をしあっていた。今回の学会の規模は相当大きいようで、各国の著明な先生方が雁首揃えて集まっている。その中に、見かけない黒スーツの男が4、5人。誰か要人のボディーガードといったところか。ごくたまに、どこぞの国の王子やら貴族なんかも研究者として学会に参加する事があるのでそのためだろう。


 カウンターで啓介が二人の部屋を尋ねている間、僕は先程気になったボディーガードの主を少し探すことにした。


 だが、案外あっさり見つかった。


 グレーのダブルのスーツにワインレッドのスカーフ。背は僕と同じくらい高く、顔つきは北欧に近い。40代前後の男だ。










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神戸大倉山三鹿島さん探偵譚 佐々城 鎌乃 @20010207

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