三鹿島さんと博物館
1
神戸市立博物館。
神戸の旧居留地あたり、京町筋にある1982年開館の人文系博物館。その外観は大英博物館を彷彿とさせる。
新古典様式の建築で、建物の正面にはドリス式の円柱がそびえ立つ。元々の建物は1935年に旧 横浜正金銀行(現 三菱UFJ銀行)神戸支店として建てられたもの。また、その佇まいから昭和初期の名建築ともうたわれおり、1998年には文化財にも指定されている。
来年くらいから施設の老朽化に伴った大改装をしてリニューアルオープンする予定で、しばらくは見られなくなるのが残念だ。
とまあ、大体そう言った事を将輝さんから聞かされながら、僕は彼の後を追って蛍光灯が照らす素気ない廊下を歩いていた。さすが昭和初期の建築とでも言おうか。素気ないと言っても、その風格は現代のシンプルで直線的なものとは違い、昔を思わせるレトロな感じだ。
大理石の廊下に将輝さんと僕の靴の音。廊下脇の柱に置かれた赤い消火器以外何もない。
歩きながらふと横を見ると、ちょうど1本の廊下があって奥の赤い縄の結界の向こうには、一般のお客がちらほらと見える大きなピロティーがあった。
向き直ると、すっくりと高い将輝さんの大きな背中。彼の右手には、僕の胴体くらいある大きな革製のトランクが、早足で歩いているのに全く揺れずに持たれている。(それの重さを感じさせないくらい軽々と持っている将輝さんの怪力に敬礼!)
廊下はもうすぐ突き当たりにさしあたる。何の迷いもなくすたすたと歩いていく将輝さんを不思議に思いつつも、なんとも言えない緊張感を感じるのは、今いるここが一般に開放されている表側の博物館ではないからだろう。 ここは博物館の裏側なのだ。
ここに至るまでの話はこうだ。
将輝さんと僕はあの赤いminiで市立博物館に向かった。今にも圧死しそうなくらい重い、碑板を収めたどでかい茶色いトランクを膝に載せ、三宮に行った。欠片2個で持ったり降ろしたりをしていたのに、それが十数組も入っているとなると、その重さは想像できよう。金の重みでもあるが。
順調に京町筋を南にたくさんの信号に引っ掛かりながら博物館の前まで着いたが、しかし、将輝さんは急にハンドルを明後日の方向に切った。正面の駐車場ではなく、裏手にある博物館の搬入専用の駐車場に向かったのだ。
もちろん博物館の搬入専用なので、そこには入れない。だが、将輝さんはなに食わぬ顔でそこに車を乗り入れようとした。
すると、すぐに警備員が来ていろいろ言われる事になった。もちろん言われるだろうとも。そう思っていたが、将輝さんが警備員に対して耳打ちをすると「ああ、三鹿島さんでしたか」とすんなり通してくれた。
なかなか見る事のできない博物館の駐車場には、展示品の搬入用らしきトラックが6台並んで停まっていた。地下駐車場だからだったのだろうか。薄暗いのが少し怖かった。
そして、従業員しか通れない裏口から僕たちは中に入っていった。
といった次第である。
***
「あの……ここって本当に通って大丈夫なんでしょうか?誰も居ませんけど……」
先程からずっと歩いているが、一向に誰とも会わない。
「ここいらは、基本的に朝以外誰も通らないからね」
なぜ知っているのだ……。いや、そういう事ではなくてですね。
「裏口から入って来て良かったんでしょうか?」
やましい事は考えていないのだから、正面から堂々と入れば良いものを。(あ、でも、意外と堂々と入って来たような気もする)
「いいのいいの。あそこからの方が "あいつ" の部屋に近い」
「あいつ」とか言われましても、こちらはさっぱり誰の事か存じ上げないのですよ三鹿島殿。
「そもそも、アポもとっていないのに急に押し掛けて良かったんでしょうか?こういうのって、なんかややこしい手続きがいるんじゃないですか?」
「ああ。本当は県とかに書類出して、館にも色々提出しないといけないんだけど、ここには知り合いが多いから、そこら辺は心配しなくてもいいよ」
心配しますよ。
楽観的というか、大胆というか。言い方は色々だが、この人のすることは所々順序を飛ばしているような気がする。しかし、それでいて筋が通っているようにも感じるから、何とも言えない。飄々として掴みどころのない人だ。
一向に着く気配がなかったこの進路にようやく動きがあったのはそれから2、3分ほど経ってからだった。
「もうすぐ着くよ」
彼は振り返って唐突にそう言うと、視線で目的地を示す。そこにはクリーム色の壁に、はっきりと白色の扉があった。しかし、将輝さんの表情は先ほどより暗く曇っていた。明らかに不安そうな顔をしている。
「どうかしましたか?」
「…………ん?ああ、いや、何でもないよ」
何かが抜けたようにぼうっとして扉を見つめていた将輝さんは、僕の問い掛けに1拍くらい間を空けて反応すると、足早に扉まで歩いていってドアノブに手を掛けた。だが、ふと何か躊躇うように捻る手を渋らせた。
「……開けないんですか?」
将輝さんは問い掛けた僕に、弱ったように眉を曇らせほっと溜め息をついた。
「これちょっと持ってて」
さっと僕にアタッシュケースを渡した。
「あ、はい…………痛っ!?」
あまりの重さに思わず鞄ごと持っていかれて足の上に落としてしまった。足からなんとも言えない激痛が走る。
そうだった。こいつは重いんだった。将輝さんを見ていると、本当に軽そうに持っているものだから、つい油断していた。靴を履いていたのが幸いだったが、もし履いていなかったらと考えるとぞっとする。(爪先の部分に硬いものが入っているセーフティシューズというやつだが、それでも当たりどころによって、ある程度の痛みはある)幸い、僕の足がクッションになって中身は壊れていないだろうと期待してみる。
だが、将輝さんは僕を一瞥して「重いから気をつけて」とだけ言うと、また扉の向こうを見透(みとお)すように見つめながら、ぼそっと喋った。
「幸助くん。この部屋に入ったら、すぐこのアタッシュケースを抱えて僕から離れるように。でないと巻き添えになるかもしれない」
「巻き添え……?」
いきなり脅かすような事を言う将輝さんに、僕はただならぬものを感じた。何だか嫌な予感がする。不思議な事に、僕の嫌な予感は大抵の場合よく当たる。
「それじゃあ、行くよ」
「はい……」
将輝さんは、ゆっくりとドアノブを捻った。
彼は開けた扉の隙間からひょっこりと中を覗くと、抑えた声で「ミキぃ。居るかあ?」と言った。
返ってきたのは沈黙。僕も隙間から中を覗いてみたが、奥に人の気配はない。
「居ないんでしょうか?」
「ううん……鍵が開いてるから居るとは思うけど……」
やけに自信なさげだ。将輝さんは再度試みる。
「ミキぃ。居るかあ?」
沈黙。
薄々そうだろうとも思っていた。事前に連絡もしていないのに、タイミング良く居るとはあまり考えられない。しかし、ふと見た将輝さんはどこかほっとしているように見えた。まるでその相手が居ない方が都合が良いように微かにニヤけてすらいる。よっぽど先程言っていた"あいつ"もとい「ミキ」とかいう人と出くわしたくないらしい。
「どうします?」
「そうだな。一番信用できる奴だったんだけど、居ないなら仕方ない。残念だ」
全く残念な顔をしていないですよ、将輝さん。口元に笑みが浮かんでいる。
誰にでもフレンドリーそうな将輝さんがここまで露骨に敬遠している人とは一体どんな人なのか、是非ともお目にかかりたいものだが、居ないのであれば仕方あるまい。
「肝心な時にいつも居ない……」
「何か言いました?」
「いや、何も」
おかしいな。確かに何かぼそっと言った気がしたのだが。
「それじゃあ啓介にでも頼んで、渡しておいてもらおうかな。でも啓介はおおざっぱだからなあ。……少し心配だけど仕事は丁寧だから、まあ大丈夫か」
啓介とかいう方。お気の毒に。将輝さんにおおざっぱと言われるなんて。心中をお察しする。
「取り敢えず、啓介に会わないとな」
方針は固まったようだ。ここへは無駄足だったようだが、僕はついて来ただけだし、荷物はほとんど将輝さんが持ってきたようなものだから(実際そうだ)まだまだ体力は残っている。何処まででもとことんついて行こうじゃあないの。
「まあ、中に入ろう。それ、重いだろ?」
「分かってるなら持って下さいよ」
将輝さんは、はははと笑う。
「まだ体力は残ってるでしょ」
はい。そうですね。僕も笑った。
***
将輝さんは、中途半端に開けていたドアを開けて中に入ると、すぐに奥の方へ歩いて行って壁に掛けてある館内電話を手に取った。僕は重たい荷物を何とか中まで持って入り、部屋の中央に置かれている大きな作業台にケースを置いた。そして近くにあったデスクチェアにどしっと座り込んだ。やはり重い。
一息つきながら室内をぐるりと見回してみる。
白を基調とした室内で、両側の壁には白い棚がずらりと並ぶ。奥には資材庫と書かれたプレートがついたドア。新品のようなデスクが隣に置かれていて、その横にちょこんと背の高い観葉植物が置かれているのが、良いアクセントになっている。何だか将輝さんの部屋を思い出す配置だ。(将輝さんの部屋ほど乱雑にモノは置かれていない)
部屋の中央。僕が座っている横には、生物室に置いてあるような天板が黒い大きな作業台。反対側の席に将輝さんの部屋で見たようなトレーが置かれている。
それには顕微鏡が向けられていて、その中には水のような透明の液に浸った古そうな紙が入っている。横にはピンセットやいろいろな用具。
何かの作業の途中なのだろうか。まあ将輝さんの部屋同様、触らぬが吉だ。しかし、
「ほう。ミキのやつ、こんなもの調べてるのか……」
用を済ませたらしい将輝さんは、奥から歩いてきて僕が観ていたトレーを覗き込んだ。
「どれどれ」
彼の目の色が変わっている。それはまるで、海を見た事が無い少年が「海ってどんなのだろう!」と目を輝かせながら絵葉書を見るような感じだ。彼は顕微鏡に目を当て、ピントを合わせ始めた。
「ちょっと将輝さん!触らない方が良いですって!」
抑えめの声でそう言ったが、彼はまるで聞いていないように集中してレンズを覗き込む。考古学者の血が騒ぐ!とか言った調子だろうか。若き青年の如く熱中する姿は、彼が三十路手前である事を忘れさせる。
「将輝さんってば!」
「なるほどね。新約聖書か。年代は……中世前半……だね」
横にあったファイルを開けながら言う。
「将輝さん!」
「分かったわかった。ちょっと覗いていただけだよ」
考古学者なのでああいう物の扱いは心得ているだろうが、やはりよそさまのモノを勝手に触るのはあまり良くないと思う。たとえ将輝さんが手慣れているとは言えども、もしも壊したりしたら、面倒な事になるのは免れない。
「ちょっとでも、壊したりしたらどうするんですか!」
「……すいません……。幸助くんはサっちゃんみたいだなあ」
「何か言いました?」
「いいえ。何も」
その時だった。突然何処からともなく声が聞こえてきた。
「誰か居(お)るん?」
何だか眠そうなあくび混じりの声がした。何処からだろう。辺りを見回す。
「…………」
「将輝さん?」
彼の様子がおかしい。
「どうしたんですか?」
「居たのか……」
「誰が?」と聞こうとしたが、僕の言葉はその誰かの声で掻き消される。
「ミっちゃんやない!!どないしたん急に!?」
将輝さんは沈痛そうな顔をして、フェドーラ帽を脱いだ。
声の主と思われる人は、デスクの横にあった扉から急に出てきたと思うと、次の瞬間、すでに将輝さんに抱きついていた。あまりの急展開に思考が付いて行かない。
「会いたかったー!!!」
「僕は会いたくなかったよ」
誰この人?
女の人?しかも美人。
急に抱きついた?
見た目は20代半ば。綺麗な顔立ちで、スリムなウエストが胸の大きさを強調している。身長は僕よりも低い。黒いハイネックの服に紺のストレッチパンツを履いて、その上から白衣を着ている。満面の笑みで楽しそう(幸せそう?)に笑いながら将輝さんを抱きしめる彼女は、きゃっきゃと飛び跳ねて後ろで結んだ短めのポニーテールを揺らす。
「良い加減離れてくれへんか?息苦しい」
「えええ!?もっとええやんか!」
今度は左右に揺さぶり始めた。
「良かないわ!子供の見てる前で!」
「……ん?子ども?」
一瞬にして静かになった彼女は、こっちを向いて僕を一瞥すると、将輝さんと僕を交互に見た。
「えええええええええ!!!子ども!!!!!ミっちゃんいつ結婚したん?歳違うし、もしかして隠し子!?」
「落ち着かんかい!違うわ!親戚の子や!」
「親戚やって!?まさかミっちゃん、近親と……」
「変な想像すな!!姉貴の息子やわ!」
一向に彼女は離れる気がしない。将輝さんも、無理矢理ひっぺがす訳に行かず、仕方なく揺らされている様子。助けを求めるように、ちらっとこっちを見たが、僕には助けようがない。苦笑いを返す。
「よし、今度教会に関する資料を渡したる。それでええやろ!」
「え!?ほんまに!?」
「ああ、嘘はつかん」
「やったー!!」
やっとのことで離れた彼女から、将輝さんは4、5歩退くと、ほっと溜め息をついて胸を撫で下ろした。
なるほど。会いたくなかった相手とは彼女の事か。どおりで将輝さんが眉を曇らす訳だ。こんなことになるのが分かっていたら、そりゃあ不安にもなる。もし、僕が離れていなかったら、多分吹きとばされていただろう。さっき感じた悪い予感とは、この事だったのだな。
全く。よく当たる。
だが、将輝さんも彼女の扱いを心得ているようだ。歴史の資料で釣って離した。この人も考古学者なのだろうか。
「ミキ。いきなり抱きつくのはやめてくれへんか。心臓に悪い」
「ええ?いいやない。私とアナタの関係は見せつけてなんぼやで?」
「こっちにとっては、それが一番迷惑極まりないんやけどな」
そう言うと、将輝さんはふんと鼻を鳴らす。
「変わらんね」
女の人は、先程のテンションからがらりと変わって、落ち着いた感じでにこりと微笑んだ。
「お前もな」
将輝さんもにこりと笑った。
沈黙。いい感じに見つめ合う二人。この二人。これはもしや……いや、絶対、
「あの……お二人のご関係は?」
「恋人よ」
「"元"恋人だ!」
やはりか。
「何よ!今やって愛し合ってるやんね?」
「何言うとんや!もうとっくに愛想尽きたわ」
「えええ!!?何でえ!?」
彼女は露骨に悲痛そうな顔をした。テンションの起伏が激しい。
「せやろ。約束した時間にはいつも遅れてくるし、知らん男とすぐいちゃつくし、挙げ句の果てに貢がせるまで飼い慣らすし。あの時やって…………ええわ」
「飼い慣らすって大袈裟な。ただ単に、向こうの好意で貰ってるだけやで?」
「ふん!こないだ元町で、元レーサーとかいう男、墜としたやろ」
「ああ、あのおっさんやね。勝手に付いてきて、結婚してくれとか言いよったから、ランボ欲しいって言ったったわ。金で女が釣れる思っとったら大間違いや。第一、ルックスが好かん。せやから……私が愛するのは、ミっちゃんだけやでー!」
ランボ、ランボルギーニ、元レーサー、おっさん…………。まさか、先日のいざこざを起こしたあの酔いどれの事か!?
ということは、あの酔いどれが会った美人はもしかして、
「未紀。とことん罪な奴やな……」
やはりか。
「何か言った?」
「お前に関わった男で、不幸にならんかった奴、居らんのちゃうか?」
「反例が目の前に居るんとちゃう?」
彼女は上目遣いでにやりと将輝さんを覗きこむ。僕も視線を彼に移してみた。不幸になっているかと言われると、そうでもない気がする。だが、准教授の職を追われたことは、少なくとも僕から見れば不幸のうちに入る。かと言って、彼女のせいでもない。だが、
「何を。あの堅物教授は、お前がお気に入りやった。いや、惚れとったぞ」
いや、案外原因かもしれない。
「ああ。一回迫って来たこともあったけど、振ったったわ。あんなロリコン野郎の女になる気はない。それで二人仲良く失業!」
「お前より僕が先やったけど?」
「細かいことは気にせんと。ほれそんな怖い顔しとったら男前が台無しやで?しかも歳とるよ?」
将輝さん、なかなか怖い顔をしている。眉がピクピクと動いているのに対し、口と目は不気味なくらいに笑っている。悪魔的微笑だ。睨んでいるのか、はたまた呆れ過ぎて笑っているのか。想像がつかない。
「余計なお世話や」
「痛っ!」
将輝さんは未紀さんの額にデコピンをすると、そっぽを向いた。
疎外感。
そろそろ止めた方が良い頃合いだろう。
「あの」
「何?」
二人の声が揃った。と同時にこちらを向く。息がぴったりではないか。
「この方は?」
流れで端から聞いていると、つい忘れるところであった。そもそも、この人は誰だ?
すると、将輝さんは気づいたようにこちらを向き、「こいつは、い……」と言いかけた。だが、彼女が台詞を遮った。
「私は石津 未紀。この人の大学の後輩で、彼女。彼の元助手で、今はここ博物館で働いてます。好きな食べ物はここのコーヒーと、ミっちゃんがつくるサンドイッチ。あ、ちなみに、年齢はヒミツ」
ヒミツって……。誰もそこまで聞いてないし。と言うか将輝さんに聞いたのだが……。
「26だ。あと今は彼女じゃない」
「ちょっと~!レディーの年齢を容易く言わんの!あなたやって28やない」
未紀さんは顔を膨れっ面にする。
「ええ歳して何が"ヒミツ"や」
が、将輝さんはその頬を啄いて吹かせる。
いかん。また話がずれていく。戻さねば。
「あの!!ここへはする事があって来たんじゃ……」
そうだ。ここへは今机の上に置いているあのアタッシュケースを預かってもらいにきたのだ。危うく流れで忘れてしまうところだった。
「おお!そうだったね。ごめんごめん」
将輝さんは頭を掻いた。ここに漕ぎつけるまでに、どれだけ掛かったか。早く終わらせてもらいたい。時間的にはそう長く無いが、いろんな事があり過ぎた。
「することって?」
一方の彼女は、何の事か分からない様子で、僕たち二人を交互に見た。それもそのはず。説明していないのだから。
将輝さんは今朝あった事を話し始めた。
2
「碑板を預かって欲しいねえ……」
「せや」
未紀さんは一通り聞き終わると、腕を組んで少しばかり考え込む様子を見せた。
沈黙。
急に来て預かって欲しいと言われたのだ。考える時間くらいはいるだろう。破損させたり、失くしたりしたら、責任を問われるのは彼女だ。いくら元カノでも、二つ返事で了承してくれるだろうか。
「預かるんに関しては別にええけど、失くなったんはどうするん?」
あっさり了承してしまった。将輝さんはそれを聞くと、
「矢永田先生に連絡が取れるんやったら直接聞きたいんやけど、そうもいかんからなあ……」
と困ったように眉根を寄せた。
「矢永田先生の連絡先知らんの?」
「それが、何か引っ越されたみたいで、それから先が分からんねん」
そういえば、如月さんが大学に戻って調べてみるって言っていたな。そこのところは彼に任せれば良いのではないか?と、考えついたが、どうやらそうもいかないらしい。
「さつきにも調べて貰ってるけど、たぶん分からんと思う。あいつは先生が大学を去った時は海外に行っとって居らんかったし、第一、先生はそないに住所も教えてないと思うんよ。先生は自分の事をあんま喋らん人やったし」
「んん………あ、せや。うちの館長やったら知っとるかもしれん。旧友やって言っとったの聞いた事ある。どないする?聞いてみよか?」
「おう。そうしてくれると助かるわ。ありがとう」
将輝さんは、にこりと笑って言った。すると、未紀さんの頬が、ぽっと紅くなった。
彼女は少し俯き気味に顔を伏せ「ちょっと待っといてな」と言うと、そそくさと館内電話のもとへ歩いていく。
ははん。とても分かりやすく照れている。いくら僕でも、ここまで分かりやすい照れ方をされると、将輝さんに好意を抱いているのは分かる。
やはり今でも好きなのは変わらないらしい。だったら何故別れたのだろう。なかなかのオシドリコンビだと思うのだが……。僕は未紀さんの後ろ姿を見ながら、少し考えてみた。
ふと将輝さんを見ると、そんな彼女を気にも留めない様に、またあの顕微鏡を覗き込んでいる。全く、呆れたものだ。僕の考えている事はすぐ判るのに、彼女の考えている事には、てんで無頓着なようだ。恐らく別れた原因は将輝さんにあるらしい。なんだか無性に妬けて来る。羨ましい限りだ。
***
「ミっちゃん。連絡取っといたで」
未紀さんは将輝さんの耳元まで寄って、大声で呼んだ。すると1拍遅れて将輝さんは応える。
「ん?おう。で、どない?」
「それが、今は外出しとるから居らんのやって。帰るまで待つ?」
「いや、午後からはちょっと用事があるから無理やわ。大学に呼び出されとるから」
「ああ……御愁傷さん」
「そうだ。せっかく来たんだし、館内でも見て回るかい?」
唐突に問われて、頭が真っ白になった。
「へっ?」
「僕はまだ時間に余裕があるし、暇でしょ?」
願ってもみない事だ。実は少し興味があった。学校では数学が苦手で、いつも世界史の教科書を眺めている時間が多い。これといって得意な科目はないが、世界史だけはそこそこ良い点を取っていると思う。これはうちの母さんから子供の時、寝る前に聞かされたから(せい?)だろう。
「いいんですか?何だか嬉しいです」
僕は自分の顔が緩んでいくのが分かった。普段訪れる事がない場所だけあって少し興味があった。しかもタダで見て回れるのだから、何だか嬉しい。(学生証があれば普段でもタダだが)
「下心が丸見えだけど、勉強熱心なのは良い事だ。まあ僕も久しぶりだから、今やってる展示は見ておきたいんだけど。これから改修工事が始まって、しばらくは見れなくなるからね」
そう言えば、ここに来るときにそんな事を言っていたな。確か来年の7月までだった。
博物館に幌は掛かってなかったから、てっきりまだなのかと思っていた。
「そうなんよ。この展示が最後の展示やから、見とかんと来年まで見られへんのよね」
「確か今日が最終日やったな。ええタイミングや」
「何で良いタイミングなんですか?」
最終日だからといって特別に良いことがある訳でもなさそうだし、今日という日が何か深い意味を持っているのだろうか。将輝さんは、そんな疑問を抱いた僕に言う。
「今日は最終日だから、この展示のメインであるあれが公開されるんだよ」
「あれって言うのは……?」
将輝さんは十分すぎるくらいの間を空けて言った。
「ハブルハリ王の棺と金マスクだよ。マスクの回りに獅子を模して円形に並べられた人の人指し指付きのね。あまり光に晒すのはよくないから、公開日を決めて公開してるんだ」
「人指し指……」
「今回の展示は中世東ヨーロッパで一時期ビザンツ帝国の勢力を退けて国土を拡げた、イマカディ王国展だ。僕の研究してる分野だって今朝言ったね。この碑板の作られた国だ。この王国には謎が多すぎるんだ。政治体制も国民の生活も、王国の勢力範囲すらも不明瞭で、その実態が掴めない。各地で遺構は見つかっているが、首都らしき場所は未だ不明。唯一、王の墓だけはちゃんと見つかったんだけどね」
町などは見つからず、王の墓だけが見つかる事なんてあるのだな。普通は王の墓を一番見つかりにくい所に隠すと思うだが。秦の始皇帝の墳墓なんかは、偽物が何個もあるというのに。よほどそういうことにルーズだったのだろうか。
「近年になってようやく色々見つかり始めたんだけど、それには矢永田先生が大きく貢献されたんだ。今展示されてる品々は、その大半が、先生が長い年月をかけて発掘されたものだ」
へえ。心のなかで感嘆した。
「やっぱり矢永田先生って凄いんですね」
そう聞いた未紀さんは、真ん中の大きな黒い机に肘を突いて話し始めた。
「そりゃそうやで。あの人、英語はぺらぺらで現地語もほぼマスタークラス。頭はキレるし、優しいし。ミっちゃんもそこが似たんかな?」
「僕と先生は比べたあかんよ。比べ物にならんで」
将輝さんは手をひらひらと振って否定する。前に聞いた時もそうだったが、将輝さんがここまで尊敬するなら、是非とも顔を見てみたいものだ。だか、よくよく考えれば、将輝さんは何をしたのだろうか?若くして准教授になったのだから、何かしら成果を出したのだろうが、一言も聞いていない。
「みっちゃんは、元々見つかっとった書物から言語を翻訳して大まかな都市の位置や、社会体制を研究しとってんね。ほんま、大変そうやったで。先生に急げってよく急かされてたし、翻訳言うてそないに簡単な事やないやろ?」
「まあな」
将輝さんは肩をすくめた。
「どういうことです?」
僕は疑問を覚えた。翻訳なのだから、英語みたいに翻訳の辞書みたいなものがあって、そこから照らし合わせていくだけなのではないのだろうか?まあ、確かに大変そうだが……。未紀さんはすっくり立つと僕に向く。
「昔の書物を翻訳するには、沢山の知識と時間と、根気がいるねん。やって、翻訳言うても、全く知らん記号がつらつら並んでるだけのもんやから、その1つひとつの意味が解らんかったら翻訳のしようがない。暗号や。ましてや、最初はギリシャ文字や思われとったんが、このイマカディ王国の文字は独自の文字やと判って、大混乱になってんね。しかも翻訳辞書なんてもんは無かったんよ?でもミっちゃんはそれを膨大な過去の出土品から調べ出して解読し、まとめて、ひとつの"イマカディ文字現代語辞書"みたいなんを、たった2年で作りよってんから、末恐ろしいんよね」
へえ。再び感嘆。
将輝さんって人は本当に分からない。今は非常勤講師で自由人みたいなところがある人が、実は凄い偉業を成し遂げた人だとは、誰かに言われなければ判る筈がない。僕は改めて彼を上から下まで観察してみた。鼻筋が通っていて、背が高く、カッコいい。が、背後でぴょんとはねた寝癖が、見るからに世界を放浪する売れない画家みたいな雰囲気を醸し出している。よく"人は見た目ではない"と言うが、今まさにそれを痛感している。
「末恐ろしいやなんて大袈裟な。ほんの一部分だけの解読やで」
「ええやないの。あんたがしたことは、そんくらい恐いことやねんから。今のイマカディ王国の研究を、より簡単にしたんやで?もっと誇りいな」
将輝さんは少し照れたように頭を掻くと、笑みを含みながら言う。
「やったら、誇らせて貰おか?凄いやろ」
「ああ、ホンマやね。凄い凄い」
誇れと言っておいて、随分と棒読みなのだな。僕らの間で少し笑いが起こった。
***
「そういやあ、今日は研究会があるらしいで?」
「ほう?何処の?」
「なんでも、イギリスから来た学者たちが集まるらしいよ?」
「イギリスか……。てことは、フィリップ博士が来とるかもしれんな」
フィリップ博士。容疑者の一人だ。
「どやろか。詳しくは知らんけど、居ったら挨拶しといてな」
「おう」
そう応えると、将輝さんは帽子を被り、未紀さんにケースを預けて、部屋を出て行った。僕は彼女に軽く会釈すると、急いで将輝さんの後を追った。
3
僕たちが部屋を出たときには、お昼前になっていた。時計の針は11時59分だ。
先ほどより身軽になったせいか、将輝さんの足取りは軽く、自分の歩幅で歩いていると、うっかり置いていかれそうになる。
来た道を戻って、大きなピロティの見える通路まで来た。赤い縄の結界をすり抜けてピロティに出ると、さすが休日とでも言おうか。何だか想像していたよりも人の数が多い。
今回の展示のためだけに作られたであろう大きな垂れ幕が、吹き抜けの玄関側の壁に掛けられていて、それには将輝さんが言っていた金のマスクの写真が載せられている。なるほど、獅子を模して作ったというだけのことはある。人の顔型をした金のマスクに金細工の鎖で人の人指し指を付けたマスクは、仰々しいが、どこか荘厳さを感じる。その下には、明朝体で書かれた『イマカディ王朝展』という文字が連なっていた。
博物館の名所のひとつであるこの吹き抜けピロティには、玄関から見て左手に中国・桂林の山々が描かれた壁一杯の大きさがある絵が飾られている。
館内の売店は、限定グッズを買う人で賑わっていて、入り口にはガイド本を配るので忙しくしている学芸員たち。僕は自分たちがズルをして入って来たことを後ろめたく感じた。
するりとさりげなくパンフレットを貰った将輝さんは、僕にそれを渡すと、赤い絨毯が敷かれた大階段を上っていく。大きく仰ぎ見ると、左にはあの大きな絵が見える。僕は手元に目線を戻し、パンフレットを開いてみた。
~イマカディ王国展へようこそ~
今回の展示では、他では見られない多くの品々が公開されます。ハブルハリ王の金のマスクや、調度品の数々。1923年に発見されてから世紀を経てなお謎のベールに包まれているイマカディ王国の出土品が、一挙に揃うまたとない機会を、是非お楽しみ下さい。
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1923年か。随分と最近になって見つかっていたのだな。
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イギリスのマーティン教授によって発掘された遺跡には、小規模な集落の跡や、家畜の遺体、陶器の欠片などが見つかりましたが、畑や田などの痕跡が見つからず、また、住居も粗末なものだったことから、遊牧系民族であったと考えられていました。しかし、今世紀に入ってから新たな発見があり、実は遊牧系民族では無かったことが明らかになりました。この発見に携わった考古学教授 矢永田 氏は、これによりイマカディ王国の研究はさらに進歩するだろうと述べました。それからも発掘は続き、2012年には遂に、今回の展示のメインであるハブルハリ王の金のマスクを発見するに至りました。これには、前年に発表された論文が大きく関わっていると大英博物館館長J.J.フィリップ氏は言います。
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前年に発表された論文は、恐らく将輝さんが2年間研究していたという例の翻訳の凡例のことだろう。こんなところにも載るのだな。それにしても考古学教授 矢永田 氏、今日はよく聞く名前だ。この分野ではかなり有名らしい。 そして、家でも聞いた、フィリップという名前。この人、大英博物館の館長だったのか。
パンフレットを閉じてポケットに突っ込むと、丁度奥の階段に着いていた。「順路」と書かれた看板に従って大理石の階段(アンモナイトなどの化石が見られる)を上っていくと、突き当たりの左に展示会場が見えてくる。黒い幕が降ろされた壁には、『450~580年 王国の興りと支配の拡大』と書かれた説明が掛けられていて、その周りには説明を見ようと人だかりが出来ていた。
「さあ、いよいよだ。楽しみかね?」
「ええ。なんだかわくわくしてきました」
将輝さんはニコリと笑った。
「じゃあ行こうか」
僕たちは中へ入っていった。
***
展示品を守るために暗くされた会場内は、思った以上に人が多く、少し渋滞気味だった。
まず目に飛び込んできたのは石の彫刻。ヤギの頭をした筋骨隆々な獣神が、三叉の槍を構えてこちらを睨むように見下ろしているのが印象的だった。その隣には大人が5人横に並べられるほどの太い石柱。それには、頭くらいの高さに一箇所だけ四角く穴が空いて無くなっていた。将輝さん曰く、この頃の王国は経済的にも豊かで、独特の文化が発展していったらしい。
「文化が発展していくにはね、色々な刺激が必要なんだ。例えば、戦争。これは武器などの殺傷兵器や、戦術などの発展を促す。ほら、見てごらん。その槍先の付け根には突起が付いているだろう?」
将輝さんは目の前にあったガラスケースを指差した。人混みをそっとかき分け、ガラスケースの前に辿り着くと、赤く錆びて今にも朽ち果てそうな槍先が布の上に置かれてあった。確かに緩やかな曲線を描く刃の付け根には突起がある。
「それはね''かえし"といって、一度刺した後、捻りながら抜く事で、傷をより複雑にして致命傷を与えるために作られたものだ」
刺した後、捻りながら抜く……。なかなか残酷なものを作ったな。血が噴き出るシーンが頭を過った。だが将輝さんは嬉々として笑みを崩さない。
「これが作られる以前の槍からは見つかっていない形状で、以降の槍の主流になった形状でもある。また、この槍先が発達した背景には、戦法の転換があった事も大きい。騎馬に重きを置く遊牧系民族に、"歩兵"という考え方が浸透したんだ。国土が拡大するにつれて異民族(農耕民族)から徴兵する事が多くなり、騎馬を持たない兵が多くなった。そのため、歩兵を使った戦法が発明されていったんだよ」
歩兵といえば、古代ギリシアの重装歩兵や、それらが使ったファランクスとかいう陣形が思い浮かぶ。あれは確か平民の軍隊だった。
「次に、貿易だ。これは、文化が発展と同時に多様化していくのに大きく関わっている。さっきの槍先のように、他の文化圏の技術や思想が自国の文化と交じり合って、新たな文化が生まれるきっかけになる。そうだな……。あそこの水瓶とかが、その象徴だ」
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『獅子と戦士絵付ペルシア型漆塗水瓶 6世紀半ばから末期にかけて』
ササン朝ペルシアの水瓶の形を模して作られたとされるこの水瓶は、大規模な集落跡から発掘された。右に示した写真1のペルシアで出土した水瓶の形と非常に類似している事から、ササン朝との交易があった証拠として重要な出土品である。
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「この6世紀半ば頃からイマカディ王国の文化は、閉鎖的な戦闘に特化した文化から、華やかな文化へと変わり始めた。文学の発展だ。文学ということは、文字があるという事。元々イマカディ王国に文字は無かった。唯一発見されているのはアラム文字の粘土板だけど、これは略奪によって戦利品として運ばれてきた筋が濃いので、違うと推定された。文字が出来始めたのは、他国と交易するようになってからだ。交易の帳簿や、その頃から始まった定住生活に関係する暦の管理などに、どうしても"文字"が必要になったんだ」
「へえ……」
「ならば、他国の既に出来上がっている文字を使う方が、色々と都合が良かったはずだが、元々遊牧系民族なだけあってプライドが高かったらしく、独自に文字を創り上げたんだ。サツキんちで見たあの碑板の文字がギリシア文字に似ていたのは、恐らく参考にしたんだろうね。同じような例だと、李氏朝鮮がハングル文字を創ったのと少し似ている」
他にも大小様々な展示が続いた。一貫して言える事は、凝っているというよりも、荒々しくて野生的である事だ。
しばらく歩くと、何やら出口のようなところが見えてきた。どうやら一周したらしく、順路の矢印が下の階を指していた。出口と書いていないので、下の階にも続いているようだ。僕たちは螺旋階段を降りていった。
階段に靴の音が反響する。
改めて思う事だが、将輝さんは元准教授だったのだ。解説が懇切丁寧で要点を捉えていて分かりやすかった。教えるのが上手かったというのは本当らしい。こんな先生がうちの学校の数学の先生なら、僕のテスト点も上がるというものだ。母さんにこんな弟さんが居たなんて、何故今まで知らなかったのだろう。というより、何故母さんは教えてくれなかったのだろう。今度、母さんに手紙でも書いて聞いてみようか。
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580~725年 繁栄の終焉と滅亡
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「この時期に入ってから、僕はあまり知らないんだ。なんせ、この時期の遺跡で発掘があった時、僕は大学に居なかったからね。まあ、発表された論文には目を通しているから、少しくらいは分かるけど」
つまり、ここからは2年前からの発掘調査で見つかった出土品たちが大半を占めている訳だ。
***
下の展示場には見たところ上ほど人は多くなく、大部分は小さなガラスケージの中に納められた小物だった。小物といっても、上とは打って変わって金細工の装飾品の割合が大多数を占めているように見える。全体的にこじんまりと纏まっていて、ジュエリーショップのような雰囲気だ。暗めの場内にスポットライトを浴びて黄金色に輝くそれらは、きらびやかだが、どこかけばけばしい。
「あの……あれはなんです?何だか装飾品にしては味気ないというか、綺麗じゃないというか」
ふと、ある展示が目に留まったので聞いてみた。細かく手の込んだ金品のなかで、その地味さがそれを逆に目立せている展示品があったからだ。所々に黒い塵みたいな物が混じっていて、形も崩れた円錐のような丸や、細い円柱のようなものだ。すると将輝さんは僕の示した方を向いて「ああ」と呟いた。
「良いものに興味を持ったね。それは、王族の遺体の胃腸に流し込まれた金の塊だ」
「金を遺体に流し込んでたんですか!?」
「そうだよ。遺体を起こして口を上に向けて開け、溶かした金を口から漏斗を通して胃腸に流し込むんだ。イマカディ王国では、金こそが死後の世界の肉体になると信じられていたこともあって、遺体を金で覆ったものがよく見つかっているよ。そのうち体内にも流し込むようになって、こんな風に肉体が朽ち果てて中の金だけ残ることが多くなったんだ」
にわかには信じがたい話だ。どろどろに溶けた金を口から流し込むだなんて。考えただけでぞっとする。
「でも、実際にやってみると上手くいかないんだよね。一度、豚の胃腸を使って実験してみた事があって、その時、熱すぎて粘膜が破れて金属が外に流れ出てしまったんだ。そこで考え出されたのが水を使った方法だった。水を消化器官の中一杯に満たして、それから金を流し込むと、水に冷やされた金は一気に冷えて固まる。水の方が密度が低いので金は水を押しのけて沈み、水は逆に口から噴き出す。水蒸気爆発を極力させないように、水はぬるま湯を使ったそうだよ」
「へ、へえ……」
そこまでして金を流し込みたいだなんて。もはやその域に達してくると、死者への冒涜になるのではないか?ただの拷問だ。酷(むご)い。(あ、でも死人に口なしだから拷問は違うかな)なんだかさっきの槍先の事もあって、僕はイマカディ人(?)に野蛮なイメージを持った。
「幸助くん。この程度で酷(むご)いとか野蛮だとか思っちゃいけないよ。中世のヨーロッパでは、そんな事を生きた人間にしていたんだから。死んだ人はまだマシさ。しかも自分から望んでしてるんだからね」
そう言うと将輝さんは次の展示に向かって歩き始める。彼の口元には、ずっと変わらずさっきの笑みが浮かんでいた。こういう事を話していても、嬉々として振る舞う彼の神経に、僕は思わず気が引けてしまった。
次の展示には何やら人だかりが出来ていた。この展示会場にいる人は、どうやらその展示に集まっていたから少なかったらしい。という事は、恐らくメインである"アレ"があるのだろう。
「さて、いよいよだよ幸助くん。ハブルハリ王の金のマスクだ」
将輝さんはそう言うと、足早に歩いていって人混みに分け入っていく。僕もすぐに追いかけた。
ざわざわとひしめき合う人だかりは、知らない匂いで溢れかえっている。濃過ぎるだろうというくらいにキツイ香水の匂いや、淡い清涼感のある匂い。ガラスケースに近づくだけでも一仕事だ。そんな僕を尻目に、将輝さんはするすると隙間を通り抜けていく。
そうだった。将輝さんの家は、これ以上にひどく散らかっていたのだった。どおりで慣れているように見える訳だ。いや、それだけではないか。
「すみませんお嬢さん。ちょっと通りますね」
「えっ?あ、ああ、いえ……」
将輝さんがニコリと女の人に声をかけると、その女の人は顔を赤くしておどおどした。いやあ、見ていて何ともいけすかない光景だろう。イケメンとは本当にズルいものよのう。
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『ハブルハリ王の金獅子マスク』
ハブルハリ王は生前に獅子を50頭狩った事から獅子王と呼ばれていた。そのためこのマスクは獅子を模して作られたとされる。イマカディ王国の最盛期の王で、彼の死後、王国は急激に国力を低下させていった。これ以降に金を使った副葬品は今現在見つかっていない。
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「この黒っぽいのが人差し指ですか」
「ああ、そうだよ」
将輝さんは即答する。
人の人差し指を獅子の鬣(たてがみ)に似せて並べるなど、あまり良い趣味とは思えない。密封された棺に入っていたせいか、腐敗が少なく、痩せ細って骨と皮だけになっているが、爪がまだ残っているので、それ自体が指だと薄っすら判るくらいに"ザ・指"だ。
「何だか少し気味が悪いです」
仰々しいというか厳(いか)めしいというか。金と人差し指の対比がその存在感を高めている。
「そうだね。でも、古代より人の人差し指は神聖なものとされてきたんだ。エジプトでは人差し指と中指を合わせた形をした石をミイラと一緒に棺に納めていた。これには黒曜石などの黒い石がよく使われていたんだけどね。
人差し指は人間が一番よく使う指であり、その動きは他のどの指よりも滑らかだ。よって、死後の世界でも王を助ける役割を果たす"御守り"の意味があると言われているよ」
「あの……でも、この指って誰の指なんですか?」
目の前にあるのが指である以上、必ず持ち主(保持者?)がいるはずだ。僕は恐るおそる聞いてみた。
「殉死者が生前に自ら切り落として献(ささ)げたんだ」
「殉死者ですか……」
王が死んだ時、その王に仕えていた家臣や女中たちが王とともに死んで死後の世界までお供するというあれか。
「あ、確か当時の文献で興味深(おもしろ)いものがあったな。殉死の際に、死にたくなかったある大臣が隣国まで逃げて、その国で磔刑になったって話」
将輝さんはクスクスと笑う。
「このハブルハリ王は発見された歴史書などによると、勇猛果敢な戦士であり、家臣からの信望も厚かったといわれている。国土が最大になったのもこの王の代だ。一方で、ビザンツ帝国では蛮族の長という意味の"ヘラロッテーナ"と呼ばれていた一面を持つ。彼のその戦い方が、まさにそれを象徴していた。馬を駆けて敵に突っ込んでいき、周りに集まった敵を、味方の兵が囲み殲滅する。ここまではよくある戦法だが、ここからが凄いところで、殺した敵の首を掴んで盾代わりにして進撃したらしいんだ。おぞましいね、相手を倒すためには味方の骸を切らなきゃならないなんて」
将輝さんは口元に含んだ楽しげな笑みを崩さない。
「しかし、彼は東方遠征中に謎の死を遂げる。その後遺体は急いで王都へ送られ、国葬をして手厚く埋葬された。この一連の出来事が早すぎる事から、暗殺ではないかとも考えられているけどね」
目の前にはスポットライトを当てられて黄金色に反射するマスクが置いてある。その周りには金のチェーンで繋がれた黒くなった指の数々。よく見れば、一本いっぽん長さや形が違う。見たくないがついつい見てしまうので、何かしらの不思議な力があるように思えてきた。
「そして、最大の謎がこのマスクに刻まれた言葉だ」
将輝さんはガラスケースの中にあるマスクの顎の部分を指した。
「よく見てごらんよ。そこに小さく文字が刻まれているだろう?『我は器なり、我は血潮なり、その器に湛えられた血潮の護るところに手をのばす者は、何人たりとも安らかには眠らせぬ』と書いてある。器が恐らく王の肉体を指して、血潮が魂を指していると言われているけど、真実は定かではない。自分の国に手を出す者は安らかに死なせない、という説もある。呪文だね」
墓には呪い系統のモノしかないのか。
「せやねんね……」
知らないおばさんが、口元を手で押さえながら展示品を見て呟いた。
「兄ちゃん、よう知っとるやないの。ここで配っとる音声ガイドより分かりやすいで」
今度はこれまた知らないおじさんが話しかけてきた。なんだか、フルーツのように華やかで、それでいてメンソールのようにすっと爽やかな香水の香りがする彼は、将輝さんの方を見てはにかんだ。
周りを見ると、いつの間にか将輝さんの周りには、将輝さんの解説を聴こうと多くの人が集まっていた。通りで将輝さんの示すところは人が多い訳だ。
ふとその時、人だかりの後ろの方から将輝さんを呼ぶ声がした気がした。見物客がざわついていて、あまりはっきりとは聞こえなかったが、うっすらと聞こえた。何やら変な発音だった。
「おおい、将輝!」
再度、今度は先ほどより近づいているようで、声が大きくなった。呼ばれた将輝さんはくるりと声がした方へ振り返り、そして目を細めて暗がりを睨んだ。
「私だよ!」
そう呼ぶ男性の声に覚えがあったらしく、将輝さんは「ああ!」と納得すると、人だかりを掻き分けていった。僕も急いで後を追う。
「お久しぶりですフィリップ博士。神戸に来てたんですね」
「ああ、まあ色々あってね。さっき君がここにいるって聞いたから、丁度探そうかと思ってたんだ。君こそ、大学では頑張ってるかい?」
さっき? 未紀さんにでもすれ違って聞いたのか。
「いやあ、それが。……クビになりまして……」
「Oh!何だって!?君を解雇するような大学があるのか!?」
わざとらしい。知っているのに、まるで今しがた知ったかのような口振りだ。将輝さんもわざとそれに乗っている。何かボロを出させようと誘いをかけているのだろうか。
「教授、ここは会場内ですし、声は控えめにして下さい。積もる話は外へ出てからで」
将輝さんは口元に人差し指を立てた。何となくその人差し指が、マスクに付いているミイラ化した指と重なって見えてしまう。少し背中に寒気が走った。
「He's rihgt Professor.Firip. ハイ、ジャパニーズ・クール・ガイ。元気にしてた?」
「やあ、メアリーじゃないか。僕は見ての通りさ。君こそ元気そうだね」
「まあまあってとこかしらね」
クリーム色のジャケットに淡いピンクのワイシャツを着た、深い彫りの背の高い小太りの男性と、革ジャンにアメリアショートヘアーの女の人が、将輝さんと何やら懇意に話している。いずれも外人で、所々変な発音だが、流暢に日本語を喋っている。
女の人の方は、北欧系と言うのだろうか。鼻が高くて瞳の色が深い青色をしている。肌も白い。身長は将輝さんと同じくらいか。
一方でフィリップ博士は、肌は白いが頬が赤らんでいて、口髭を綺麗に揃えてある。所々白くなった髪からすると、60代前半といったところか。博士は大袈裟なくらいニカニカと笑いながら、将輝さんの肩を叩き続けている。
「博士、ちょっと痛いです」
「おお、すまんすまん」
すまんと言いながら、また叩く。
「それじゃあ博士、一旦出ましょうか」
メアリーと呼ばれた女の人が、博士に言った。そう言えば、未紀さんが研究会とか何とかって言っていたな。通りで学者のような面々が男性の後ろで色々話し合っているのか。みんな見いるようにケージを覗き込んでいたり、指差したりして話し合っている。
僕は、彼らが僕をそっちのけで会場の外に出ていくのを人混みにまかれながら見ていた。将輝さんは博士と愛想よくニコニコと話しながらちらりと僕を見つけると、顎をくいっとして早く来るよう示した。
4
何とか人だかりを脱出出来た僕は、置いて行かれないように急いで会場の出口へ向かった。途中、黄金色に輝く数々の展示が目に入ったが、スルーするしかあるまい。
会場の出口では音声ガイドのヘッドフォンを回収する学芸員達が2、3人せっせと回収に勤(いそ)しんでいる。その横の階段の角(すみ)に、将輝さん達は集まって立ち話をしていた。時たま階段に響く彼らの笑い声は、少し近づき難さを醸し出しているので、僕は学芸員たちの横で邪魔にならないようにその光景を見守ることにした。
「……あの時は面白かったな。ヒルテミスの寝顔」
「ええ、本当に。枕元にアレを置いた時の反応は本当に」
将輝さんはくつくつと笑う。
「いやあ、本当に久しぶりだな。2年ぶりかい?」
「いいえ、マスクの発掘時以来なので4年ぶりになりますね」
「まあまあ、細かい事はいい。いやあ、本当に久しぶりだよ。君は少し老けたんじゃないか?」
「博士こそ少し太ったんじゃないですか?」
「幸せ太りさ。うちの嫁のせいだな」
博士は、はははと笑う。狸の信楽焼(しがらきやき)のようにぽっこりと出っ張ったお腹が、ジャケットを脇腹の方へ押し退けている。叩いたら小気味良い音がしそうだ。
「いやあ、本当に久しぶりだ」
将輝さんもはははと笑ったが、博士のその言葉を聞くと、急に表情を険しくした。
「博士。要件をどうぞ。聞きたい事があるんでしょう」
すると博士の表情も一変した。目を細めて将輝さんを睨んだ。だが、どこか嗤って見えるのは、頬がチークをさしたように紅いからだろう。
「解っていたか。なら話は早い。石板を譲ってくれ」
「何のためにです」
「決まってるだろう。我が大英博物館でマスクと一緒に展示するのさ。兄貴のエジプト趣味にはうんざりだ。あれが来れば、さらに客足が稼げる」
兄? 確か展覧会のパンフレットに顔写真が載っていたはず。取り出して見てみた。
あれ? なんか少し痩せてる……。あ、なるほど、兄弟か。今、目の前の居るのが弟の方だ。
「あれは僕が研究している出土品です。僕の仕事を奪(と)る気ですか」
「別に奪ろうとしているわけじゃないさ。君もイギリスに来れば、それで万事解決だろう?上とも話をつけてある。どうだね、解雇されたんだろ?もう一度大学には戻りたくないか?」
「どういうことです」
「君の功績はもっと称えられて広く知られるべきだ。教授のポストだよ。君がイギリスに来るならば、大学の考古学教授にしてやれるんだ。おいしい話じゃないか。矢永田の奴よりも、君の方が教授に相応しい。もう一度、現場に戻らないか。もちろん、君から買い取るという方法もある。それ相応の値段でね」
沈黙。
「不服か?それなら、両方とも付けよう。教授のポストと、金と。これならどうだ?」
将輝さんはしばらく博士を冷ややかな目で見つめた後、短く溜息を吐いた。
「何かと思えば、そんな話でしたか。生憎(あいにく)ですが、僕は海外に移る気は無いですよ。ましてや教授になるなんてのは、横暴が過ぎますしね。確かに研究資金が不足していて満足に研究できませんが、それでも古(いにしえ)の人々が遺した遺品(レリック)を客寄せパンダのように扱う人の手で大学に戻るのは、大いに気が引けますよ」
「…………」
博士の眉がピクリと動く。
「将輝、渡したくない理由でもあるの?ここは素直に申し入れを受けるのが賢明だわ」
メアリーさんが問うた。
「メアリー。僕はね……まあいいさ。とにかく、僕が責任を持って管理する」
「君はもっと頭のいいやつだと思っていたが、どうやら私が買い被りすぎていたようだ」
「すみませんね、博士の思っているような人間ではなくて」
将輝さんは肩をすくめてみせた。
「君は──本当に変わったな」
博士は険しい表情のまま、続けた。
「私は石板を諦める気はない。今回のこと、君の今後に差し支えなければ良いな」
恫喝。
「ご心配には及びませんよ。ご配慮には感謝します。では」
将輝さんはそう言うと、きりっとした、博士を睨んでいた目をそのまま僕に向けて「行こう」と短く言った。何だか心臓が止まりそうになるくらい、このときの将輝さんの表情は怖かった。
気付かれていた事に驚きつつも、僕は博士たちに軽く会釈して、駆け足で階段を降りていく将輝さんの元へ行く。博士はそんな僕を一瞥すると、階段を降りかけていた将輝さんに言った。
「可愛い助手だね」
すると、将輝さんはにこりと微笑み博士に向けて言った。
「僕の助手ですから」
***
階段を降りている間、将輝さんは何の感情も表に現さず、無表情だった。強いて言うならば、眉間が少しばかり狭まっている。そんな将輝さんが僕は怖かったのか、僕は彼との距離を一歩離して歩いた。
「そんなに怖い顔してるかい?僕は」
唐突にそう言った将輝さんは、やはり無表情を崩さない。
「その……博士のお誘い、蹴って良かったんですか」
「実は今になって後悔してるよ」
「だったら!」
「なんてのは嘘」
将輝さんが悪戯っぽく笑った。思わずずっこけたくなる。
「別にいいさ。僕が教授になったところで、ついてくる人は居ないだろうし」
何だか含みのある言い回しだ。
「それに、矢永田先生を過小評価するような人の手を借りても、先は見えている」
将輝さんの、自分への過小評価の方がよっぽど甚だしいと思うが。
「何はともあれ、だ。博士が犯人である説は、ひとまず保留だ」
「そうですね。今の話からすると、フィリップ博士が盗んだとは思えません」
石板を渡せ、と言っていたわけだから、まだ手元に無いと考えるのが良いだろう。しかも、欲しい目的が展示だというから、財宝目当てでも無さそうだ。
「そう。だけど、演技である可能性も否めない。それから、少し気になる事がある。だから保留」
んん。
「ん? 気になる事って──聞いてない……」
将輝さんは僕の声が聞こえなかったみたいで、辺りに溢れる客たちの喧騒も気にする気配がない。また、何か考えているような、先程の無表情な顔に戻っていた。
それにしても、途中から将輝さんらしからぬ随分と威嚇的な態度で話していた。家で言っていた将輝さんが骨董商の人が嫌いな理由が少し解った気がする。古人が残した遺物を大切にする将輝さんにとって、それを金銭目的で取引する彼らは好きになれない。
もう一つの理由は恐らくだが、将輝さんは矢永田教授を誹謗された事だろう。
僕としては将輝さんが博士の申し出を断ってくれて嬉しい。もしかしたら僕は、将輝さんはきっと断るだろうというある種の期待をしていたから、嬉しかったのかもしれない。イギリスに行ってしまうのは何だか寂しいし、居候先の叔父さんがすぐに居なくなるのは、僕の今後5ヶ月の生存に関わる(そんなにすぐ出発するとは思わないが)。結果として、僕としてもこの方が良かったように思う。
沈黙。
また気まずい雰囲気に戻ってしまった。将輝さんの後ろを歩きながら、流れで見損なってしまった展示品の事を考えていると、ふと、将輝さんとの距離がまた開いてしまっていた。
全く、少しは後ろを気にしてみてはどうですかね。
階段を降りてからは、まっすぐ行ってあの大きなピロティに出た。相変わらずの人だかりは、心なしかさっきより少なくなっているように見える。手首をくるりと返すと、時計の針は14時を15分過ぎていた。すっかり昼を過ぎている。そう言えば何だかお腹が鳴るなあと思っていたのだ。昼がまだであった。
「どこに行くんだい?幸助くん」
将輝さんに呼び止められて顔を上げると、将輝さんが目の前に居ない。辺りを見回すと、なるほど、そうであった。将輝さんは地下駐車場に車を停めていたのだったな。間違って出入口から出るところだった。彼はピロティ横のあの赤い結界をぐるりと回って向こう側に居た。
「すみません。ちょっとぼうっとしてました」
「しっかりしてくれよ」
将輝さんは尻上がりにそう言うと、やれやれと首を振り、僕が結界をまたぐのを見て、また歩き始めた。僕は急いで追いつく。
「そう言えば将輝さん、お腹空いてません?」
「それは君の事なんじゃないかい?」
「バレてましたか」
「それはもうはっきりと顔に書いてある」
その時、僕のお腹が鳴った。
「どうやら腹の虫も呼んでるみたいだね。じゃあ、昼ご飯食べに行こうか」
待ってました。僕は満面の笑みで「はい!」と応えた。
5
僕たちは昼ごはんを食べ終わると、車を走らせて家に帰った。博物館を出てから少し気が滅入っているようだった将輝さんも、昼を食べてからは気を取り直したらしく、いつもの(?)ユーモラスな彼に戻っていた。大学に呼び出されているのだから焦っていても良いはずなのに、そのような様子がなかったのが少し不思議だったが、まあ気にしないでおこう(もしかしたら忘れていたのかも知れない)。
相変わらず狭いminiの車内で展覧会の話の続きを聞かせてもらいながら走っていると、あっという間に家の近くにある大学病院前だった。
路地に入ってすぐに、あの異質な建物が目に飛び込んでくる。将輝さんは座席の隙間から後ろを見ながら、するりと車庫へ車を駐めると、そろりと車を降りた。何をするにも、彼の動きは速いので、ついていくのは難しい。
車を降りた将輝さんは、玄関に向かった。その時に、丁度如月さんが帰ってきていた。
「おおい、サッちゃん。忘れもんか?」
「おう、着替えを取りに来たんをすっかり忘れとってな。そいで」
如月さんは家の前にあるポストの中身を確認すると、ガサガサと沢山の封筒の束を取り出した。初めて来た時から気になっていたが、こんなところにも抜かりなくメルヘンチックな白いポストを置いている彼の趣味にはこだわりを感じるものだ。
「三鹿島、ポストの中身は定期的に取らんかいや。パンパンやないか」
「いつも車庫に直行するから、見てへんかったわ」
将輝さんは笑って誤魔化す。如月さんはそれを見ると、眉間に皺を寄せた。
彼は封筒を一枚いちまい裏返したりして宛名を確認していく。十数通くらいはありそうだ。
「で、どないやったん?先生の件は」
将輝さんはにわかに笑みを崩してそう聞くと、如月さんは手紙類を選別していた手を止めた。
「んん、判らんなあ。何の足も掴めへん。大学でも聞いて回っとるけど、みんな知らんの一点張りや」
将輝さんは、はあと短く溜息を吐いた。
「そうか……地道やけど、他の奴にも一人ずつ聞いて回らなあかんか」
面倒ではあるが、それが今は最善の策だろう。
「そっちは?」
「フィリップ博士とばったり鉢合わせた」
「そうなんか。で、どないやったん? 犯人そうか?」
さらりと聞いてくる。断定はできへん、と将輝さんは答えて、事の次第を話した。
「なるほどなぁ。でもまあ、あと三人居るし、全員にあたってみてから見定めても遅くはないと思う。残りの二人と、フィリップ博士含めて、今は国外に出られる状況やないから」
「なんで判るんですか?」
「せや」
「いやな、来週末にむっちゃデッカイ学会があるんやけど、そこで重大発表がある、みたいな話を風の噂で聴いてん。重大発表をするようなら準備をせんといけん。俺んとこのチームも出るから解んねんけど、めちゃ忙しいんや。海外に出るどころか、市内すら出られへんと思う」
「なるほど。ってことは、学会中の滞在はあそこか」
「ああ。俺も家近いけど、そっちの方が仕事が楽やから、今日からはあっちやな」
「せやけど、誰が重大発表する言うとったんや」
そうだ。重大発表すると言うことは、研究に何か大きな進展があったということで間違いない。それを周りに言いふらすほど自信がある内容なのだから、よほどの発見でもあったのだろう。
誰が重大発表するかによって、誰が盗んだか絞り込める。この三人の共通点は、皆イマカディ王国の研究に1枚噛んでいる事だ。もし、重大発表するのであれば、碑板が絡んでいる可能性が大きい。そうなると、重大発表する人が一番怪しい。しかし、
「確か、全員や」
「全員ですか?」
「三人とも?」
「ああ、矢永田先生以外は全員そんな感じやったっていうで」
フィリップ博士、栖槌さん、狩谷さんの三人全員が、重大発表するというのか? これでは誰が盗んだのか解らないではないか。
だがふと見た将輝さんは、じんわりと口角を引き上げて笑っているように見えた。
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