三鹿島さんと石の欠片
1
春は朝がまだ寒くて起きづらいが、昼を過ぎた頃になると、程よく良い気温になる。つまりは、眠気に負けやすくなるということだ。空は快晴だが、どこまでも透き通っているわけではなく、少し白んで灰色がかっている。僕は"将輝さん友人邸"(勝手に名付けてみた)の内庭に面した縁側で、ゴロンと横になり、近くのコンビニで買ってきた雑誌をペラペラと斜め読みしていた。
欠伸をひとつ吐く。植えてある名前の判らないが、何となくファンタジー映画に出てきそうな植物の茂みから、小人の人形がこちらを覗いている。実に穏やかで平和だ。パソコンをタイプするカタカタという音が無ければ、もっと静かなのに。
その緩急豊かなタイプの音は、リズミカルに続くように見せかけて、急に止まる。その間に睡魔がやって来るが、それは束の間の事であって、やがてまた遠くからカタカタと小刻みに音を立て始める。おちおち寝られもしない。
「将輝さん、その作業はいつ頃終わるんですか?」
僕は欠伸をもう一つしながら、居間の中央のローテーブルにパソコンを置き、床にあぐらをかいて何かを猛烈な速さで打ち込んでいる将輝さんに問うた。
「んん。あと5000字書いたくらいが丁度いい切れ目だから、あと20分くらいかなぁ」
彼は画面とテーブルに山積みになった書物と睨み合いながら応えた。あと20分か。
叔父である三鹿島 将輝さんの元に来て1週間が過ぎようとしている。 あの朝食の後、 何処に連れていくわけでもなく、そのまま家に戻った将輝さんは、僕を機雷原に置くと、手持ちの鞄を持ってさっさと家を後にした。
用事があったようだが、彼が家に帰ってきたのは夜の8時頃だった。行きには無かった大量の紙の束が詰まった鞄と紙袋を持っていた。そのあと、彼はすぐ自室に籠ってしまった。部屋の明かりは朝まで点いていた。(後で知ったが、彼はとある大学の非常勤講師と、二つの予備校の講師もしているらしい)
あれから6日が過ぎた。ここまで見たところ、彼は非常に不規則な生活をしている。朝起きる、二度寝する。講師の仕事がある日は午後の2時くらいに家を出て、5時くらいに帰ってくる。仕事が無い日は、家で今日のように何かを打ち込んだり、史料を読んだり。これではニートのようなものだ。
春休みも間もなく終わる。麗(うら)らかな春の日差しを浴びて、少し憂鬱な気分で雑誌を閉じた僕は、そのまま雑誌を枕に、今度こそ寝ようと目を瞑った。しかし、
「終わった~」
将輝さんが伸びをしながら唐突に叫んだ。血管がぷつりと切れるような感覚を覚える。
「いやあ、すまないね」
全くだ。その作業は自室のあの倉庫で出来ないのか?いや、待てよ。また心を読まれたか。判っているのだったら、最初からしないでもらいたいものだ。
「寝られなかったですよ、全く」
「でも、中途半端に眠いよりは良いんじゃないかい? 現に今はもう眠くないだろう?」
「……」
言い返す言葉が無い。将輝さんはニコニコと上々な気分に見えて、無性に腹が立つ。
「ちょうどいい、前回の話の続きをしようと思うんだ。ちょっと二階に来てくれ」
前回の続きとは、あの蘊蓄(ウンチク)の事か。嫌いではないが、将輝さんの熱弁ぶりが予想されて少し怖い。だが、まあ眠気も吹き飛んだし、することも無いし。教養を豊かにしてやろうではないか。
「良いですよ」
将輝さんはノートパソコンをパタリと閉じると、それを持って階段に向かってひょいひょいと居間を渡り始めた。
***
将輝さんの部屋の鍵はやはり数が多い。ポケットからじゃらりと取り出される鍵束には、ゆうに10本を超える鍵がぶら下がっている。一体何処にそんなに多くの鍵穴があるのやら。
部屋の前で鍵を繰って、目当ての鍵を見つけると、差し込む。少し力を入れて無理矢理押し込むのがコツのようだ。立て付けが悪いらしい。
「さあ、どうぞ」
ドアが開くと、あのもやっとした空気が顔を舐めるように当たる。室内は相変わらず空気が悪い。
将輝さんは電気を点けると、部屋の奥にあるデスクの裏に回り、紐を引いて黒いブラインドをしゃっと上げた。太陽光が燦々と室内に入ってくる。将輝さんのデスクの天板に反射して、天井に光が映り込んだ。
僕は目を細める。なんとなく吸血鬼の気持ちが解ったような気がした。
将輝さんはケースから眼鏡を出して掛けると、意外にも静かに話を始めた。
「これが、君のお母さんから貰ったお土産だ」
彼は長机に置いてある先日僕が持ってきた木箱にポンと軽く手を乗せた。
「それがどうしたんですか? もしかして不良品だった、とか、どこか欠けた、とかじゃ……」
あれをここへ持ってくるまでの経緯を考えると、充分有り得る事だ。
「それはないけど、これが何か、判るかい?」
「石の欠片?」
「ちょっと違うね」
「何かの化石」
「遠ざかった」
「火山弾」
「よく思いついたね。でも違うな」
「じゃ、遺跡の一部」
「まあ正解」
当てずっぽだったが正解だったのか。まあ広義だから当てはまるといえば多くに当てはまる答えだったのだけれど。
将輝さんはニコリと優しく微笑んだ。
「これね、僕の研究の重要な出土品の石板の一部なんだよ」
「石板……ですか」
なんだか考古学らしい話になってきた。
「そう。イマカディ王国っていう国が1500年前にあって、まあ世間一般からしたらマイナーな国なんだけど、そこの遺構から発掘されたモノなんだ」
今日の将輝さんは、どうやら落ち着いているな。これなら面白い話が聞けそうだ──。
「これを一目見たときは、もう! 素晴らしいとしか言い様がなかったよ! 僕が4年間世界中を捜して回ったモノの最後の欠片が、今、目の前に鎮座ましましているんだ。これが跳び上がらずにいられるか!」
そうでも無かったらしい。
輝やくような満面の笑みだ。後ろの太陽光のせいで、余計に輝いて見える。
「そうだったんですか、それは良かったで──」
「ああ。とても良かった!」
「はあ……」
「それでね、こいつが、最後のピースが碑板に嵌まる歴史的な瞬間を君に是非見せたくてね。勿体振ってたら暇な日が無くて、一週間過ぎてしまった」
それはまた殊勝なことで。
「今から嵌めるから、ちょっとだけ待って──」
「おい、こら将輝!何しとんや!?」
突然僕の後ろの扉から男の人の大きな怒鳴り声がした。
「まずいな……」
すると将輝さんは、急に真剣な表情になった。彼は慌てて僕に部屋から出ないよう言うと、急いで部屋の外に出ていった。
急かすように背中を押されて部屋に閉じこめられた僕は、古いもの囲まれてポツンと急にひとりになった。
沈黙。
周りが異質なのに、自分の存在が、本当は自分こそが正しいはずなのに、なんだか異質のように感じる疎外感。やはりこの部屋はあまり好きになれない。空気も悪いし。
しかしそれにしても、先ほどは大きな声がしたものだ。突然聞こえたかと思うと、将輝さんが血相を変えて慌てふためくとは。一体、誰だろうか。もしかして、借金取りだったりして。
出て確かめようとは思ったが、出るなと言われていては仕方ない。まあ、ここから早く出たいと言うのもあるのだが。
気になるが放っておこう。僕は頭の隅に考えを追いやった。
しかし、部屋の壁は案外薄いようで、僕は部屋から出ずとも外の状況をほとんど把握することが出来た。彼曰く、出なければ良いのだから、別に聞き耳をたてるのは悪くないはずだ。
その時に聞こえてきたのは大体次のような事だ。
ドタバタと将輝さんが階段の駆け降りて行く音がして、そのときに階段に積まれていた書物を蹴り飛ばしたらしく、紙が散る音がした。下の階からはその音を聞くと、さらに大きな声で彼を罵倒する声がした。よほど怒られているらしい。時々彼が謝るような声もしたが、火に油を注ぐように、彼が声を発する度、その声は大きくなっていった。
しばらくしたある時にその声は収まったが、今度は将輝さんの慌てる声がし始めた。その声は階段を進んでいるようで、だんだんと近くなってくる。ここでまた書物を蹴り飛ばしたらしく、紙が散る音が2回目。今度のは先ほどよりもひどかった。
しかし彼の必死の抵抗もむなしく、ついにその声は部屋の前まで来た。
「頼む。ここは駄目や!」
「何を言うとんや。あんたが女を連れ込むとは思っとらんかったが、まさかホンマに連れてきたんか」
「違う!それはない。あれは僕の荷物や」
先程とはうって変わって、彼は流暢な関西弁を話している。
「せやったらこの部屋見してもろうてもええんとちゃうか?かんねんせい!」
その声が聞こえた瞬間、ばっと扉が開かれた。扉にもたれ掛かって聞いていた僕は、そのまま前に倒れ込む。しかし、僕は咄嗟に目の前にあったものにしがみついて倒れずに済んだのだが、それが物ではなく人であることに気づくまでそんなに時間はかからなかった。
僕は恐る恐るその人を見上げると、その男の人は、眉間にシワを寄せて僕を睨んだ。
「すみません!」
僕はすぐさま離れる。すると彼は
「この子は?」
と言い将輝さんに向いた。将輝さんは「はあ」と大きく溜め息をつくと、諦めたように肩を落として、とぼとぼと事の次第を話し始めた。
2
「なるほど、そういうことか」
男の人はそう言うと腕を組んで考え込んだ。
沈黙。
将輝さんは、どうやら僕の事を隠しておくつもりだったらしい。だが、僕が着替え諸々(もろもろ)を容れているカバンを下に置いていたのを見て、女を連れ込んでいると勘違いされ、将輝さんは今しがた説教されたばかりである。
先ほどの説教の話の流れからして、どうやら彼が将輝さんの言っていたこの家の主のようだ。髪は短く、身長は将輝さんよりは低い。半袖ポロシャツから見える前腕は日に焼けていて少し筋肉がついている。どちらかと言うと将輝さんよりも彼の方がフィールダーっぽさがある気がする。そして、将輝さんの怯えかたからも、彼がいかに怖いかが分かる。彼が説教をしている間、将輝さんは床に正座して俯いていた。あの高さの人がこうもこじんまりとまとまるとは……。僕は心の中で苦笑していた。
しかしその沈黙は、まもなくその男の人によって破られた。
「幸助くん、やったかな」
「はい」
「君は家事は出来るん?」
「一応独り暮らしみたいなものですから、大抵のことはなんとか……」
「そうかそうか」
そう言うと、彼は僕と将輝さんを交互に一瞥してニヤッと笑った。
「よし、決めた。幸助くん、ここに住んでもええよ」
先ほどの態度とはうって変わって、彼は揚々と言った。
「本当ですか!?」
「ああ。せやけど、その代わりにひとつ条件がある」
ほっとしたのも束の間。彼の言葉に僕は唾を呑んだ。
「こいつの代わりにこの家を掃除してくれることが条件や」
へっ?心の中でそう呟いた。家賃を払え、とか、仕事を手伝え、とかではなく
「家の掃除ですか?」
「ああ、せや。見ての通りこいつに任せとったら1ヶ月でこの様や。せやからこいつが家を借りたいって言うてきたときはごっつい渋ったんやで。大学でもこいつの部屋は散らかってたので有名やったからな。それやのに性懲りもなくまた散らかしよって!」
彼は将輝さんに怒鳴った。彼は俯きながらびくつく。しかし、かろうじて笑みを含み上目遣いでこう言った。
「まあまあ、そう怒らんと。また仕事は手伝ったるから」
そう聞くと男の人は鼻を鳴らして
「当然や」
と言い胸を張った。
それからと言うもの、将輝さんと彼の間では僕の知らない話が進んでいった。測定器がどうとか、メジャーがどうとか。そこから話が転じて大学に顔を出せやら、生徒が待っているやら。僕はその横でただ佇み、傍聴するしかなかった。またもやデジャヴのような疎外感を感じざるを得なかった。
***
しばらくしたが彼らの話はまだ続いていた。いつの間にか床に正座していた将輝さんは立ち上がり、またあの高い背を伸ばして男の人と熱っぽく喋っている。その男の人も、先ほどの剣幕も消え、将輝さんと世間話(?)らしき話をしている。
なぜ僕が前述で世間話かどうか迷ったかだが、それは彼らが世間一般の人がするような世間話ではなく、"彼らにとっての世間話"をしているように見えたからだ。おそらく考古学に関する事なのだろうが、"私たち"庶民にはさっぱり分からない、もとい、到底分かるはずもない、分かろうともしない事をマシンガンのように連発し続けていた。そもそもに僕自身、聞く気にもなれなかったのだから、話の内容が分かるはずもないのだが。
しかし、さすがに僕も我慢強いと自負しているとは言え、目の前で繰り広げられる講演会には嫌気がさしてきた。ちらっと見た腕時計では、既に30分くらいが経過している。(頃合いを見計らって止めよう……)
「……なんよね。あ、そうそう、それとな」
「あの!」
僕の声に2人はさっと振り向く。すると将輝さんは
「ああ、ごめんごめん。つい話が弾んじゃって……」
と言い頭を掻いた。
なんとか流れは止める事が出来た。将輝さんは、考古学の事になると人がガラッと変わる。
僕はひと呼吸おいて先ほどから疑問に思っていた事を続けた。
「さっきから気になっていたんですが、この方はどなたですか?」
すると男の人は眉をあげて少し驚いた様子を見せ、将輝さんの方を向いた。
「三鹿島、言うてなかったんか?」
「いやね、来たばっかやったし。て言うか、今回初めて?会(お)うたし」
その言葉に男の人は今度は目を開く。
「お前、叔父にあたるんよな?なんで顔知らんねん」
「言うたやんか。僕は異母姉弟やて」
「ああ……せやったか?」
「何を今更。父さんが再婚してるって言うたやんか」
異母姉弟?僕はその言葉に引っかかる。が、ようやく先ほどの事を納得出来た。要するに、彼は祖父ちゃんの再婚相手との子だったということか。なるほど。そうであれば合点がいく。最初に会った時から不思議に思っていたのだ。どうして母さんとこんなにも歳が離れているのか。
「僕も母に弟がいたなんて知りませんでした」
「そうだろうともさ。姉さんは身内の事を話したがらない」
彼はそう言うと処置なしと言う風に肩をすくめてみせたが、気づいたように人差し指を口元に立てた。大人なんだか子供なんだか。やはりこの人はどこか謎な、いや、不思議な部分がある。僕は彼の横顔を少しの間見つめていた。
「あ、そうそう。彼の事だったね。こいつはうちの大学の友達で、まあ今は考古学講座の准教授なんだ。准教授のくせに親が大手企業の会長でね、金銭面では苦労が無いのさ」
なるほど、それでこの豪邸か。しかし彼の発言に男の人は眉をしかめる。
「そう怒らんと、これでも褒めてるんやで?」
将輝さんは笑って見せる。
「大学では教えるのがうまいので有名で、今の堅物教授よりも上手いんだよ。まあ怖いのでも有名か……。でもね、この人ね、顔はこんなのでしょ?彼の名前、想像できる?」
彼は横目でちらっと男の人を見ると、ニヤッと笑った。男の人は、俯いて頬を赤らめている。
「ねえ、如月 佐津樹(きさらぎ さつき)ちゃん!」
「こいつ!言いよったな!?」
男の人は将輝さんに襲いかかる。しかし、将輝さんはそれをひょいっとかわして上々な気分だ。
きさらぎ さつき?改めて頭の中で唱えてみる。さつき。きさらぎ。5月と2月?まさか、足して7月とか言う語呂合わせだったりして……。僕は思わず吹き出した。
「なに笑(わろ)うとんねん」
如月さんの鋭い視線が僕へ飛ぶ。
「すいません……」
「別にええ。もう慣れたわ。……せやけどな、お前に言われるんだけは、どうも気の食わん!」
如月さんはまた襲いかかったのだが、頭を抑えられて前に進めない様子。完全に将輝さんに遊ばれている。しかし、さすがに諦めたようで、将輝さんから離れると「ふん!」と荒く鼻を鳴らして襟をただした。
「お前も変わらんな。まあ面(かお)見に帰ったきたけど、この分やったらまだくたばらへんわ。いつかくたばるときは、うちの外でくたばってくれや。後始末が大変やから」
「ああ。少なくともまだくたばる予定は無いがな」
自然と二人の間に笑いが起こった。何だかんだで仲が良いじゃないか。僕は心の中でどこか落ち着くような気持ちになった。
「せやけど、お前も勿体なあなぁ。やりたいこと、ようけあるんやろ?こんなところで遊んどらんと、もっと世界を歩くべきや」
「言うてくれるんは有難いけど、僕は今のままでええかなぁって思うとる」
「何言うとんや?あんたみたいな奴が、これからの考古学界を引っ張ってかなあかんのやろが」
「まあまあ、そう焦らんと。ぼちぼち論文も書いていくし」
「……」
如月さんは目線を落とし、黙り込んでしまった。僕はいきなり重くなった話に戸惑いを覚える。
ーー沈黙。
「せや!幸助くんが持ってきてくれた姉さんからの贈り物があるんやけど、それがな、ごっつい凄い物やねん。今日全部を組み立てる予定やってん。あれがやっと完成する!」
将輝さんは空気を変えようと、明るい口調でそう言った。
だが、この発言が如月さんに意外にも大きな衝撃を与えたらしく、如月さんは興奮気味に「ホンマか!?」と間もなく口を開いた。
「ああ。凄いんやで。イマカディ王朝の碑板の欠片がついに揃ったんよ!あれで恐らく全文が解読できるやろう」
ああ。おそらくまた始まるのだろう。僕は少し心の準備をする。だが、
「そりゃあ凄いなあ。にしてもあんたの姉さん、ようそないなもん手に入れられたな」
「そこが怖いとこなんよ。たまにひょっこり来たかと思うと、いきなり宝の地図なんか持ってきた事もあるし」
「そんな事があったんですか!?」
僕は傍観を決め込むつもりが、将輝さんの言葉に思わず聞き返した。(母さん。そんなもの一体どこで手に入れたんだ……)
「そうだよ。2年くらい前だったかな?僕がまだ准教授だった時の話さ」
改めて聞かされても信じにくい事だ。白い長袖の襟なしシャツに、茶色いカーゴパンツ。そして、あの来客用スリッパ。また目で見回してみる。
僕がそうすると、如月さんは堪えきれなかったようで、どっと吹き出した。
将輝は横目で如月さんを不機嫌そうに眉を寄せて睨んだ。
「いやあ、すまんすまん。あまりにも想定内の反応やったから」
そう言いながらも、まだ如月さんは笑っている。
だが、僕はここで前々から引っかかっていた事を感じた。2年前は准教授だったと言う事は、今は違うということで、
ならば、なぜ今は違うのだろうか。
「前の教授が引退した時に今の堅物教授様が大学側に告げ口かなんかしたらしくてね、お陰様でクビになったのさ。かろうじて今は別の大学の考古学講座の非常勤講師とかができているけどね」
彼はそう言うと肩をすくめてみせた。僕はドキッとさせられる。(またタイミング良く言われた)
しかし、彼はその事を笑い話のように語ったが、本当のところはかなりショックだったのではないだろうか?今までの言動から見ても、彼の考古学への執心ぶりは相当なものだし、弱冠にして准教授の座につけたのだけでも凄い事だと思う。なのに他人の私利私欲のために蹴落とされたのだから、相当恨みもあるだろう。
「だけど、僕は誰も恨んでないよ。恨む資格がない。確かに今の川口教授は僕を目障りだと思ってただろうね。それで僕を大学から追い出した。でもね、僕はそれでも良かったんだ。仮に僕が昇進して教授になったところで、僕は矢永田(やながた)先生には到底及ばなかっただろうさ」
僕は彼の言葉に、突如心が揺り動かされるような、胸迫るものを感じた。貫禄があると言うか、どこか敵わないと思ってしまう何か。将輝さんを見直してしまう。
「お前がそう言うなら──」気のせいか如月さんがそんな風な事を言った気がした。
「ん?なんか言うたか?」
「いや、なんも言うとらんよ」
3
彼らはいままでの話に区切りをつけたようで、先ほど言っていたイマカディ王朝の碑板を見に、和気あいあいと将輝さんの部屋に入っていった。彼らが入っていく後ろ姿をぼうっと感傷的な気持ちで見つめていた僕も「来たまえ」と言う将輝さんの言葉にはっとして、後を追った。
先ほどよりはましになったものの、相変わらずまだ息苦しさが残っている。
部屋に入ると、興奮した将輝さんが手招いた。
「幸助くん君も来てみなよ。碑板が完成するところを一緒に見ようじゃないか」
「はい……」
彼はそう言うと、奥のデスクに向かい、ポケットから鍵束を取りだした。そしてその中から鍵を一本つまみ出すと、引き出しに向かって差し込む。しかし、入らないとみて強引にまた押し込み、捻った。
それから彼は、そうっと引き出しを引いて、大きなトレーのようなものをそこから抜き、デスクの上に置く。
彼が置いたのを見ると、僕と如月さんは寄って行ってトレーを覗き込んだ。
少し角のある石っころがトレーの中いっぱいいっぱいに並べられている。博物館に置いてあるような石板ではなく、所々欠けたり、角がとれて丸くなった、はたから見れば本当にただの石っころにしか見えない石。
しかし、如月さんはとなりで「おお」と感嘆の声をもらす。
「ずいぶんと揃っとってんなあ」
「せやろ?」
「あの……。これのどこが碑板なんですか?」
僕は悪いとは思ったが、素直にそう言った。気を悪くしただろうか。
しかし、将輝さんは、はははと笑い、言う。
「パーツが揃うまでくっつける訳にはいかないからね。そう見えてもおかしくはないよ。まあ一通り並べてはいるけど」
将輝さんはデスクが揺れないよう、慎重に引き出しをなおす。
「佐っちゃん。すまんけど、そこの木箱取ってくれへんか」
「佐っちゃん言うな!」
如月さんは嫌そうに将輝さんに抗議したが、先ほどのように突っかかる訳にもいかず、不服そうに長机に置いてある僕が持ってきた木箱を、デスクの上にそっと置いた。
将輝さんはその間に白い手袋をはめると、木箱の蓋を開け、2つの石っころを取り出してトレーの中にある空いた部分に、そっとはめた。
はめ終わるとみると、3人ともトレーを覗き込む。
若干欠けていたりするところがあって、ザ・石板!という感じではないが、何となくそれっぽい物になったとは思う。僕にはこれで完成なのかどうか分からなかったが、多分これで完成なのだろう。案外呆気ないというか、普通だったことに、僕は不完全燃焼のような気持ちになった。
しかし、辺りは異様な空気に包まれる。
静かなのだ。
僕が変に思って見回すと、二人とも何の反応もせず、それどころか如月さんは顔をしかめて。将輝さんは眉を上げて、黙り込んでいた。普通であれば、「おお!」とか「出来た!」とか、何か口走るところが、何の反応も無い。
今までとは違う、異様な沈黙。
「あの。完成したんですよね……。なぜ喜ばないんですか?」
僕はその異様さに、ただならぬ空気を感じてそう聞いたが、誰の返事も返ってこない。
ーー沈黙。
しかし、しばらくして「うーん」と唸り将輝さんが口を開いた。
「幸助くん。姉さんからのお土産はこれだけかい?」
「はい、郵便と一緒に届いたのはこれだけです」
将輝さんはそう聞くと腕を組んでカーテンとブラインドが上げられた窓に向き、考え込んだ。その横で如月さんはトレーを縦から見たり横から見たりして脾板を観察したが、将輝さんと同様に後ろで手を組んで狭い部屋を行ったり来たりし始めた。
デスクの前で佇み、またもや感じる疎外感。僕もいい加減それには慣れてくる頃だった。 だが、
「あの……。どうしたんですか?何かあったんですか?」
僕は2人に交互に問いかけた。今までの沈黙はなんとか咀嚼して消化できたが、先ほどの沈黙は今までとはまるで違っていたのだ。そんな異様な沈黙に僕は耐えられなかった。
「幸助くん。この碑板をよく見てごらんよ。一ヶ所だけ欠けている部分が見えないかい?」
僕はそう言われると、改めてトレーを覗き込む。
所々欠けた石っころが所狭しと並べられていて、角が取れたりして丸くなったのもちらほらと……。「あっ!?」僕は咄嗟に声をあげた。僕が将輝さんを見上げると、彼は僕にゆっくりと頷いて
「そう。肝心な真ん中の部分が欠けているんだよ」
と言った。
4
しかし何故だ?将輝さんは完成すると喜んでいたのに。見間違えたのか?いや、彼に限ってそれは無いだろう。ならば、なぜ欠けていることに気付かなかったんだ?
僕は眉間に皺を寄せて考え込んでいる将輝さんを一瞥すると、トレーの方に目を移した。そこで突拍子もないことを思い付く。
「これの亡霊でも出てきて、持って行ったんですかね」
すると、将輝さんは何かに気付いたらしく、さっと顔を上げた。
「サっちゃん。僕、前に何度か家を空けたことあったよな」
行ったり来たりしていた如月さんは、一瞬不機嫌そうな顔をしたが、そう聞くと立ち止まった。
「確か、俺が家におった日もあったはずや」
将輝さんは続ける。
「その時、誰か訪ねて来んかった?」
如月さんはその言葉に思い当たる節があったらしく
「確か、狩谷が来た事もあったし、栖槌とかフィリップさんとか、矢永田先生が来た事もあったと思う」
と言い、はっとした。
「お前、まさか……」
「矢永田先生はこのデスクの前の持ち主やったから、合鍵を持っとる筈や」
将輝さんがそう言うとその場は一瞬にして凍りついた。
「いや、ありえへんやろ。そもそも動機が無い」
と如月さんは慌てたが、将輝さんは
「やけど、他の理由が思い当たらん」
と言い机に両手を突いて、トレーの中を睨んだ。
「やったら聞くけど、なんで真ん中だけなんや?」
「それは……」
如月さんは言葉を濁す。
「この碑文の重要な箇所が中央のギリシア文字やって知っとるんは、僕と佐っちゃんと先生くらいや」
しかし、僕はここで疑問を覚える。
「じゃあその矢永田先生は、何で真ん中だけを盗ったんでしょう」
「まだ先生が盗ったって決まった訳やない」
鋭い視線で如月さんは僕を睨みつける。
「すいません……」
僕はそれに圧されて一歩後ずさった。
「確かに、今は先生だけが怪しいとも言えない」
将輝さんは突然しゃがみ込んで、デスクの引き出しを注意深そうに観察した。
「鍵穴にピッキングの痕跡がある。ここ最近扉の鍵が差し込みにくいと思ってたら、そういう事か」
「じゃあ先生の可能性は薄まるな」
如月さんはほっとしたように短く息を吐いた。尊敬する先生の疑いが少し和らいだ事が理由だろう。将輝さんも少し早とちりをしたようで、少しの間を空けた。クールダウンといったところか。
しかし、その時に僕は妙なものを木箱の中に見つけた。緩衝材の中に埋もれていて角の部分しか見えないが、何やら小さなカードの様なものだ。石の下に敷かれていたので、今まで気づかなかった。
「あの……これは何でしょう?」
僕はそれをつまみ出してデスクの上に置いた。二人はそれを覗き込む。
「姉さんからのメッセージカード……だね」
将輝さんはカードを手にとってそう言うと、そこに書かれている内容を読み上げる。
『このカードを見つける頃には、貴方は石板を完成させて喜んでいるでしょう。でも、もしそれが完成したなら市立博物館に持って行きなさい。そして、すぐに寄贈しなさい。それを欲しがっている人は、たくさん居る。あなたのためにも、出来るだけ早く』
ーー沈黙。
「どう思う」
読み終わると将輝さんは眼鏡を外して言った。
「どうもこうも……」
「姉さんは盗られるかも知れん言う事を知っとった言う事になる」
「そう言うこと、なんかなあ……」
「そう言うことやろ。まあとりあえず、この事は関係者以外には隠しとこ。後々まずいことになる。それと、幸助くん。君もだよ」
将輝さんは真剣な目付きで僕に念をおした。
「はい……」
その気迫は、今までに将輝さんが見せたどの表情とも違って、大人びていた。
彼はそう言って僕に念をおすと、トレーを引き出しにゆっくりとなおして鍵をかけた。
同じところに置いていて大丈夫なのか?と疑問に思ったが、僕がその旨を聞くと
「その事については手を打っておくよ。午前中にでも市立博物館に持っていく」
と返した。
しかし、それでも不機嫌そうな顔をした如月さんに将輝さんは言う。
「まあ、先生だけやなくて他に来たやつらの可能性もある。やからまあこの事については考えとく。とりあえず、こっちを今日は守らんと」
と言い、デスクを手でぽんと叩き、ニコッと微笑んだ。その笑みに僕の緊張は少しほぐれた。が、如月さんは
「暢気なもんやな」
と顔をしかめた。
「しゃあないやない。今のところ何も出来ひんのは事実やろ?」
「せやけど……」
如月さんはどうもこの状況に不服があるらしい。
「ま、とりあえずや。これからどうするかやな」
沈黙。
これからどうするか、か……。僕はどうすれば良いのだろう。こんなことに巻き込まれるなんて、思いもしなかった事だ。間違って口を滑らせてしまったらどうしようか。
「そう言えば、幸助君はどうするんだい?」
彼はぼうっとしていた僕を横目で見下ろす。
「…………」
どうしようか。僕には別に関係の無いことだし、口を挟むべきでも無いように思う(あ、もう既に挟んだか)。だが、関係がないかと言われればそうでもない。最後の欠片は僕が持ってきたわけだし、碑板が失くなったのが発覚した現場に居合わせて口止めもされた。もともとは母さんのせいでここに来たわけだし、最後の欠片を送ってきたのは母さんだ。そして、あの意味深なメッセージカード。
だが、案外犯人捜しに参加するのも悪くないんじゃないか?
どうせすることもなく家で暇を持て余すのだったら、少しくらい日常から離れたことに首を突っ込むのも、それはそれで面白いのではないだろうか。
不謹慎だろうか。
でも、この謎が解けた時はどんな感覚を感じるだろうか。あの時みたいに──。
僕の中で思考が巡る。
結論──将輝さんについていくのも悪くない。だって、ここまできたら何で碑板の一部が失くなったか知りたくなるじゃないか。
「ついて行っても良いですか?」
「幸助くん、これは俺らの問題や……」
そういう如月さんを将輝さんは右手で制する。
「君の好きにするといいよ。だけど、なんでか聞かせて欲しいな」
何故、か。
「ただ純粋に気になってるんです」
僕がそう言うと、将輝さんは僕の考えを見透かしているかのようにニコリと笑い
「さて、じゃあ行こうか」
と言い、如月さんの肩を押しながら部屋を出ていった。僕はその後を、少し昂る気持ちを抑えて追った。
廊下を進み階段を降りて居間に出ると、二人とも部屋の中央にあるソファーに腰かけた。僕も座りたかったが、二人の雰囲気が、よそ者を寄せ付けないように張りつめているようにも感じられて、それとなくソファーから4歩ほど間を空けて、丁度良い高さに積まれていた本の上に座った。ソファーに置いてある僕のカバンがなんとなく場違いだ。
将輝さんと如月さんが話している。
「僕が留守の間には、誰が訪ねてきたん?」
如月さんは指を出して、一人ずつ数えていく。
「確か、狩谷(かりや)、栖槌(すづち)。で、矢永田先生、フィリップさん。あとは……定(さだ)さんっていう骨董商のオーナーかな?」
よくすらすらと言えたものだ。僕だったら2、3分は考え込む。流石は現役准教授なだけある(はて、思ってみたものの、何の関係があるのだろうか?)
「いつの事やったんや?」
「せやな、お前が今年に入ってから家を空けたんは、さっき言った人らが来た回数と同じ5回や。一回目に来たんが、お前が大阪の学会に行っとった2月の3日やったな。狩谷が来た」
「あの時か。要件は?」
「俺に資料を渡しに来た。ローマ関係の」
「んん、もうちょい詳しく頼むわ。その時に言っとった事とか、しとった事とか」
如月さんは少し間を空けた。
「昼過ぎに、俺が大学から忘れもんを取りに帰っとった時にタイミング良く来よって、封筒を渡された。ほんで、家に上がってもらって、お茶淹れたんは覚えとる。いろいろ駄弁っとって……碑板の事についても、ちらっと俺に聞いてきた。『将輝の研究しとるあれってなんなんや?』とかも言とった気する。帰る前には、お手洗い借りるとか言うて、2階に上がった事があったな。まあまあ長かったし、腹下したんかな思て気にせんかったけど、長かったな」
不意に僕はある事に気付いた。そういえば、僕はあの碑板が一体何で、どういったものなのか聞いた事がなかった。
「ええっとね、あの碑版は、イマカディ王国第5代国王のハブルハリ王の墳墓の入り口に嵌(は)め込まれていたもので、ハブルハリ王が死ぬ前、遠征中に作らせていたものなんだ」
僕の心臓がバクんと跳ねた。読まれたか。こちらを見ていないようなのに、読まれるとは。何回読まれたことやら。心臓に弱い。
如月さんが僕の方を見ながら付け加えた。
「古来より墓の入り口に置かれる物は、魔除けと、呪いの意味を持っとった。魔除け、つまり悪しき者を近づけないようにするんと、呪い、神聖な場所を荒らす者に対するもんやな。今回の場合はあの碑板がその役を担っとったと言えるな。あの碑版にもそれは彫られとった」
へえ、なるほど。どこかで聞いた話だと、オリエントのアッシリアの王族の墓にも、呪文が書かれた粘土板が見つかったそうだ。つながるところがある。だが、よく考えてみれば、将輝さんのそれって相当バチあたりな事だ。お墓に入っておいて、あまつさえ持ち出したのだから。(将輝さんだけではないか……)
「しかし、碑板にはもうひとつの役目があった。それは地図だ」
将輝さんは人差し指を立てた。
「地図……ですか?」
将輝さんはこくりと頷くと、立てた人差し指をぐるぐると2、3回まわした。
「発掘された書物に『碑板』と書かれていたので、僕たちも碑板って呼んでいるんだけど、碑板は"碑"板であって、何かを記念(祈念)・記録するためのものな訳だから、ただ『うらめしや』を書くだけでは、粘土板だけで、まあ充分だ。ところが、地図や暗号となると話は変わってくる。あれが碑板と呼ばれる由縁はそこにあると思うんだ。
揃っていた欠片で解読できた一節によると、遠征中に略奪した諸国の美術品やら金銀財宝を集めた宝物庫を造らせたとある。
他の解読可能な部分から読み取れる情報で、宝物庫のおおよその位地は特定できた。中央にはギリシア語で何やら暗号みたいなものが彫られていたけど、損傷が激しくて、読めない部分が多かったんだ。僕は、そここそが重要な部分だと推測してるけどね。しかし、そこだけが失くなった」
ううむ。整理しよう。
「つまりは…………ええっと、碑板が揃うと、その財宝の在処(ありか)が判るかもしれないって事ですね」
「まあ、姉さん風に言えばそうだね」
「でも、墓の入り口に嵌め込まれていたんですよね。なぜ今は欠片を集めてるんですか?」
もとは一枚板の石だった訳だから、発掘されても一枚板で取れるはずだ。なのに、今は細々(こまごま)とした欠片に分かれて、各地から集めているようだし。発掘の際、不手際か、そもそも碑板が崩れていたとしても、その場で組み直せば良い話だ。なのになぜ、母さんが送ってくるように世界に散らばっていたのだろうか。
将輝さんは僕の質問に一瞬迷ったようにも見えたが、徐(おもむろ)に自分の服の袖を捲って、前腕を僕に差し出した。離れて座っているので遠目だったが、よく見ると彼の引き締まって無駄のない腕には、何か広い範囲に古い傷痕があった。こんな傷があるなんて初めて知った。
「これは……火傷ですか?」
将輝さんは黙って頷くと、そろりと袖をおろした。
「4年前にあったハブルハリ王墓発掘調査の時に、発掘現場で火事が起きた。その時は丁度、服装品を納めているとされていた部屋から多くの美術品や金細工が見つかったタイミングで、調査団のみんなも浮足だっていたんだ。
そこに、盗賊が襲って来た。
よくある話さ。地元の人を雇うと、大概の場合は盗賊と通じているやからが居る。でないと、タイミング良く発掘現場を襲う訳がない。それでテントに火が放たれた。重要な書物等も一部は焼けてしまったが、大部分は予定の変更でその2、3時間前に箱詰めして市内に送っていたから助かったけど、残っていたものはほとんど盗られた。で、奴ら、碑板は財宝に通じる重要な物だと知っていたらしくて、持っていこうとしたが、重くて持てなかった。そこで何をしたか。もう、解るね?」
──砕いてバラバラにした。
「しかし、奴らはそれが何を示しているのか判らなかった。専門家に頼もうにも、当時はイマカディ王国の研究者は限られていたし、僕の論文がまだ広く知られていなかったこともあって、無理だったんだろうね。そういう遺物を好んで集めている人に売ろうにも、砕いてしまったものは価値が下がるから、仕方なく闇ルートで売り捌(さば)いた。それを僕は今、捜しだして集めているってわけだ」
将輝さんは、さらに続ける。
「不可解なのが、それらの欠片の大半が、日本で見つかっているということだ」
それは実に奇妙な話だ。得体の知れない石をわざわざ買いたがる人が日本には多いのだろうか? いや、そんな考えはあまりにも荒唐無稽というものだ。
そこに唐突に話を突っ込んで来る如月さん。
「三鹿島よ、俺は狩谷には何も言っとらんぞ。知らんて適当に流して帰した」
碑板が何か知らないと言うことはつまり、盗る意味が無いから、必然的に狩谷という人は犯人の線からおろされる。だが、案外そうもいきそうにない気もする。知らないふりという可能性も否定できない。現に2階のトイレを借りている間の彼の行動は判らない。
「やけど、狩谷には盗る理由があると思うねん」
「ほう?」
「あいつの研究しとった分野は、確かローマ史やったはずや」
「ああ、あれか」
将輝さんはそう呟くと、ぎしりとソファーを軋ませて、さらに深く座り込んだ。
「あれって何です?」
将輝さんがこちらに向く。
「ハブルハリ王という人物は、イマカディ王国が発見された当初から知られていた名前なんだ。だが、近年になって過去に見つかった文章の解読が進むと、王はローマ人ではないか、という説が濃くなった。論争は王国が発見された当初からずっと続いていたが、イマカディ人派とローマ人派の争いはこの事でますます激化した。狩谷の研究チームはその説を強く推している。中でも、彼自身がその説にひどく執心していて、その説を唱えている一派を引っ張って、論争を展開しているきらいがある」
碑板に王がローマ人であるという証拠を求めた、と考える事が出来なくもない。しかし、それならば見せて欲しいと頼めば、将輝さんも仕事を盗られるわけではない訳だし、見せてくれただろう。だとすれば、財宝目当てだろうか。
「それにあいつは三鹿島、あんたにちょっとばかし嫉妬もしとったみたいや。狩谷ってお前の同期やろ?」
「まあ、せやな」
なるほど、それならば得心がいく。将輝さんの経歴を見てみれば一目瞭然だ。この歳で元准教授なのだから、周りから、ましてや友人から羨望と嫉妬の目で見られてもおかしくはない。だが、
「僕に? 何で?」
将輝さんは目を見開いた。明らさまに驚いている。
「お前って、昔からそういうとこが鈍いんよなぁ。それやからミキさんからも離れられんねん。まったく」
如月さんは何か重い病でも患っているかのような重い口調で毒づいた。将輝さんは肩をすくめる。(ミキって誰だろう……)
ーー鈍いとかいう問題ではなく、もはや感知していないのでは? とひそかに思ってみる。まさか、人の考えている事が読めるのに、そう言った事が読めないとは。
「あいつは今、研究員やないか。同期やのに早くに出世したお前を恨めしく思っとるんは、当然っちゃあ当然やないか?」
「でも……まあ、そんなもんかねえ?」
逆に言えば、言われなければ気付かなかったその神経には感服せざるを得ない。
「お前にはそうでなくても、他人からしたら相当深いやつも多い。注意するんやな」
如月さんからの一喝を、肩を縮こまらせて聞いた将輝さんは、反省の色を見せたようで、束の間こじんまりとまとまっていた。
如月さんは咳払いをひとつして話を続ける。
「まあ、とにかくや。狩谷は怪しいと思う」
「そうか……ほかのひとは?」
「あの……質問良いですか?」
そう発した時、将輝さんの目を少し開いた物珍しそうな目と、如月さんの少しまぶたを伏せた睨むような視線が僕に集まった。
「なんだい?」
将輝さんは落ち着いた低いトーンで問う。
「その狩谷さんっていう人は、ハブルハリ王の財宝を狙っているということはありませんか?」
「さあ、どないやろな。知っとったらするんとちゃうやろか」
僕を睨んだわりには、意外にあっけらかんな答え方をした。
「でも、僕らの他にあの碑板の中央部が重要やっていうんを知っとる人は矢永田先生くらいやから、それは無いんとちゃうか? 先生が漏らしてもうたんやったら分からんけど」
「矢永田先生は──」
如月さんは微妙な間をあけた。
「矢永田先生は……どうやろ。でも、碑板が宝の地図かも知れへん言うんは、先生が漏らさんでも、その内、人伝いに広まるもんやと思うで。現に4年前に盗賊が発掘現場を襲った時かて、宝の地図や判っとったから砕いて盗んだわけやろ?」
将輝さんは「んん」と唸る。
「どこかで漏れたんやったら或いは──」
「まあ、とりあえず次や」
如月さんはそう聞くと、口元に拳を当てて咳払いをひとつした。
「次に来たんが、栖槌やな。2月の25日やった。お前が碑版関係の交渉で博多に行っとった時や」
「博多か……」
将輝さんはそう呟くと、目を瞑って何か苦いものでも噛み潰した時のように露骨に顔を歪めた。何か嫌な事でも思い出したらしい。
「どした?」
「いや、まあ……うん……」
やたらめったら言葉を濁す。
「何かあったんですか?」
「気にせんでええから、続けえね」
「んん?まあええやろ」
僕は小首を傾げたが、言いたくない事ならば別に無理して言わなくても良いし、今回の事件(?)に関係の無さそうな雰囲気がするので、気にせず流そう。
「あいつ、朝っぱらに来よってな、確か8時くらいやった。で、俺に資料を貰いに来たとか何とかで、ワチャワチャ玄関で立ち話っちゅうんも何やし、とりあえず中に入れたな。んで、近況とか話しとったら町内会長がいきなり来て、玄関でごっつい(関西弁で"とても"の意味)長いこと話を聞かされたから、よう覚えとるわ」
「つまり、その間は家の中を見てへんかったいうことやね?」
「そうなるな」
つまり、如月さんが玄関で町内会長と長話をしている隙に2階に上がって、将輝さんのデスクから碑板の中央部を盗み出すことは十分に出来た、という状況だったわけだ。 だが、将輝さんのせいで散らかっている居間を、音も出さずに通れるものだろうか?気づかれたら直ぐに見つかって──。
「うちの玄関から居間をまでは、廊下を進んで突き当たりで曲がらないといけない。町内会長と話しながら部屋の中を見ることは不可能だよ」
ああ。言われてみれば確かに。
「やけど、もし栖槌が盗ったと仮定した場合、動機が分からん。栖槌にはどんな動機がある?」
将輝さんは眉根を寄せた。
「せやな……。あいつはうちらのチームやなかったから4年前の調査の時は現地に居らんかった。そもそもに調べてる事が違うからなあ」
「あの、その栖槌さんって人は、イマカディ王国の研究者じゃないんですか?」
「彼はちょっと違うかな。彼はイマカディ王国の研究者ではあるけれど、研究室が違うから微妙に研究内容が違う。栖槌は文献史料の解析を主なテーマとしているんだ」
文献ということは、アウトドアな将輝さんよりインドアのタイプなのだろうか。資料室に籠(こも)って史料を読み漁っているイメージが少し湧いた。
「でも、栖槌の方が三鹿島より外で動き回る時間が多いんよな」
如月さんが呟く。
「何でです?」
「確かにサツキが言った通りだ。僕みたいに発掘現場で夜を明かしたり、トレンチで掘り出す作業をしていると、外に居る時間は長いけど、でもそんなに同じ場所から動かないんだよね。文献史料は、あちらこちらに点在してるから、今日はあっち、明日はこっちって具合にあちらこちらに動き回らないといけない。勿論、ファックスで送れる物ならそれはそれで良いけど、展示されてるものとかだったら、直接出向くしかない。総延長は僕の方が長いけど、あながち間違いでもないね」
「あいつはお前が見つけたもんを待っとるみたいな、まあ根魚みたいなもんや」
「根魚……」
「でも、僕かて発表まで何がなんでも隠すほど堅くないから、見つけたもんは見せてくれ言われたら見せる。やから、調査現場に居らんかったとしても報告書って形で栖槌にも見せた事があるにはあるから、碑板の事を知っとってもおかしくはない」
問題は、どこまで知っているかだ、と将輝さんは小さく付け加えた。
「知ってたとすると、お宝目当てなんですかね」
「さあね。でもあいつが盗むには少し難がある」
「ほう?」
如月さんが目を細めた。
「もし栖槌が、サツキが町内会長と駄弁っている隙に碑板を盗もうとした場合、会長がいつ来て、どのくらい長話をするか知っていなければならない。タイミングが判ってなかったら出来ないはずだ」
「もし知っとったら?」
「可能やな」
もし知っていたら、か。どうやったら事前に知ることが出来るのだろうか? そもそもどうやって調べるのだろう?
「栖槌さんは、何処に住んでるんでしょう?」
「あいつは明石やな。五色塚古墳が近いって前に聞いた」
如月さんが応える。五色塚古墳といえば、兵庫県下では最大級(といっても大阪の大仙古墳よりかは遥かに小さいが)の古墳だ。しかし、五色塚古墳は確か舞子あたりだったはずだ。いや、如月さんが間違えるはずがないし、将輝さんが何も言わないということは、僕の覚え間違いだったかな? 多分、明石周辺なのだろう。
「明石やったらここの事を事細かに知るんはムズいな。いくら家の場所を知っとったところで、町内会長と面識があるとは言いにくいし」
将輝さんは組んでいた脚を組み替えた。
「でも判らんで? ここいらに知り合いが居るんやったら出来んこともない」
「そないなこと言うとったら、きりないで」
と将輝さんは、苦笑する。
「次や」
「次が、フィリップ博士やな。3月の13日やったと思う。でも……あんま細かく憶えてへんわ」
ここに来てようやく如月さんが曖昧な事を言った。なぜだろうか?
「あん時はこっちも急いどった時やったから、なんとも言えんわ」
「確か、海外研修やっけ? 学生たち引き連れて、カンボジアとか行っとったんよな」
なるほど。
「ああ。2週間やった。出発する前の日に来はって、お前の事を聞きに来たね」
「僕の?」
将輝さんは訝しげな顔をして首を傾げる。
「そ。お前が今何処に居って何しとるんか聞きに来はった。せやから今は非常勤をしとう言うた」
「その他は?」
「特にない。玄関で立ち話程度やったから、家には上がってへんよ」
「なら、犯人……の可能性は無さそうですね」
「そうとも限らんぞ?」
如月さんはごつごつとした手で顎を撫でた。
「どういう事や?」
「博士が帰った後、俺が2時間くらい後に家を出た時、ある車が大学病院前に止まっとってん。ほら、うちの前の直線の道路あるやんか? あっこの所に駐めとったから警察に違反切符切られとったんよ。それ見て、ある男が駆け付けてきたんやけど、それが──」
「博士やったと」
「……まあ、せや」
如月さんは将輝さんに先を言われて不服そうな顔をすると、少し怒気を含んでそう言った。その気持ち、とても解る。
「この家の近くに車なんか駐めておいて、何をしてたんでしょう?」
この家の近くに駐めておいた自分の車が切符を切られている現場を目撃して、すぐに駆け付ける事が出来たのだから、そのフィリップ博士という人も車の近くに居た事になる。そもそも、彼はなぜこの家の近くに居た? コンビニに寄るにしても、2時間は長い。とすると、
「──監視ですかね」
「だね」
「やな」
「うちの事を監視しとったとして、その理由はそう多かないやろ?」
「ああ。碑板が狙いや考えるんが、妥当やろな。盗み出す機会を見定めとったんやろ」
「せや。あの人にも碑板を欲しがる理由はある。四年前の調査ん時、博士は現地で発掘されたところを見とるし、碑板が何かってのも、充分知り得た。宝物庫の地図目当てやったら、なおさら充分や」
そう聞いた将輝さんは、小さく溜め息を漏らした。
「どうかしましたか?」
そのまま目を瞑り、にやけながら天井を仰ぎ見る。
「なんだか自分の墓穴を掘ってたって思うと、ちょっと悲しくなってくるよ」
理由は判らんでもない。今のところ疑いをかけられているのは、将輝さんの知り合いや友人ばかりだ。身内の事を容疑者として見なければいけないのは、ある種の辛さがある。だが、言い方というものがあるだろう。墓穴を掘ったというのは、自分のミスを露見してしまう事だ。ということは、普段から墓穴を掘らないように警戒していたという事になる。ならば、将輝さんは最初から彼らを信用していないと言うことではないか。
「そうだね。僕は彼らを信用していない」
将輝さんはこちらを横目で見ると、さらりとそう告げた。
「将輝…………」
ぽつりとそう溢すと、如月さんは一瞬とても哀しそうな顔をした。
「…………?」
「信用していないってのは語弊があるかな? 言葉が悪かった」
信用してもらってないから、僕も信用しないだけだよと、ぼそっと言う。
どういう事ですか、と口を開きかけた時、それを邪魔するように将輝さんは「今話すと長いから、追々話すよ」とお茶を濁して、話を戻した。今まで僕の問いにずっと応えてきた将輝さんが、追々話す、と話を濁すなんて。とても違和感を感じる。
将輝さんは向き直ると、すぐ真顔に戻った。
「次は矢永田先生やっけ」
先週のカフェでの話で出てきた名前だ。将輝さんの恩師で、元大学教授。独創的な発想の持ち主でもあると言う。将輝さんが真っ先に疑った人物。
「ああ。3月の下旬で、30日やったかな。引退されてからも、まだまだ健在って感じやったで。俺らの顔を見に来たらしいけど、あん時お前、居らんかったかし、暇をもてあましとる言うとったんで、お茶淹れてちょっと話して、前々から俺のコレクション見たいて言うとったから二階に案内した」
「でも、見せたんはサツキの方やろ?」
「ああ。お前の方にも興味もっとったみたいやけど、俺は目はなしてへんから、隣のお前の部屋に先生が行ったんは見とらんよ」
「やけど、先生は合鍵を持っとる。僕が先生の研究を引き継いだ時に、先生は資料整理が面倒や言うてデスクごと僕に譲ってくれたやろ? その時渡された鍵は1本だけやった」
「やとしても、ずっと目の前に居ったんやから不可能や」
今度は如月さんが脚を組み換えた。
「それに、たとえ俺が0.1秒でも目をはなした隙に、先生が隣のお前の部屋に行けたとして、先生が持っとんのはデスクの鍵や。お前の部屋の鍵はないはずやから、入るんはムズい」
短時間ではドアの鍵をピッキングして中に入り、デスクから欠片を盗んで、ドアに鍵をかけて、また元の部屋に戻るのは難しい。ましてや如月さんの監視下にあった当人は、終始部屋を出ていないというから、犯人の可能性は限りなく低い、と言う。
「でも、仮に別の日に盗み出そうとした場合や。サツキの不在を突いて家に入るんは出来るやろ?」
「そういう時は大概、暇なあんたが居るやないか。それに、別の日やったら、さっき言った3人でも出来るやろうし、俺ん家(ち)のセキュリティー舐めとったらアカンで。誰かが変な範囲の芝生を踏んでだけで、メールが届く寸法やから、後日改めて"出直して頂いても"、すぐバレる。もしそないな事やったら、フィリップ博士が1番怪しいやないか」
まあ、そうだな。というか、そんなけったいシステムがあったとは……。ふと芝生で思い出したが、僕が初めてこの家に来た時に芝生を踏まなくて良かったと、今になって思う。
「じゃあ何かメールは?」
如月さんは両掌をぷいっと天井に向けて肩を竦(すく)めた。無かった訳だ。
将輝さんは「そうか」と小さくこぼすと、組んだ自分の脚をじっと見つめて、口を閉ざした。如月さんはそんな彼を何か待つような眼差しで見つめている。僕も将輝さんに視線を移した。
沈黙の間、僕は少し考えてみた。
この矢永田教授という人は、先程の3人とは違って、少なくとも将輝さんや如月さんにとって、相当な信頼を寄せられている人であるのは間違いないだろう。特に将輝さんの方だ。先週のカフェでも、将輝さんは熱っぽく彼の事を語っていたし、"恩師"という言葉遣いからも、尊敬している人物であるのは明確だ。いや、尊敬しているという範疇(はんちゅう)には納まらないのではないか? むしろ、恩人と呼ぶほうが相応しい気もする。そこまで心酔しているように見えた。何かもっと深い理由が有りそうだ。
だが、尊敬する人を真っ先に疑うだろうか?
将輝さんも将輝さんなりに、何か引っ掛かる所があるから、碑板が失くなったと判った時に、真っ先に矢永田先生という名前を出したのだと思う。だとすれば、今、彼は恩人に容疑をかけている事になる。平気なのだろうか。将輝さんが黙っている理由は、僕には皆目見当の付けようがないが、次々と、テンポ良く進めていた話を切ってしまうほどの事を考えているということは、僕でも判る。
そう考えると、居間を漂う空気がどんよりと重苦しく感じられてくる。
「あれ? でも、もう一人居ませんでしたっけ?」
しかし、何となく思い出したので聞いてみた。
「ああ、居ったおった。定っていう骨董商のオーナーが」
「骨董商?」
骨董商は、何というか意外だった。うちの母さんは変な仕事柄、よく骨董商やら古物商やら、はたまた文化庁のお役人さんとかが来るので、そう珍しくはないのだが、将輝さんや如月さんの所にも来ているというのは、少し新鮮だ。うちくらいだと思っていた。
「幸助くんにはそんなに珍しくないんじゃない?」
「ええ、まあ。でも、骨董商の人って考古学者の所にも来るもんなんですか? 普通」
「いや、来んことないけど、滅多に来うへんな。てか、将輝の姉さん、やっぱごっついなぁ。あんな人ら、いつも来とるんやろ? 怖いわぁ」
──怖い? 確かに、母さんは面倒だと言って全部父さんに丸投げしているが、怖くはないのではないか?
「怖い人なんですか?」
「いいや、犬みたいにやたらと鼻が良い人らなのさ」
将輝さんは、はははと笑う。
「例えば祖父の蔵からから銘刀が出てきたら、噂を聞きつけたコレクターはすぐに嗅ぎ付ける、みたいな。ほんと、その速さって言ったら、怖いもんさ、特に世の中のあちら側向け専門の人は。出土品が、美術品として扱われる事は少なくないからね。僕らも、例外じゃない」
「言うて、基本はそこまで美術的価値のないもんばっかやから、ほとんど来うへんのやけど」
「やったら、その定(さだ)っていう骨董商の人は何しに来たんや?」
「まあ簡単や。お前んとこの、あの壺が欲しいて、言ってきたんよ」
「で?」
清々しいくらいさっぱりと言う。将輝さん、口元は笑っているが、目が笑っていない。
「勿論、俺の独断で事を進めるんは無理やから、また出直してくれ言うたよ」
「そうかい。でも、いっそもう来るなて言うといてくれたら、なおの事良かったんやけど」
また興味なさげな応えだ。
「じゃあ、その人に犯人の可能性はないですよね?」
「どうだかね。さっき言ったパターンもあるかも」
「将輝、お前、ほんまにそういう人ら嫌いなんやな」
「いや、嫌いやないねん。あんまり好かんてだけ」
そう言った将輝さんは、しらけたような、冷ややかな笑みを片頬に浮かべている。
如月さんは、やれやれと溜め息を漏らした。
一通り話し終わると、自然とみんな静かになる。
四人の人物が容疑者としてリストアップされた。うち三人は、将輝さんが信用していない人達。そして最後が、最も信頼を寄せているが、一番に疑いをかけた人。それぞれに動機と不審な行動が出揃った。
この中から犯人を見つけ出すには、どうすれば良いのだろう。如月さんの証言だけでは、この四人の誰が盗ったかまで判断出来ない。あの部屋に何か証拠になりそうな物でも落ちていれば、少しは進展もあったろうに。出てくる時に部屋を見回してみたが、それらしい物は見つけられなかった。埃のだまが隅っこで風に踊るだけだった。僕よりも観察眼の利くであろう将輝さんでも、何も言わなかったのだから、無かったのだ。
沈黙。
40分くらいほぼノンストップで話し続けたせいか、如月さんは少し咳払いをして口を開いた。
「これで、全員話したな?」
「ああ。サツキはこのあとは」
「大学に行って先生ん家の住所、聞いてくる。将輝は」
「博物館に碑板を預ける」
「って事は、ミキさんか」
「ああ、出来れば会いたくないけど、あいつ以外に信用出きるやつは居らんから。まあ、居らんかったら居らんかったで、啓介にでも預けるわ」
如月さんは口元を緩めた。
「あいつでもええんか?」
将輝さんもいつものように穏やかにニコリと目を細めた。
「ええんちゃう?」
「ま、くれぐれも注意してな。まあ、お前の馬鹿力に限って落とすような事は無いやろうけど、持ってく途中で盗られんように」
「分かっとるわ」
如月さんはふっと笑うと、ソファーから勢いよく立ち上がった。
「ほな行くわ」
「おう」
如月さんはソファーに畳んで放ってあった薄手のチェスターコートをひらりと羽織ると、そのまま散らかった居間を跳びながら家を出ていった。扉が軽く音を立てて閉まった。
沈黙。
「さて、じゃあ僕らも行きますか」
「あ、はい」
彼は洗面所から着替え終わって出てくると、居間をひょいと渡ってくる。黒いチノパンに少し青みがかった白いワイシャツ。着こなしはいつもと同じく飾らない。だが、将輝さんが着ると、背格好が整っているので、きまってみえる。(あ、でも、後ろにまだ寝癖が……言わないでおこう)
彼はいつものように部屋の隅に置いてあるハンガーラックから黄土色のジャケットを取って羽織り、てっぺんに掛けてある赤茶けた黒いフェドーラ帽を被った。
「行こうか、助手くん。手伝ってくれ」
彼はそう言うと、2階に向かった。 僕は居間を跳びながらパーカーの袖を通した。
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