三鹿島さんへのお土産

    1


 草花が生を謳歌する4月。


 新しい生活が始まる4月。


 新しく高校生活が始まるはずだった4月。


 いや、この際それはどうでもいい。今はこの局面をどう乗り越えるかだ。


 僕は建物の入り口を前にして、場所を間違えたのでは無いかととても心配になっていた。


 薔薇やパンジーの咲く芝生の庭には玄関まで枕石が敷かれていて、レンガ造りの壁には蔦が伸びている。三角の屋根には煙突、銅色をした雨どい、緑色をした窓。ひと目見ただけでそれがお金持ちの家だと分かる。


 僕はもう一度母さんの手紙を確認するが、大倉山でやはり住所の間違いはない。


 一か八かの突撃か、戦略的撤退か。頭のなかでメトロノームの針が両方に振れる。


 しかし、何の確証もなく撤退するのは諸葛孔明の空城の計を目の前にして、まんまと撤退するようで気に食わない。


「よし、行くか」


 僕は覚悟を決め、恐るおそるその庭に足を踏み入れた。


 目に鮮やかな緑に囲まれたその建物は、近づくにつれて"家"というよりも"屋敷"と言った方が良いと思ってくる。周りの閑散とした住宅街からは明らかに浮いているし、尚且つそのどことなくメルヘンチックな佇まいが、場違いな雰囲気を醸し出していた。


 僕は芝生を踏まないように、枕石の上をそっと玄関の前まで歩いた。


 肩掛けのボストンバッグと、見た目によらず重い包みの入った紙袋を床に置き、ドアについたノックを叩いて返事を待つ。


 沈黙。


 もう一度。


 再び沈黙。


 何回か繰り返して10分くらいしたが、全く返事が無い。留守なのだろうか。まあ、いつ行くか連絡していなかったから、すれ違ったのだろう。僕は諦めて出直そうとカバンを背負った。


 しかし、僕が肩に鞄をひっかけたその時、突然がちゃっと扉が開く音がした。振り返ると、そこには玄関からの光に照らされて眩しそうに目を細めた男の人が姿を現した。


 男の人は眠そうに目を擦りながら辺りをくるり見回し、ようやく僕に気付いて見下ろす。


「君、誰?」


彼はボサボサの頭を掻きながら、目を細めた。


 大きい……。それが僕のこの人に対する第一印象。僕の背を余裕で通り越して、頭1つ分くらいの差がある。僕の身長は大体170センチくらいなのでかなり高い。


 パジャマらしき服装で玄関に現れた彼はどうやら寝起きのようで、口をむにゃむにゃとさせて、やがて手で口元を抑え、大きな欠伸を1つした。


 僕は慌てて自己紹介する。


「あ、朝早くにすいません。初めまして、速水幸助(はやみ こうすけ)と言います。母の速水雪枝からここでお世話になるようにと言われて来ました。三鹿島 将輝さんですよね?」


すると彼はより一層目を細め、睨むように顔を僕に近づけてじろじろと見る。あまりに近いものだから僕は思わず仰け反る。


 彼はじっくりと角度を変えて違うアングルから少しばかり僕を睨むと、ある一瞬何かに気づいたらしく「ああ」と言ってそれまで眉間に寄せていた皺を解いた。


「そうだけど。そうかそうか姉さんの息子さんか。いやあ、気付かなくてすまない。……あれ?おかしいな。僕は断った筈なんだけど……」


ん?母さんの手紙には確か喜んで迎えるだろうと書いてあったはずだが……。


「まあいいや。どうぞ上がって」


彼はそう言うと眠そうな足で180度ターンして、家の中に入っていった。


 20代後半だろうか。母さんの弟だから30代だろうと思っていたので、僕は少し拍子抜けした。若干日に焼けてはいるが全体的に見て細身で背が高く、髪が襟まで伸びてる。寝癖があったりして一見だらしないが、よく見れば鼻筋の通った顔でもある。男の僕から見てもイケメンの部類に入る顔だ。


「お邪魔します……」


 僕は恐るおそる彼の家に足を踏み入れた。


 家のなかは電気がついておらず、窓から漏れる光が奥に見える暗い部屋をやんわりと照らす。明るい外面とは対照的に、中は陰気な雰囲気が漂っていた。


 好奇心で中の様子を窺いながら敷居をまたぐと、一歩目で足の裏に変な感触が走る。


 僕が慌てて足を退(ど)けると、そこには丸まった模造紙のようなものが転がっていた。目線を元の高さに戻すと、奥の部屋に続く廊下にも、本や紙が散乱している。まるで部屋の中で小さな竜巻でも起こったかのようで、建物の外観からは想像出来ない荒れようだ。


 僕が足の置き場に困っていると、いつの間にか姿の見えなくなっていた彼は、廊下の突き当たりの角からひょっこりと顔を出した。そして、


「ああ、そこの本とか場所変えないでね。分からなくなるから」


と言い顔を戻した。


「はい……」


 そこでふと僕は思う。彼は一体どんな人なのだろう、と。


    2


 僕には彼のほとんどすべてが謎で仕方なかった。


 事の顛末(てんまつ)は2週間前。家でごろごろとしてテレビを見ていた僕は、インターホンの音に起こされて玄関に行った。すると、例のやたらと重いお土産とか言う包みと手紙が届いていたのである。


 受験も終わり、晴れて高校生になった僕は、暇な春休みを謳歌していた。そんな矢先だった。


 母さんからの手紙はいつも一方的で、僕からの返信を全く受け付けない。一回だけちゃんと届いたらしく返事が返ってきたが、その時僕はひどく怒られたのを覚えている。返事を書く時間が無いから迷惑だ、とか、仕送りのお金をそんな事に使うなとか。まあこれに限っては一理あるとは思う。国際スピード郵便はそれだけでまあまあの金額がかかる。ましてや移動ばかりして同じ場所に5日と居ない母さんには、必然的に追跡をつけないといけないから、その分高くつく。


 しかしそれは分かるとして、一番理解に苦しむのは、母さんはこのご時世に携帯を持ち歩いていないと言うことだ。通話料が高いとか、落としたらすぐ壊れるとかで好かないらしいが、こちらとしては急用や、世界を旅する以上、治安の問題もあるので安否の確認等をしたくても出来ないのが腹立たしい。


 一度、定期的に来る近況報告が途切れて音信不通になった時があったが、その時1ヶ月くらい神経を削った事もある。理由はやはり厄介ごとに巻き込まれたとからしいが、その厄介ごとの規模が普通では無い。銀行強盗に遭ったとか、荷物一式全部盗まれたとか。だったら行かなければいいのに、と、いつも思うのだが、当の本人は「楽しんでやっているので口出し無用!」と言って仕事熱心なのである。


 そんな性格なので、今回も僕の返信には応えてくれず、有無を言わさず僕は全く知らない人の家に居候することになった。 母さんの手紙において、彼についての記述はほとんど無い。2通目に届いた手紙も住所のみだったのだ。


 唯一、彼が母さんの弟で僕の叔父であることは判っているが。


「君、確か名前は……」


「速水幸助(はやみ こうすけ)です」


彼は居間までひょいひょいと歩いていくと、機雷原の如き廊下を攻略中の僕に、名前を聞き直してきた。彼はもうソファーに腰かけて足を組んでいる。


 僕はその機雷原をやっとのことで通り抜け居間まで辿り着いたが、目の前の光景に思わず唖然とした。彼の座るソファーまでの道のりは、先ほどにも増して散らかっていたのだ。それはまるで僕を「来れるもんなら来てみたまえ」と言わんばかりに、嘲け笑っているようそこに広がっていた。一見すると広い部屋なのに、こうも散らかっていたら狭く感じるものだ。


 僕はここでまたふと思う。この人の所であと5ヶ月、いや、母さんの事だ、多分もっとだろうが暮らすことになるのに、僕はやっていけるだろうか、と。


 取り敢えず彼の近くに行かないと話が出来ないので、僕はその機雷原を本などを踏まないようにゆっくりと抜けた。ボストンバッグが片側に寄ってバランスを崩しそうになったが、なんとかもう一方の紙袋で持ちこたえた。母さんの送ってきた彼への贈り物だという品が、予想以上に重かったのが功を奏した。


 その辺に下ろそうとは思ったが、言うまでもなくそんな場所はない。


 仕方ない。


 僕はふらふらとしながらも、何とか彼のいるソファーまで辿り着いた。


「お茶とかは出せないけど、まあ、そこにかけて」


「失礼します」


僕は彼と向き合う形でソファーに座り込んだ。


 辺りを見回しすと、埃を被ってはいるが赤や青、黄色をしたステンドグラスの傘がついた裸電球が、僕と彼の間の天井からぶら下がっている。その下には楕円形をした、ソファーに合わせて作られたであろう低めの机。他にも窓辺から漏れる光に照らされている高そうな皿や、木目の美しいシェルフ。一貫してお洒落に統一されている。この趣味は僕も嫌いではない。いや、かなり好みだ。


 僕は向き直り、改めて彼を見た。やはりこの人はお金持ちであることは間違い無いだろう。まあ少々整理整頓諸々の力が欠けているようだが。


「それで、確か僕のところに居候しに来たんだって?」


彼は深く腰掛け、真っ直ぐ僕を見つめて落ち着いたトーンで言った。深く腰掛けているのに、真っ直ぐ座っている僕の頭より目線が高い。


「はい。母から届いた手紙にここで預かってもらうよう書いてあったので」


「姉さんからの手紙ねえ……」


そう一言呟くように言うと、彼は「ふーん」とだけ言い、黙り込んでしまった。


 沈黙。


 換気をしていないのか空気が悪く、カーテンのひかれた暗い部屋には僕と彼の二人だけ。


 ──沈黙。


「あの……都合が悪いようなら帰りますけど……」


僕は鞄を肩にかけようとした。しかし、彼は右手を挙げて僕を留めると


「ああ、いや、別に居てくれても良いんだけど、ちょっとねえ……」


と言い、また黙り込む。


 3度目の沈黙。


 しかし次の瞬間、彼は唐突に突拍子もない事を言い出した。


「いやね、ここ実は僕の家じゃないんだよ」


「へっ?」


思わず声が裏返った。


「ここ友達の家で、僕は一文なしなもんで居候してるんだけど、その友達が滅多に帰ってこないから、事実上僕が住んでるってことになってるんだよ」


彼は寝癖で四方八方に跳ねたボサボサの頭を掻きながら、肩をすくめた。


 彼の家じゃない? そう言えば他の名前の表札の横にマジックで三鹿島と書いてあったな。


「だから君がここに住むためには友達に許可とらないといけない。実を言うと先週姉さんから急に手紙が届いて、君の面倒を見ろって言ってきたんだよ。僕がここに住むときだって友達を説得するのに骨を折ったのに、もう一人来るとなると、ねえ……」


彼は上目遣いで僕に言った。


 僕は「そうですか……」と言葉を濁した。一体全体どうしたものか。母さんから言われて来たのに、この分だと帰らなければならない。しかし、帰ったところで生活費はほとんど無い。困ったものだ。


 だが、母さんの事だ。どうせ手紙だけよこして一方的に言ったのだろう。もしそうだとしたら、僕はさっさと退散しなくては。


「あの……ご迷惑をおかけするわけにはいきませんので、僕は帰らせて頂きますね」


「済まないね」


彼は申し訳なさそうにポツンと言った。


 僕は立ち上がり一礼すると荷物を背負った。そこでふとソファーに忘れ物が無いか見回すと、紙袋の存在に改めて気付く。


「あ、あのこれ母からのお土産です。あなたに渡して欲しいって……っ!」


見た目に騙されて普通に持ち上げだが、上がらない。もう一度、今度は倍の力で持ち上げる。


「なんだい中身は?」


彼は興味深そうに首を伸ばして紙袋を見た。


「お土産としか聞いてないので中身は何か知りませんが、どうぞ貰ってください」


ソファーの間のローテーブルにさっさと移した。


「ああ。済まないね、来るだけ来させておいて。ありがたく頂くよ」


彼は僕が置いたのを見ると、その紙袋をすうっと軽そうに自分のところに引き寄せた。


彼は上目遣いで僕に言った。


 僕は「そうですか……」と言葉を濁した。一体全体どうしたものか。母さんから言われて来たのに、この分だと帰らなければならない。しかし、帰ったところで生活費はほとんど無い。困ったものだ。


 だが、母さんの事だ。どうせ手紙だけよこして一方的に言ったのだろう。もしそうだとしたら、僕はさっさと退散しなくては。


「あの……ご迷惑をおかけするわけにはいきませんので、僕は帰らせて頂きますね」


「済まないね」


彼は申し訳なさそうにポツンと言った。


 僕は立ち上がり一礼すると荷物を背負った。そこでふとソファーに忘れ物が無いか見回すと、紙袋の存在に改めて気付く。


「あ、あのこれ母からのお土産です。あなたに渡して欲しいって……っ!」


見た目に騙されて普通に持ち上げだが、上がらない。もう一度、今度は倍の力で持ち上げる。


「なんだい中身は?」


彼は興味深そうに首を伸ばして紙袋を見た。


「お土産としか聞いてないので中身は何か知りませんが、どうぞ貰ってください」


ソファーの間のローテーブルにさっさと移した。


「ああ。済まないね、来るだけ来させておいて。ありがたく頂くよ」


彼は僕が置いたのを見ると、その紙袋をすうっと軽そうに自分のところに引き寄せた。


彼があまりにも簡単になに食わぬ顔でそれを引き寄せたものだから、僕は少し拍子抜けした。実は自分の思い違いで、本当は軽いのではと思ってしまうほどだった。一見細そうな外見からは想像もできないくらい彼は力があるらしい。


 やはりこの人は謎だ。自分の家ではない家に住んでいたり、重かった紙袋をひょいっと引き寄せたり。部屋の散らかり具合もしかり。


「それじゃあ帰りますね。突然押し掛けてすいませんでした」


僕はじんと痛む手を握ったり放したりしてから一礼する。彼もまたそれを見ると立ち上がった。しかし、座っていれば勝(まさ)っていた身長も、彼が立ち上がってしまうと途端に自分が小さく思えてくる。姿勢が良いので尚更にそう思う。


「いやいや、また遊びに来てくれると嬉しいよ。当分ここには居るから」


 彼はそう言うと笑みを浮かべた。


「はい。失礼しました」


 僕はそれを横目に、またあの居間と対峙する。先程の道を辿ればなんとか無事に抜けられるだろう。僕はバッグを前に抱えて歩きだす。


 しかしそう見るや否や、彼は紙袋から包みを取りだし、それを開け始めた。ガサガサと包装紙をはがす音がする。


 すると、彼は突然興奮ぎみに「おぉ!」と声をあげた。僕は片足立ちになっていたが思わず振り返る。


「君、幸助くんだったね。ちょっと待ちたまえ。気が変わった。ここに居て良いよ」


彼は包みの中を興味深そうに顔を近づけて覗き込んでいる。


「えっ?本当ですか?」


「ああ。男に二言はない」


二言はないと言っているが、先程の言葉ですでに二言目なのでは?そう思いつつも、なんとか居させて貰うことが出来たことに僕は胸を撫で下ろしたが、ここでひとつ疑問が湧く。


「でも何でまた急に。ご友人に許可をとっていないんじゃ」


「いや、この際それは何とかするさ」


彼は興奮冷めあらぬ様子で、跳ぶ上がりはしないものの強く握った拳を震わせてガッツポーズまでしている。あの落ち着いた雰囲気の彼がひと目見て態度を豹変させたものとは一体何だ?僕はちらっと彼の目を盗んでその包みの中身を見た。


 変な形をした大きめの石っころが2つ、緩衝材に包まれて大事そうに木箱に内包されている。よく見ると木箱の蓋には何やら英語で書かれた赤いタブが付いている。


「ああそれね、歴史的にとても価値のある物なんだよ。値を付けるなら、ざっと200万は下らないだろうね」


彼は気になって見ていた僕にそう言った。僕はその言葉に心臓が跳びはねる。ひとつは彼が僕に気付いていた事に。もうひとつは僕が運んでいた物がそんなに高価なものだった事にだ。


「200万……」


「そうだよ。この石片は中世の遺跡から発掘された物に間違いないだろう。保存状態は至って良好だし、そもそもに希少価値がある」


彼は木箱に蓋をして、そっと持ち上げた。僕はそれを見ながら母さんの手紙の事を思い出した。


『大事に扱ってね』


頭の中にここへ来る道中の事が巡る。(確か僕は何度か雑に置いたような……)いや、考えないでおこう。


「姉さんがこれを送ってきたのは驚きだけど、これを貰う以上、それ相応の事を返さないとね。……後で姉さんが怖い」


彼はそう言うと重いはずの木箱を片手に持ち、人指し指を口元に立てた。僕は改めて彼の怪力に驚きつつも、彼の少し子供な部分を垣間見て苦笑した。実は僕も母さんが怖いので、その事はよく分かる。


「しかしこんな所でお目にかかれるとは。これでやっと完成する」


彼は木箱を持ち直して紙や本の散らかった居間を歩き出す。


「ついてきたまえ。良い物を見せてあげよう」


    3


 僕は彼についていった。先ほどよりかは落ち着いたようで、初めの時のように落ち着いた印象に戻った。


 ひょいひょいとあの大海原を跳び越えて、彼は居間の奥に見える階段まであっという間に辿り着いたが、僕はかなり苦戦した。やはり馴れている人は動きが違うなぁと心の中で彼に皮肉を呟き僕は彼の後を追った。


 彼は僕が辿り着いたのを見ると振り返りその階段を上っていく。薄々予想してはいたが、階段にはやはり本や模造紙の山が積まれていた。しかし下の階と決定的に違うところがあって、それは階段だけはそれらの山は隅に寄せられていると言う事。つまり少なからず整理がされていると言うことだ。


 おどりのある階段を2階に上がると、1階とは全く違って何も無い廊下が端まで延びている。この家にはまとなところがひとつも無いように思えたが、2階はどの場所とも違い、至って普通のようだ。


「ここだよ。少し待っていてくれ」


少し進むと彼はある部屋の前で立ち止まり、包みを床に置きズボンのポケットをごそごそとあさり始めた。そして沢山の鍵がついた鍵束をじゃりっと取り出した。


 扉の鍵穴に1本差し込み回したが、回らないと見て次の1本に替える。彼は目を細めて鍵束を顔に近づけ1本ずつ確認すると、その中から1本をつまみ出し、また差し込んだ。しかし今度は鍵穴にすら入らない。彼はぼさぼさの頭を掻いて「うーん」と小さく唸り僕をちらっと見る。


「ごめんね、ちょっと鍵が多くて……」


僕は、はははと愛想笑いを浮かべた。


 彼はもう一度鍵束を睨むが、どうにも目的の鍵が見つからないらしい。ジャリジャリと鍵束をいじくり回す音だけが廊下に響く。しかし、しばらくすると彼は何か思いついたようで、パジャマの胸ポケットに手をのばし、取りにくそうに大きな手をすぼめて、ある物を取り出した。


 メガネだ。


 しかしよくよく考えてみると玄関で僕を見た時も目を細めて顔を近づけていたし、木箱を見る時だって顔を近づけていた。さらに鍵束を見る時も顔を近づけていた。目が悪いのか。


 怪訝そうにじろじろ見ていた僕を横目で見ると


「これが無いと、ほとんど見えないんだよね」


と笑って見せた。僕はまた愛想笑いをする。(見えないのなら最初からかけておけば良いものを。いや、寝起きで忘れていたのか……)


 彼は向き直ると、今度こそ合っているだろうと鍵穴に鍵を差し込む。


「あれ?挿し込みにくいな……」


無理やり強引に鍵を押し込んだ。そして一呼吸おいてゆっくりと鍵をひねった。今回は正しかったらしく鍵は簡単に開いた。僕は心のどこかで何故かほっと一息ついた。


 彼は鍵を仕舞い、ドアを開けると木箱を持って入っていく。


「さあ入って」


彼の背中から見える部屋の中は暗く、カーテンが厚く閉ざしてある。


「失礼しまぁ……す………!?」


しかし敷居をまたいだ瞬間、僕は思わず身を引いた。と言うのも夏休み開けに最初に入った教室のような、こもった空気がもわっと顔をなめるようにあたったからだ。鈍いと言うような乾燥していると言うような、ほのかに木の香りの混じった匂いがする空気。息苦しい。


その間に彼は部屋へ入ると暗闇の中で壁に手を這わせカチッと電気のスイッチを入れた。部屋がにわかに明るくなると同時に、彼は換気扇もつけたようで、外から部屋の中へ風が流れ始めた。


 明かりのついた部屋は、大体10畳くらいだろうか。そんな大きさの部屋には天井まで届く高さの棚が両脇にふたつ、部屋の真ん中にひとつ置かれている。そのふたつに分けられた隙間のスペースには長机がひとつずつ縦に並ぶ。部屋の一番奥にはデスクも見える。学校で言うところの化学準備室のような雰囲気だ。僕は彼に言われた通り、改めてまだ息苦しさが残るその部屋に入った。


 まず目に入ったのは、長机におかれた大きな箱。これも母さんからの包みに入っていた箱と同じように木でできている。そのとなりには縁の欠けた壺、茶碗、石板。すべて古めかしいが骨董品には見えないので、おそらく彼の言っていた遺跡からの出土品なのだろう。部屋を進みながら棚を見ると、ガラス張りの引き戸からは、これもやはり皿や壺、丸まった古そうな書物が見えた。


 僕が部屋の中を好奇して見ていた間、彼は長机に箱を置き奥のデスクにどしっと座り込んで、何かノートに書き込んでいた。ぼうっと見た彼は、何気なしにこの風景の中に居ることがとても似合っているようにも感じる。


 しかしあるとき書き終えたようで、彼は大きく伸びをして息を吐いた。よくもまあこの息苦しい中で構わず息を吸えるなあと感心しつつも、周りの光景の異様さに、僕はこの人がどんな人かまた気になり始めた。辺りの状況から察するに、彼は何かしら古い物を集めている事は間違いない。しかも、骨董品ではないもの。では、彼は一体……。僕は彼を部屋の端からぼうっと眺めて大体そのような事を考えた。すると彼は伸びをしながら唐突に、


「僕は考古学者だよ。こう見えても、元准教授でもある」


と言った。あまりにも良すぎるタイミングに僕は一瞬びくっとする。


「ここね、僕が今までに発掘した物とか譲ってもらった物を保管している倉庫みたいな部屋で、まあここが僕の部屋でもあるんだけど、どうも出土品を管理する部屋が無くてね。仕方なく大学から棚を持ってきてこの部屋丸ごと使って保管しているってわけ」


そう言うと彼はデスクに肘をついた。


「ここにある物全部、その……」


「ああ、値は張るだろうね」


僕は顔が引きつるのを覚えながら笑って見せたが、心の中では胸を撫で下ろしていた。(触らなくて良かった……)


 だが、待てよ。先ほど彼は"元准教授"と言ったな。


「あの、今は何歳で……」


「28だけど」


 しかも28歳!? 三十路手前で元准教授とは、一体この人は……。


 分からん。


 僕は彼を上から下に見回した。准教授?彼が?にわかには信じがたい話だ。ぼさぼさの頭。縁の黒いメガネ。ブカブカな灰色の寝間着。来客用の緑のスリッパ。率直に言って、だらしない。


「幸助くん、そんな目で見なくとも……」


「あ、すみません……」


「ただね、矢永田(やながた)先生……前任の教授が辞めてしまってからは、機会が無くて調査には行けてないんだ。だから、それが送られてきてとても嬉しかったのさ」


彼は嬉々として笑った。満面の笑み。子供のような無邪気さをも含むその笑みからは、彼の最初のイメージとはまた別な物を感じた。人が変わったと言うのだろうか。なんだか嫌な予感がする。


「で、どうだい僕のコレクションは。なかなか凄いだろう?」


「はあ……」


「本当に?その顔はまだこの数々の出土品の凄さを理解していないようだね。いいだろう、説明しよう」


彼は勢いよく立ち上がり僕の前まで来ると、ちょうど手前にあった木箱の蓋を開けた。


 彼は「さあ!」と言わんばかりに輝いた目で見るよう促してくる。僕は彼の熱意に暑苦しさを感じたが、目で言われるがまま箱の中を覗き込んだ。しかし、


「ひいっ!」


 何てものを見せてくれる。


 箱の中には馬の頭蓋骨のような物が布地の上に置かれていた。予想外すぎて思わず僕は声を上げた。


 しかし仰天してる僕を傍目に、彼はどこからか取り出した白い手袋をはめると、さっとそれを持ち上げて僕の目の前に突き出した。


僕は今度は2、3歩後ずさる。


「君、幸助くん何してるんだ?ここをよく見てみたまえ」


彼は離れた僕に近づいてきて、興奮気味に言った。


「ここだよここ。この頭の口の裏を見てごらんよ」


彼は骨をひっくり返して口の中を見せてきた。僕は反射的に目を逸らしたが、結局好奇心に負けてその骨を見た。


 そこには干からびた鶏皮のような布みたいなものがこびれ付いていて、そこに金色をした何かが所々についている。


「これはね、古代のブルガリア辺りに生活していた遊牧民の長の墳墓から発見された副葬品なんだけどね。一般に遊牧民は、象徴である馬と一緒に死者を埋葬することが多い。だけど生前支配階級だった者は、馬車と共に埋葬されることもある。


 で、この長の墳墓からは馬車と共に馬が立ったまま繋がれた状態で見つかったんだ。それだけでも驚くことなんだけど、さらに驚くことは普通こういう馬は死者が生前に飼っていたのを殺して、主に金などの装飾品で飾るんだけどね、この馬にももちろんそれらはあった。でもね、この馬には口の裏に金箔が貼られていたんだよ!その時代、金の装飾品を身に付けられたのは一部の支配層だ。しかも当時の技術じゃあ純金を細く加工するだけで精一杯だったんだよ。でもこの頭蓋骨には金細工が施されていた」


「はあ……」


僕は彼の迫力に圧されて唖然とするが、釈然としない僕の態度を見ると、彼はさらに熱弁した。


「わかるかい!?これは歴史的な大発見なんだよ!当時の技術力では不可能なはずの加工が出来ているんだ!これは新しい発見なんだよ!面白くないのかい!?」


彼はその長身を僕に覆い被せて目を覗き込んでくる。それもあの頭蓋骨を僕の顔に近づけて。なので必然的に僕は海老のように反り返った。


「そ、そうですね……」


「本当に解ったかい?」


「凄い事なんだって、それはもう、たっぷりと……」


「そうかそうか、分かってくれたか!あ、そうそう他にもね……」


彼は頭蓋骨を箱に戻すと、また、今度は隣の壺に手を伸ばした。


「も、もういいです。十分わかりましたから!」


僕は咄嗟に止めようとした。しかし、


「何を言っているんだ。まだまだ始まったばかりじゃないか。これからもっと凄いもの見せてあげるから少し待っていなさい」


彼はそう言うと取ろうとしていた壺をとばして、部屋の真ん中の棚を開け、小学校でよく使うお道具箱のような、それよりは一回り大きい薄い箱を取り出した。


 が、ふとそのときに自分の腕時計に気付いて「おっと」と発した。


「幸助くん、すまないな。ちょっと午後から用事があるから、これはまた今度見せてあげるよ。次までお預けだ」


大丈夫です、待ってませんから。先ずはあなたが少し落ち着きましょう。遺構とか遺物とかには興味があるが、こうも詰め寄られると焦ってしまって入る話も入ってこない。


 将輝さんは箱を棚に戻して、スライド式の扉を閉め、留め具を掛けた。


 そのあと、彼はくるりと踵をかえすと、客人用の緑色をしたスリッパをすたすたといわせながら部屋を出かけた。だが、何かに襟口を引っ張られたかのように扉のところで立ち止まり、振り向いた。


「そう言えば、幸助くんは朝ごはんは食べたのかい?」


「はい。7時頃に」


「そうかそうか。じゃあ、ついでだから君も来ると良いよ。色々聞きたい事とか話したいことがあるからね」


「あの……どこにですか?」


「朝ごはんさ。僕まだなんだよ。外で食べようと思うから、君も一緒にどうかな、と。別に嫌ってんなら断っても良いんだよ?」


朝を外で食べるのか。なぜだか解らなくもない。あんなごちゃごちゃとした空間で、落ち着いて食事出来るとは考えにくい。第一、彼が料理を作れそうな人には見えない。どうせ今日一日は暇だし、これから寝食をともにする叔父さんなのだから、まずは色々と知りたい。


「いいえ、行きたいです」


彼を口角をじんわりとあげて微かに笑って部屋を出て行った。ついて来いということだろう。


 一階に降りると着替えに行っている将輝を待ってソファーにどっと座った。


 ふと見上げた頭上には、ステンドグラスのランプ。埃っぽい空気。せめて窓を開けて換気くらいはしてほしいものだ。カーテンを開けて日光も取り入れないと……。どうやら仕事は山積みらしい。


 僕がそんなことを考えていると、将輝さんが居間の横の扉から出てくるのが目に入った。彼は薄い青色のティーシャツを首にとおしながら、器用に扉を閉める。その時、ちらっと彼の引き締まった腹筋も目にはいった。先ほどのお土産を軽々と引き寄せた事もあるから、やはり彼がフィールダーであるのは間違い無いのだろう。それにしても、寝癖でボサボサだった髪を直すと、とても様になっていて改めてカッコいいと感じる。何となく悔しいのは何故だろう。


 彼は居間をひょいひょいと渡ってくると、部屋の隅に置いてあるハンガーラックから茶色のジャケットを取って羽織り、てっぺんに掛けてある日に焼けて赤茶けた黒いフェドーラ帽を被った。


「じゃ、行こうか」

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