神戸大倉山三鹿島さん探偵譚

佐々城 鎌乃

手紙

前略


 幸(こう)ちゃん。元気にしてた?そっちはもう春なんでしょうから随分と暖かくなっていることでしょう。お母さんは今湖の国フィンランドのヘルシンキにいます。フィンランドはまだ雪が残っていて寒いけど、風邪を引かないように頑張ります。


 前回までロシアのウラジオストクに居たんだけど、飛行機でひとっ飛びして行くのが何だか勿体なかったので、シベリア鉄道でモスクワに行ってからヒッチハイクでフィンランドの国境まで行きました。途中で見えたバイカル湖は、それはもう絶景でした! 何と言っても、通り過ぎるまでに20分もかかるの!かなり大きいのよ?


 さて、今回はあなたに話しておきたい事があってこの手紙を書きました。


 三鹿島 将輝(みかじま まさき)って人知ってる? お母さんの弟なんだけど、しばらくこっちで滞在するからその間その人に預かって貰って欲しいの。ざっと5ヶ月くらいかな? 多分もっとかかるかもしれないけど、その間仕送りが出来ないから、その間だけ。


 将輝には連絡してあるから、いつでも行っていいわよ。大喜びで迎えてくれるから。


 それと、一緒に送った包みはその人へのお土産だから、大切に扱ってね。


 じゃあ、またお便り書きます。


                               草々


                              速水 雪枝(はやみ ゆきえ)




    1


 草花が生を謳歌する4月。


 新しい生活が始まる4月。


 新しく高校生活が始まるはずだった4月。


 いや、この際それはどうでもいい。今はこの局面をどう乗り越えるかだ。


 僕は建物の入り口を前にして、場所を間違えたのでは無いかととても心配になっていた。


 薔薇やパンジーの咲く芝生の庭には玄関まで枕石が敷かれており、レンガ造りの壁には蔦が伸びている。三角の屋根には煙突、銅色をした雨どい、緑色をした窓。ひと目見ただけでそれがお金持ちの家だと分かる。


 僕はもう一度母さんの手紙を確認するが、大倉山でやはり住所の間違いはない。


 一か八かの突撃か、戦略的撤退か。頭のなかでメトロノームの針が両方に振れる。


 しかし、何の確証もなく撤退するのは空城の計にかかってまんまと撤退するようで気に食わない。


「よし、行くか」


 僕は覚悟を決め、恐るおそるその庭に足を踏み入れた。


 目に鮮やかな緑に囲まれたその建物は、近づくにつれて"家"というよりも"屋敷"と言った方が良いと思ってくる。周りの閑散とした住宅街からは明らかに浮いているし、尚且つそのどことなくメルヘンチックな佇まいが、場違いな雰囲気を醸し出していた。


 僕は芝生を踏まないように、枕石の上をそっと玄関の前まで歩いた。


 肩掛けのボストンバッグと、見た目によらず重い包みの入った紙袋を床に置き、ドアについたノックを叩いて返事を待つ。


 沈黙。


 もう一度。


 再び沈黙。


 何回か繰り返して10分くらいしたが、全く返事が無い。留守なのだろうか。まあ、いつ行くか連絡していなかったから、すれ違ったのだろう。僕は諦めて出直そうとカバンを背負った。


 しかし、僕が肩に鞄をひっかけたその時、突然がちゃっと扉が開く音がした。振り返ると、そこには玄関からの光に照らされて眩しそうに目を細めた男の人が居た。


 男の人は眠そうに目を擦りながら辺りをくるり見回し、ようやく僕に気付いて見下ろした。


「君、誰?」


彼はボサボサの頭を掻きながら、目を細める。


 大きい……。それが僕のこの人に対する第一印象。僕の背を余裕で通り越して、頭1つ分くらいの差があるように見える。僕の身長は大体170センチくらいなのでかなり高い。


 パジャマらしき服装で玄関に現れた彼はどうやら寝起きのようで、口をむにゃむにゃとさせて、やがて手で口元を抑え、大きな欠伸を1つした。僕は慌てて自己紹介する。


「あ、朝早くにすいません。初めまして、速水幸助(はやみ こうすけ)と言います。母の速水雪枝からここでお世話になるようにと言われて来ました。三鹿島 将輝さんですよね?」


すると彼はより一層目を細め、睨むように顔を僕に近づけてじろじろと見る。あまりに近いものだから僕は思わず仰け反る。


 彼はじっくりと角度を変えて違うアングルから少しばかり僕を睨むと、ある一瞬何かに気づいたらしく「ああ」と言ってそれまで眉間に寄せていた皺を解いた。


「そうだけど。そうかそうか姉さんの息子さんか。いやあ、気付かなくてすまない。……あれ?おかしいな。僕は断った筈なんだけど……」


ん?母さんの手紙には確か喜んで迎えるだろうと書いてあったはずだが……。


「まあいいや。どうぞ上がって」


彼はそう言うと眠そうな足で180度ターンして、家の中に入っていった。


 20代後半だろうか。母さんの弟だから30代だろうと思っていたので、僕は少し拍子抜けした。若干日に焼けてはいるが全体的に見て細身で背が高く、髪が襟まで伸びてる。寝癖があったりして一見だらしないが、よく見れば鼻筋の通った顔でもある。男の僕から見てもイケメンの部類に入る顔だ。


「お邪魔します……」


 僕は恐るおそる彼の家に足を踏み入れた。


 家のなかは電気がついておらず、窓から漏れる光が奥に見える暗い部屋をやんわりと照らす。明るい外面とは対照的に、中は陰気な雰囲気が漂っていた。


 好奇心で中の様子を窺いながら敷居をまたぐと、一歩目で足の裏に変な感触が走る。


 僕が慌てて足を退(ど)けると、そこには丸まった模造紙のようなものが転がっていた。目線を元の高さに戻すと、奥の部屋に続く廊下にも、本や紙が散乱している。まるで部屋の中で小さな竜巻でも起こったかのようで、建物の外観からは想像出来ない荒れようだ。


 僕が足の置き場に困っていると、いつの間にか姿の見えなくなっていた彼は、廊下の突き当たりの角からひょっこりと顔を出した。そして、


「ああ、そこの本とか場所変えないでね。分からなくなるから」


と言い顔を戻した。


「はい……」


 そこでふと僕は思う。彼は一体どんな人なのだろう、と。


    2


 僕には彼のほとんどすべてが謎で仕方なかった。


 事の顛末(てんまつ)は2週間前。家でごろごろとしてテレビを見ていた僕は、インターホンの音に起こされて玄関に行った。すると、例のやたらと重いお土産とか言う包みと手紙が届いていたのである。


 受験も終わり、晴れて高校生になった僕は、暇な春休みを謳歌していた。そんな矢先だった。


 母さんからの手紙はいつも一方的で、僕からの返信を全く受け付けない。一回だけちゃんと届いたらしく返事が返ってきたが、その時僕はひどく怒られたのを覚えている。返事を書く時間が無いから迷惑だ、とか、仕送りのお金をそんな事に使うなとか。まあこれに限っては一理あるとは思う。国際スピード郵便はそれだけでまあまあの金額がかかる。ましてや移動ばかりして同じ場所に5日と居ない母さんには、必然的に追跡をつけないといけないから、その分高くつく。


 しかしそれは分かるとして、一番理解に苦しむのは、母さんはこのご時世に携帯を持ち歩いていないと言うことだ。通話料が高いとか、落としたらすぐ壊れるとかで好かないらしいが、こちらとしては急用や、世界を旅する以上、治安の問題もあるので安否の確認等をしたくても出来ないのが腹立たしい。


 一度、定期的に来る近況報告が途切れて音信不通になった時があったが、その時1ヶ月くらい神経を削った事もある。理由はやはり厄介ごとに巻き込まれたとからしいが、その厄介ごとの規模が普通では無い。銀行強盗に遭ったとか、荷物一式全部盗まれたとか。だったら行かなければいいのに、と、いつも思うのだが、当の本人は「楽しんでやっているので口出し無用!」と言って仕事熱心なのである。


 そんな性格なので、今回も僕の返信には応えてくれず、有無を言わさず僕は全く知らない人の家に居候することになった。 母さんの手紙において、彼についての記述はほとんど無い。2通目に届いた手紙も住所のみだったのだ。


 唯一、彼が母さんの弟で僕の叔父であることは判っているが。


「君、確か名前は……」


「速水幸助(はやみ こうすけ)です」


彼は居間までひょいひょいと歩いていくと、機雷原の如き廊下を攻略中の僕に、名前を聞き直してきた。彼はもうソファーに腰かけて足を組んでいる。


 僕はその機雷原をやっとのことで通り抜け居間まで辿り着いたが、目の前の光景に思わず唖然とした。彼の座るソファーまでの道のりは、先ほどにも増して散らかっていたのだ。それはまるで僕を「来れるもんなら来てみたまえ」と言わんばかりに、嘲け笑っているようそこに広がっていた。一見して広い部屋なのに、こうも散らかっていると狭く感じるものだ。


 僕はここでまたふと思う。この人の所であと5ヶ月、いや、母さんの事だ、多分もっとだろうが暮らすことになるのに、僕はやっていけるだろうか、と。


 取り敢えず彼の近くに行かないと話が出来ないので、僕はその機雷原を、本などを踏まないようにゆっくりと抜ける。ボストンバッグが片側に寄ってバランスを崩しそうになったが、なんとかもう一方の紙袋で持ちこたえた。母さんの送ってきた彼への贈り物だという品が、予想以上に重かったのが功を奏した。


 中身がなにか気にはなるが、勝手に開けるのはいけないので、僕は取り敢えず彼に渡そうと持ってきたのだが、なにぶん重いものだから、僕の右手は悲鳴をあげていた。ここへ来るまで何度地面に置いたことか。


 その辺に下ろそうとは思ったが、言うまでもなくそんな場所はない。


 仕方ない。


 僕はふらふらとしながらも、何とか彼のいるソファーまで辿り着いた。


「お茶とかは出せないけど、まあ、そこにかけて」


「失礼します」


僕は彼と向き合う形でソファーに座り込んだ。


 辺りを見回しすと、埃を被ってはいるが赤や青、黄色をしたステンドグラスの傘がついた裸電球が、僕と彼の間の天井からぶら下がっている。その下には楕円形をした、ソファーに合わせて作られたであろう低めの机。他にも窓辺から漏れる光に照らされている高そうな皿や、木目の美しいシェルフ。一貫してお洒落に統一されている。この趣味は僕も嫌いではない。いや、かなり好みだ。


 僕は向き直り、改めて彼を見た。やはりこの人はお金持ちであることは間違い無いだろう。まあ少々整理整頓諸々の力が欠けているようだが。


「それで、確か僕のところに居候しに来たんだって?」


彼は深く腰掛け、真っ直ぐ僕を見つめて落ち着いたトーンで言った。深く腰掛けているのに、真っ直ぐ座っている僕の頭より目線が高い。


「はい。母から届いた手紙にここで預かってもらうよう書いてあったので」


「姉さんからの手紙ねえ……」


そう一言呟くように言うと、彼は「ふーん」とだけ言い、黙り込んでしまった。


 沈黙。


 換気をしていないのか空気が悪く、カーテンのひかれた暗い部屋には僕と彼の二人だけ。


 ーー沈黙。


「あの……都合が悪いようなら帰りますけど……」


僕は鞄を肩にかけようとした。しかし、彼は右手を挙げて僕を留めると


「ああ、いや、別に居てくれても良いんだけど、ちょっとねえ……」


と言い、また黙り込む。


 3度目の沈黙。


 しかし次の瞬間、彼は唐突に突拍子もない事を言い出した。


「いやね、ここ実は僕の家じゃないんだよ」


「へっ?」


思わず声が裏返った。


「ここ友達の家で、僕は一文なしなもんで居候してるんだけど、その友達が滅多に帰ってこないから、事実上僕が住んでるってことになってるんだよ」


彼は寝癖で四方八方に跳ねたボサボサの頭を掻きながら、肩をすくめた。


 彼の家じゃない?確か表札は……いや、確認していない。迂闊だったか。


「だから君がここに住むためには友達に許可とらないといけない。実を言うと先週姉さんから急に手紙が届いて、君の面倒を見ろって言ってきたんだよ。僕がここに住むときだって友達を説得するのに骨を折ったのに、もう一人来るとなると、ねえ……」


彼は上目遣いで僕に言った。


 僕は「そうですか……」と言葉を濁した。一体全体どうしたものか。母さんから言われて来たのに、この分だと帰らなければならない。しかし、帰ったところで生活費はほとんど無い。困ったものだ。


 だが、母さんの事だ。どうせ手紙だけよこして一方的に言ったのだろう。もしそうだとしたら、僕はさっさと退散しなくては。


「あの……ご迷惑をおかけするわけにはいきませんので、僕は帰らせて頂きますね」


「済まないね」


彼は申し訳なさそうに自信なさげな小さい声でポツンと言った。


 僕は立ち上がり一礼すると荷物を背負った。そこでふとソファーに忘れ物が無いか見回すと、紙袋の存在に改めて気付く。


「あ、あのこれ母からのお土産です。あなたに渡して欲しいって……っ!」


見た目に騙されて普通に持ち上げだが、上がらない。もう一度、今度は倍の力で持ち上げる。


「なんだい中身は?」


彼は興味深そうに首を伸ばして紙袋を見た。僕は重たくて力んでいたので、その質問には答えられない。なので、代わりにソファーの間に置いてある机に紙袋をさっさと移した。


「お土産としか聞いてないので中身は何か知りませんが、どうぞ貰ってください」


「ああ。済まないね、来るだけ来させておいて。ありがたく頂くよ」


彼は僕が置いたのを見ると、その紙袋をすうっと軽そうに自分のところに引き寄せた。


彼があまりにも簡単になに食わぬ顔でそれを引き寄せたものだから、僕は少し拍子抜けした。実は自分の思い違いで、本当は軽いのではと思ってしまうほどであった。一見細そうな外見からは想像もできないくらい、彼は力があるらしい。


 やはりこの人は謎だ。自分の家ではない家に住んでいたり、重かった紙袋をひょいっと引き寄せたり。部屋の散らかり具合もしかり。


「それじゃあ帰りますね。突然押し掛けてすいませんでした」


僕はじんと痛む手を握ったり放したりしてから一礼する。彼もまたそれを見ると立ち上がった。しかし、座っていれば勝(まさ)っていた身長も、彼が立ち上がってしまうと途端に自分が小さく思えてくる。姿勢が良いので尚更にそう思う。


「いやいや、また遊びに来てくれると嬉しいよ。当分ここには居るから」


 彼はそう言うと笑みを浮かべた。その屈託の無い笑みは、自然と爽やかな風が吹くように穏やかで、わざとらしいくない優しさを感じた。


「はい。失礼しました」


 僕はそれを横目に、またあの居間と対峙する。先程の道を辿ればなんとか無事に抜けられるだろう。僕はバッグを前に抱えて歩きだす。


 しかしそう見るや否や、彼は紙袋から包みを取りだし、それを開け始めた。ガサガサと包装紙をはがす音がする。僕は振り向こうと思ったがバランスを崩しそうになったので、それを歩きながら横目で見ていた。


 すると、彼は突然興奮ぎみに「おぉ!」と声をあげた。僕は片足立ちになっていたが思わず振り返る。


「君、幸助くんだったね。ちょっと待ちたまえ。気が変わった。ここに居て良いよ」


彼は包みの中を興味深そうに顔を近づけて覗き込んでいる。


「えっ?本当ですか?」

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