第46話 物陰のアイドルコール(中編)

 会場内に入ってすぐ、真っ先に圧倒されたのは観客席だった。

 その数、2万人。自分がステージに立つわけではないが、それがステージに立つ人間を萎縮させ得るほどのものだということは想像できた。


「あ、ここだ。ちょっと、修さん! 早く早く!」


 既に人でいっぱいになりつつあった客席へ、桧山さんに無理やり押し込まれる。


「あ、すいません。」


 押された勢いで隣の席の人にぶつかってしまった。


「大丈夫です!」


 ぶつかられたことが幸運だとでもいうかのような明る過ぎるほどのオーラに、ぶつかったこちらがたじろいでしまう。

 こんな人も来るのか、と驚く。若い女性だった。彼女はその奥隣の席に向き直ると、楽しそうに話をし始めた。そこにいるのも同年代くらいの女性。20代前半といったところだろうか。ビー玉のように純粋な色をしたその目は、会場のどの照明よりもキラキラと輝いている。


「これ、この子だよ!この子が一番カワイイの!」


 片手に持ったスマホの画面を見せつけているさまは、印籠を掲げる黄門様のようでなんだか可愛らしい。


「知らなかったよ。アイドルとか好きだったなんて。」


 得意げな顔で、その女性は答えた。


「FORTEだけだよ。私がずっと応援してるのは。」


 会場を見渡すと、彼女たちのような女性ファンがちらほらと見受けられた。2年前はほとんどが男性だった。私の中のイメージが当時のままだっただけに、急に知らない世界へ放り込まれたような気分になる。

 FORTEは私の知っているアイドルとは違う、何か別のものになってしまっていた。応援したい気持ちは変わらないが、体の中がなんだかむず痒くなった。




 開始時刻が近づくにつれて、会場に期待と緊張の入り混じった空気が流れ始める。始まってしまえば今までの自分に戻れなくなるのではないかというような不安が、ふと生まれた。

 それでもその始まりを心から求めてもいる。確実に変わってしまうことを躊躇する気持ちと、前に進みたいと願う気持ちが交錯すると、身動きの自由は奪われ、ただ時間が流れていくのに身を任せることしかできなくなってしまう。新しい何かの誕生を待ち望むような、そんな感情が会場全体で共有されているように感じる。


 希望、か。


 将来だとか、期待だとか、夢だとか。そんな言葉が自分の頭の中に流れてくるなんて思いもしなかった。その似つかわしくなさに恥ずかしくなって、顔を赤らめてしまうくらいに。


 視線を感じて隣に目を向けると、桧山さんがニヤニヤしながらこっちを見ている。


「硬いよ、修さん。」


 強く背中を叩かれると、桧山さんと初めて行った居酒屋を思い出した。二回りも年下の先輩に、人生で大切なことを説教されたような気分になった日のこと。あの時はまだ、こんな関係になるとは思っていなかった。


「修さんが歌うんじゃないんだから。」


 桧山さんが高らかに笑う。それを見ている自分も、彼と同じような人間になれるのではないかとおかしな期待を抱いてしまう。さっき頭に浮かんだような言葉が似合うのは、きっとこういう人なのだろう。


「そういえば、桧山さんの夢って何だったんですか?」


「夢?」


 さっきまでの笑いを含み残しながら、眉を上げる。


「一番最初に飲みに行ったときに言っていた、夢みたいなもの、でしたっけ。」


 「ああ」と言いながら、手元のサイリウムをいじっている。


「宇宙飛行士。」


「…宇宙飛行士。」


 あまりの突拍子もなさが、桧山さんらしいと思った。


「笑うなよ。」


「笑ってないですよ。」


「若い頃の話だよ。結構カネとか掛かんだって。いろいろ大変なんだよ、宇宙飛行士は。」


 今だって十分若いですよ、とは言わない。


「なんでアイドルだったんですかね。」


 サイリウムから私の方に視線を動かす。


「宇宙飛行士の次が?」


 そのとき辺りが徐々に暗くなり、それに合わせて音楽が流れ始めた。


 OVERTUREオーバーチュア


 “これから何かが始まる!”という思いを自然に沸き起こらせる序曲には、歌詞という名の言葉さえ必要としない。静かな水面にしずくを垂らしたときのように、曲に合わせた声援が波紋になって一瞬にして会場全体へと広がっていく。それがもともと声であったことを気付かせないほどに、その振動だけが私の体に伝わってくる。


「宇宙っぽかったからだろ。」


 あまりにも的外れに思えた桧山さんの答えは、一瞬にしてかき消されてしまった。




 10人のメンバーがステージに姿を現し終えると、一瞬の静寂が訪れた。ステージがまだ完全に照らされていないため、彼女たちの表情までは定かではない。

 次の瞬間、途轍もない光に包み込まれた。反射的に目をつむってしまう。なんとかして瞼をこじ開ける。急に朝日が昇ったかのような錯覚。

 いつの間にか、あの曲の前奏が流れていた。

 前しか見えないほどの前向きさをたずさえた曲調は、既に熱を帯びていた会場を最高潮まで引き上げるのに、イントロだけで十分だった。


“OPEN”


 前方のモニターに大きく映し出された曲名のもと、会場全体に張り巡らされているステージ。アリーナのちょうど中心にある中央ステージに集まったメンバーの笑顔は、真夏の太陽のような照明に照らされて輝く。照明が落ちている観客席の暗がりが、その輝きをよりいっそう際立たせている。


 壇上で歌われる歌詞とリズムに合わせた大声援が合わさって、一つの楽曲を作り出している。その声援は間違いなくFORTEに送られていた。ステージ上のFORTEであり、これまでのFORTEであり、これからのFORTEに向かって。

 しかしそれはアリーナの中で常に反響し合っている。そのそれぞれが声援を送る人達自身にも向けられているような、あるいはそれが楽曲に乗って、新しいメッセージとなって他の人々に届いてもいるような。この時この場所でしかあり得なかった共鳴が、唯一無二の楽曲となっていた。


 メンバーはみんな笑っていた。きれいな笑顔だと思う。全員が、前に進むための希望を心から信じているように気持ちのいい顔をしている。

 最初に見たときのこわばった表情が懐かしい。人はこんなにも短い時間で変わることができるのだ。その姿さえもまた、希望を信じるための根拠を示してくれているような、そんな気がした。

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