アイドルファン 最終章

第45話 物陰のアイドルコール(前編)

 秋口になっても気温が下がる気配はない。うだるような残暑とともに、一つの仕事がしぶとく続いているのも、もしかしたらこの人のおかげなのかもしれない。


「とんでもなくあっついなー。そういえば修さんはライブ初めてなんだよね?」


 しかめている顔とは裏腹に、その暑さを楽しんでいるようなところがある。力の有り余った日光がふりそそぐと、長髪の明るい茶色が輝いた。


「直接見るのは、最初のお披露目会以来ですね。」


「え? あれ、行ったの!? すげえ、ガチじゃん! なんで今まで来なかったのさ?」


「いや、急に人気になったのでチケットとかも取れなくなって。」


 桧山さんとFORTEのライブに向かっている。いつもの通り、半分無理やり連行されるようなものだったが、私はそれを断らなかった。桧山さんがペアチケットを取っていたところ、一緒に行く予定の友達が行けなくなってしまったらしい。それで急遽私に白羽の矢が立ったというわけだ。


 本当のところ、あのときからライブに行くことがなかったのは、単にチケットが取れなかったからというわけではなかった。確かにいつも気付いたときには売り切れてしまっていたから、桧山さんに言ったことは嘘ではない。ただ、取ろうと思えば取れたはずのチケットもあった。

 あれ以来ずっと、“どの面さげて応援なんてしてるんだ”という気持ちが、心の隅に居座り続けていた。自分のことさえしっかりできていない私なんかが、面と向かって応援することなんてできなかった。

 まだそれが無くなったわけではない。まだ彼女たちを応援するに値する人間になれたと思えているわけじゃない。でも、そろそろいいんじゃないか。もう、あの頃の自分に戻ってしまうことはないのではないか。そう自分を信じようとする気持ちが、少しずつ生まれ始めていた。


 それが当然であるかのように、毎日通うことができている職場。あまりにも自然すぎて、二度とこういう場所に足を踏み入れられないだろうと思っていたことなど、忘れかけてしまう。

 この仕事が好きなわけではない。いつも楽しいと思えるわけじゃない。それでもこれを続けていることで、自分も何かの一員になれた気がする。


 きっかけはFORTEだった。FORTEであり、高橋奈緒だった。

 本当ならば苦手なはずの表舞台おもてぶたいで、食らいつくように必死で笑顔を振りまいている。大勢の人の前で、あたかも明るい声で話している。その姿に勇気をもらった。

 このままではいけない。

 そう何度も思っていたはずだったけれど、実際に体が動いたのはあのとき、彼女を見つけてからが初めてだった。

 彼女を応援したい。

 胸を張って、声援を送りたい。

 だから私は頑張ろうと思えた。そして頑張ることができた。頑張ろうとする人間にとって、この世界は思っていたより悪くないことを知った。




「あ! あれ! 修さん、あの人って…」


 アリーナの開場までには時間があったが、周りにはグッズを売っている露店が軒並み並んでいた。何らかの赤紫色グループカラーを身に着けている人達が、その空間にあふれかえっている。

 桧山さんの指さす少し先に、人だかりが見えた。その中心に、ひときわ背の高い金髪姿が目に飛び込んでくる。


「アイディさんだ。」


「やっぱそうだよね! 初めて本物見たわ。ユーチューブとかではよく見てるけど。」


「アイドルのこと、最初に教えてくれたのはアイディさんだったんですよ。」


「え。喋ったことあんの?」


「お披露目会の時に一回だけ。」


「すげえ! あいさつしに行こう!」


「いや、さすがに覚えてませんよ。2年も前なので。」


 力づくで引っ張られるのを、何とか堪える。

 やっぱりアイディさんは凄い人だった。近くを通ると、離れた場所から見るよりも多くの人だかりができている。アイディさんは2年前から、アイドルの情報を提供するユーチューバーとして活躍の場を広げている。特に彼が訪れるアイドルライブの現地レポートは、どうしても現場に来ることのできなかったファン達にとても歓迎された。

 どうやらその手には今も棒状のものがしっかりと握られている。その先端に君臨するタブレット端末を、人々は崇めるように見上げている。


「忙しそうだからやめときましょう。」


「修ちゃん?」


 人だかりの脇を通り抜けようとしたとき、聞き覚えのある声が私を捕まえた。振り返るとそこには、黒縁メガネで大柄の金髪男性と、その周りをわらわらと囲む訝し気な顔たちが、こちらをじっと見つめていた。


「修ちゃんじゃないですか!」


「あ、…お久しぶりです。」


 まさか覚えられているとは思わなかった私と、状況を把握できていないアイディさんの取り巻きは、同じように呆気あっけに取られている。桧山さんとアイディさんの目だけがキラキラと輝く。


「だから言ったでしょ? また会えるって。」


「ありがとうございます。覚えていてくださって。」


「当然ですよ。あのお披露目会のとき、ちゃんとFORTEを見に来てたのは、僕と修ちゃんくらいのものですから。」


 相変わらず遠回しにものをいう人だ。でも今日はこの前よりも、彼の言うことが理解できるような気がしていた。


「他のライブには来てたんですか?」


「いや、今日が初めてです。」


 お、と少し驚いたような顔をして見せる。


「じゃあもうこれで、FORTEからは抜け出せなくなりますね。」


「そういうものでしょうか。」


 大きな口の口角を上げて、嬉しそうに語りかける。


「会えば会うほど楽曲が変わってしまうのがアイドルなんです。これから出会うもの全てが名曲になる。冷静な判断なんて、絶対にできなくなりますから。」


 初めて写真を見つけたときよりも、お披露目会で直接見たときよりも、テレビの映像に乗っかる姿を目にしたときよりも、今の奈緒の方がはるかに魅力的だ。そこには奈緒の成長だけではなく、私自身の思い入れが大きい部分を占めていることも分かっている。

 分かったうえで、それでいいと思えていた。むしろそれいいのかもしれないと、アイディさんの話を聞いて気付いた。


「冷静な判断なんかしたって、つまらないですからね。」


 大きな手が、私のいかにもひ弱な手をぎゅっと握りしめた。


「それでこそ、僕が見込んだ修ちゃんです。」


 周りの取り巻きはすっかり置いてけぼりだ。


「推しは誰でしたっけ?」


 2年前に返し忘れたままだった答えを、間髪入れずに相手に送る。


「高橋奈緒です。」


 満面の笑みを浮かべた派手な大男と、グータッチを交わす。不思議とつられて私も笑ってしまう。私の顔も、ちゃんとこういう表情を覚えてくれていた。




「ちょっと! 置いていかないでよ、修さん!」


 アイディさんが配信を再開し始めて、桧山さんの存在を思い出した。アイディさんだけでなく、この人が誘ってくれなかったらこの場所で笑顔になることもなかった。


「ありがとう。桧山さん。」


「は? なんだよ、気持ち悪いな。」


 明らかに嫌そうな顔をして、スタスタと先へ進んでいってしまった。

 桧山さんがあの日、声をかけてくれなかったら、仕事だって続けられていなかったかもしれない。アイディさんと出会わなかったら、ここまでFORTEを追いかけていなかったかもしれない。高橋奈緒がいなかったら、今でもまだあの部屋の中にい続けていたかもしれない。


 はたから見れば大きな変化はなかったかもしれない。自分が大したことのない人間だということは何も変わっていないし、これからも変わることはないだろう。

 でも、あの頃の自分とは全然違う。他の人と比べて大したことがなかったとしても、2年前までの自分と比べれば、大きな進歩だと思える。ただそれだけで、誰にも影響を与えることのない、見えないくらい小さな変化だけで、自分をここに来させるだけの自信を生んでくれた。

 今なら、心から応援することができる。そしてあの時のお礼を伝えたい。


“頑張れ”も

“ありがとう”も

“おめでとう”も


 一言で表すことなんてできないから、私は君に声援コールを送る。

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