第44話 わたし
何度もやってきたライブであるはずなのに、たった一人で立つステージはいつもと全く違っていた。
うまくいくかどうか、失敗しないかどうか。
盛り上がってくれるだろうか。受け入れてもらえるだろうか。
その全てが、自分一人の責任になる。
ましてや今日はライブの
凛のパフォーマンスが終わってから、周りの音が少しずつ遠くなっているように感じる。集中できているのだと考えようとはしてみるが、それともどこか違っているような、初めての感覚。自分と自分以外との間に、薄くて見えない一層の膜を隔てているような感じ。私はそれを携えて、ステージに出るタイミングを待っている。
急に目の前に霞がかかった。
何が起きたのか分からず、ただ呆然と立ち尽くす。
そうしているうちに、私の意志とは関係なく、目の前の風景が変わり始めた。
見覚えのある映像が、霞の上に流れている。
ぼんやりと眺めているうちに気付く。今までにあったことが、走馬灯のように目の前に広がっていた。
昨日のみなみとのやりとり。
その前の1stステージ。
馬場ちゃんや、メンバーとの、辛かったときや嬉しかったとき。
高校に行きながら通い続けたレッスン。
クラスメイトの反応。
オーディションの時の私。
そして、桜木美鈴のこと。
ほとんど通わなかった中学校のこと。
ちょっとだけ辛かった小学校のこと。
私をからかった子達と、かばってくれた男の子。
梨花ちゃんと一緒に学校に通ったこと、
通わなくなった時のこと。
今、その全てが私の目の前で起こっているかのように、鮮明に映し出されている。
スタッフの人から、“GO”の指示が出たようだったが、その残像が邪魔をして前に進むことができない。体を動かそうとしない私を見て、周りのスタッフさん達が怪訝そうな顔をする。
しばらく動かなかったため、何か声をかけられ始めたようだ。
けれどその声が聞こえない。
目を合わせて、動いている口を確認することはできても、それが何を言っているのか、音として認識することができない。
ステージに暖色の照明が一つ、パッとついた。
私の目がそちらに反応すると、体もそこへ引き寄せられるようにして動き出す。
さっきまでの映像はどこかへ行ってしまった。けれど後ろを振り返れば、すぐにでも取り戻すことができるような気がした。
音楽が流れ始めると、照明の色が寒色に変わる。
曲だけが聞こえている。
それ以外の音は、まだ聞こえないままだ。
ただその場に立っているだけなのに、心臓の動きが激しくなる。
それが不安なのか、興奮なのかは分からない。
そんな状態でも自分が今すべきことだけははっきりとしていた。
“私はただ踊るだけ”
音楽に合わせて、体が動き始める。
練習を重ねたダンスはいつも、頭で考えるよりも前に体が反応してくれる。
何も考えていない。
タイミングや大きさ、角度や視線。何一つとして、頭の中にはない。
ただ心地良く浮遊するような感覚だけがある。
操っているような、眺めているような、何かに乗っているような、不思議な感覚。
不意に思い出の残像に促された気がして、観客席の方に顔を上げる。
そこには席を埋め尽くすたくさんの人達が、私を見守ってくれている。
色とりどりのサイリウム、私の名前や顔が付いたタオルやうちわ。真剣に見つめる顔と無防備な笑顔。いろんな顔があるけれど、全てが幸せそうに見える。
握手会へ何度も足を運んでくれている人など、知っている顔もいくつかあった。
“そんなに汗だくになって、ちゃんと着替えは持ってきてるのかな。”
自然と表情が緩んでしまう。不思議と余計な力が抜けて、体の動きは滑らかに、ダンスの振りもより大きくなる。
これまでになくダンスに集中できているはずなのに、そんなことまで頭に浮かんできてしまうのは、余裕があったからというわけではない。
踊ることは楽しい。
ただそれとは違う部分にも、確かに楽しさを感じ始めていたからだった。
あっという間に曲が終わった。
それでもまだ、周りの音は戻ってこない。
あとは最後に挨拶をして終わり。
そんなときになって、またステージに出る前の残像が戻ってきた。
踊っている自分が、時間をさかのぼって映し出されていく。
褒められている…?
目の前に、私のダンスを褒めてくれている人がいる。
馬場ちゃんにも、美鈴にも、たくさん褒めてもらった。
私のいいところは踊っているときに出るんだ、って。
今の自分がここにいられているのは、そうやって認めてくれる人がいたから。
けれどこの人は、どうやら馬場ちゃんでも美鈴でもない。
だとすれば、それが誰であるかは決まっていた。
ファンの人だ。
数は少ないけれど、私を推してくれている人達。
顔はよく見えないけれど、表情だけならなんとなく分かる。
我が子を見守るような優しい表情で、ただひたすらに私を褒めてくれる。
その人に褒められるということが、何よりも嬉しい。
この人達がいたからこそ、私はここまでこれたのだ。
残像はいつの間にか消えていて、目の前には心配そうに見つめる彼らの姿だけがある。
それは空想のものではなく、実際にそこにいるファンの人達だった。
ざわざわとした声が聞こえる。
「私は…」
言葉を発して初めて分かった。
声が震えている。頬に暖かいものが流れている。
「あれ、…ごめんなさい。」
悔しくて、悲しくて、泣いたことはたくさんある。それでも人前では絶対に泣かなかった。そういう涙はパフォーマンスだから。なぜだか昔からそう思っている節があった。
これが何の涙なのかさっぱり分からない。堪えようとする前に、何の予兆もなくそうなってしまっていたのだから、どうしようもない。
当の本人がそうなので、見ている人達はもっと困っているはずだ。そんな姿を見せたことのないメンバーが、急に何もないところで泣き出すのだから。
にもかかわらず、そんな状況を一番最初に受け入れたのは、彼らの方だった。
「頑張れー!」
「大丈夫!」
「ゆっくりでいいよー!!」
声、声、声…。
その場の多くの人達が、こんな私に声をかけて応援してくれている。
ライブではいつも“FORTE”としてステージに立つ。観客席はあくまでFORTEのファン。
でも今、ステージに立っているのは自分だけだ。
今、自分のことを応援してくれている人たちが、これだけいる。
“誰かに頼っていいんだよ”
お母さんの言っていた言葉の意味が、少しだけ分かったような気がした。
それなのに涙の勢いは激しくなるばかりだ。どうにかしなければという焦りと、そんな自分を見守ってくれていることへの安堵感や嬉しさに、体を乗っ取られているようだった。
「私は…、アイドルには向いてない…と思います。」
もうどうにもならなかった。
時間内に涙を止めるのが無理だと分かって、話し始める。
大きくなっていた声援が、私の声を合図にゆっくりと静かになっていく。
嗚咽が出そうになるのを必死にこらえた。
「でも…、でも応援してもらうのは…、すごく嬉しいです。」
とぎれとぎれになる言葉を、しっかりと聞いてくれている。
言葉が途切れるたびに、後押しするような声援が上がり続けた。
「楽しんでもらうのは…、好きです。」
本当のことを話すとき、もしかしたら人間はこうなってしまうのかもしれない。こんな自分を今まで知らなかったということは、つまりそういうことなのだ。
「メンバーと一緒に頑張るのも…、本当はすごい楽しいです。それを…表に出すのが苦手なんですけど…、私は今まで生きてきた中で……、今が一番幸せです。」
我ながら口をつくのは中身のないことばかりだ。結衣や真由、馬場ちゃんや凛と比べられてしまうことさえおこがましい。それでも声援だけは、ずっと私に味方をしてくれる。
「凛ちゃんみたいに…、ずっとアイドルを目指してきたわけじゃないんです。だから…、自分がここにいてもいいのかって…、ずっと思ってて…」
私の言葉が止まるたび、それをきれいに声援が埋めてくれる。
「ごめんなさい…。それでも、やっぱり楽しいんです。幸せなんです。私はFORTEが…、大好きなんです。好きなだけで…、楽しいだけで…、ここにいることはいけないことですか…?」
認めてほしかった。
いつでも浅はかな自分を、認めてほしかったのかもしれない。
今までで一番大きな声援は、そんな私を否定しているとは思えなかった。
“これで、よかったんだ……!”
また俯いてしまう私の頭に向かって、シャワーのように声がかかる。
“ちゃんとファンの人達の方を向いて!”
みなみの声が聞こえたような気がした。
下を向いていた顔が反射的に上がる。
私の言葉を待ってくれている人たちの顔が、まだそこにはあった。
いつまでも待っていてくれる。そんな気さえする。
「だから、みんなで一緒に頑張りたい。新しいメンバーも一緒に…、10人で頑張っていきたいんです。」
「おおーーー!!」
私が新メンバー加入に前向きになっていたことを、ファンの人達はまだ知らなかった。
「今までは他のメンバーに任せてしまっていたけれど、今度は私も、FORTEを引っ張っていけるような存在になりたいです。これからも応援、よろしくお願いします!」
柄にもなく高く張り上げた声は、そのほとんどが裏返ってしまった。
慣れないことをすると失敗する。それでもそんな失敗を悔やむ気持ちは全くない。
むしろそういうものが全て、張り上げられた声と、流しきった涙とともに、どこか遠くへ行ってしまった。
共鳴し合う歓声と、それに呼応し始まるコール。
全てが終わった会場は、今日一番の熱気と温かさで包まれていた。
私がそれを背にすると、パフォーマンスを終えた4人がステージ脇で私を待っていた。
彼女たちの全てを包み込むような優しい表情を見た途端、おさまっていたはずの涙がぶり返す。
その場で立ち尽くしてしまう私に、馬場ちゃんを先頭にして4人が駆け寄ってきてくれる。どうしようもない私を、彼女たちはいつも優しく迎えてくれる。その優しさのせいで、流れる涙をせき止めるものが私の中になくなってしまった。
そんな私とは対照的な笑顔で、彼女たちは私を抱きしめてくれている。互いに何を言うわけでもない。何をするわけでもない。それでも私達はそれが何なのか分かっていた。私に欲しいものがあったのだとしたら、それはきっと、これのことだったのだと思う。
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