第41話 サバイバル②
「私、もう辞める。」
誰に向けてでもなく発されたみなみの声は、決して大きなものではなかった。それでも少し離れている私の耳にさえ、しっかりと届いていた。
「何言ってるの?」
すぐそばにいた希美が困ったような顔でなだめる。
「ここまで頑張ってこの結果だもん。私には向いてなかったの。」
「そんなことないよ。」
「あるよ!」
思い切り踏みつけた右足が、部屋中に嫌な響きの音をはしらせる。私の目が覚めた先は、そんな場面だった。
「奈緒!大丈夫なの?」
自分が体を横たわらせていたらしいそのすぐそばで、馬場ちゃんがしゃがんだまま私を見上げている。
「あれ?わたし…」
「急に倒れたんだよ、ステージで。覚えてない?」
まだ少し頭はぼーっとしていたが、子犬のような瞳で心配されると、なんだか申し訳なくなる気持ちはあった。
「ごめん、あんまり覚えてないや。」
「そっか。でも大事じゃなさそうでよかったよ。疲れと緊張からくるストレスが原因だろうってさ。」
こくりとうなずいては見せたものの、気持ちは既に彼女よりも後ろの方へ移っていた。私の名前を口にすると、一方は心配してくれている眼差しで、一方は目にいっぱいの涙を溜めて、こちらを見ている。
「私だって、センターになりたかった…!」
言葉の勢いは次第に強くなり、叫び声が泣き声へと変わっていく。
「歌だってダンスだって、メインになってやりたかった! いつもいつも同じようなテレビのお仕事ばっかりで、こんなの私が思ってたアイドルと全然違う…!」
呼吸を乱して泣きじゃくる背中を、希美は何も言わずに優しくなでる。
みなみの気持ちが痛いほどわかった。
自分が彼女と同じ状況になっていたとしたら、恐らく私も同じことを考えただろう。
「私なんかいなくたって、何にも変わらないよ!」
だからこそ、何か声をかけてあげたかった。力になることができればと思った。でも、今までそんなことをした経験なんてなかったから、どんな言葉をかけたらいいのか分からなかった。
「大丈夫だよ、みなみは。」
私の方を向いたみなみの顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「奈緒はいいよ! 明日も出れるんだから! よかったじゃん…。私の気持ちなんて、分かるわけないでしょ…!」
「みなみ、そんな言い方…、」
希美の声を振り切って、みなみは鼻水もぬぐわずに叫ぶ。
「歌もうまいし、ダンスもできるし、私なんかより顔だって可愛いじゃん、奈緒は! だから黙ってたってステージにいられる。でもね、私みたいなのはそれじゃダメなんだよ。ちょっとでも目立つことをしないとダメなんだよ? すぐに忘れられちゃうんだよ? だからやりたくないことでも、必死にやってきたのに…! それなのにさ…、それなのにやっぱり、可愛い子には敵わないんだよ…」
「わたしは…!」
高ぶる感情と、涙と、乱れる息と。いろんなもので言葉がせき止められてしまう。
言い返せないということは、みなみの言うことを受け入れているということなのだろうか。
みなみの顔は伏せられていて、希美も何も言わなかった。ただただ優しく、心も体も弱った背中をゆっくりとなでてあげている。
このまま何も言わなかったら、みなみが正しかったことになるような気がした。
でも、それじゃダメだ。
みなみの言ったことは、全てが間違っている。
私のことも、みなみ自身のことも、全部。
それをどうしても伝えたいのに、言葉だけが出てこない。
胸のあたりまでは来ているような気がするのに、そこからどうしても上がってきてくれない。
苦しい。
喉の奥に言葉がひっかかかってしまって、息が詰まる。
そのどうしようもない苦しさと悔しさから、言葉の代わりにこらえきれなくなった熱いものが、目じりからゆっくりと流れた。
「ああ…。」
希美がこちらを見て声を漏らす。一番困ったのは、挟まれている二人だろう。
馬場ちゃんも何も言わず、私の体をさすってくれた。
「奈緒も、大丈夫だから。今は二人とも終わったばっかりだから…。 ちょっと熱くなってるだけだよ。…ね?」
本当は希美だって泣きたいくらいの気持ちであるはずだ。それなのに彼女は、そんな姿を私たちの前では決して見せなかった。
なおさら私は自分を落ち着かせようと努めた。
けれど、どうしてもうまく声を出すことができない。
声にならない音が、ぶつ切りになって漏れてくるだけだった。
“そうじゃないんだよ! わたしは…!”
「大丈夫だから。」
包み込むようにやさしく、それでいてよく通る声で、馬場ちゃんが言う。
「私は分かってるよ。奈緒はさ、今までが辛かったんだもん。やっと、ここまで来たって感じだよね。」
その口ぶりは決して嫌味なものではなく、自分の育てた子のことを語る親のようにただしみじみと話した。私の顔が余計に熱を帯びる。
「私だって、知ってるよ。誰も見てないところで、一番努力してたのは奈緒だもんね。」
思いがけず、それを口にしたのは希美だった。
馬場ちゃんがゆっくりとそちらを振り返る。
ぼやけた視界で私も希美を見つめる。
「みんなが帰った後とか、オフの時だって頑張ってたの、知ってるよ。本当にマンガみたいにね。こんなに頑張ってるのにー、ってずっと思ってたのは、私だけじゃないはずだよ。」
希美の目はずっとみなみの方を向いていた。
そういう姿を見られていたという恥ずかしさと、見ていてくれたことへの嬉しさで、体中がむずがゆい。そうやって何も言わず、私のことを見守ってくれていたのかと思うと、止めなければいけないはずの涙が、余計に止まらなくなってしまう。
「見せるのが下手なんだよ、奈緒は。」
やっぱり、ずっと一緒にいたメンバーなんだ。
だからこそ、私達でしか通じ合えないことがあるんだ。
みなみのことを見てきた私にだって、同じように伝えなければいけないことがある。
「私は…!」
さっきよりも少しだけ、はっきりした声が出た。
「みなみのことが、うらやましかった…!」
本当の気持ちは、声にするたび嗚咽が出る。
苦しいけれど、それをなんとか抑えながら、言葉をつむいでいく。
「私は、みなみみたいに明るくないし、……喋れないし、…笑ったり、怒ったり、……気持ちを出すのも、得意じゃない」
しっかり通じているか分からないほどにたどたどしい。
それでも希美と馬場ちゃんは、こちらを見てしっかりと聞いてくれている。
顔こそ向けていないものの、みなみも耳を傾けてくれているような気がした。
「みなみは、全部できるじゃん。」
みなみの肩の震えが治まり始めるのに合わせて、私の呼吸も落ち着きつつある。
「それが、すっごい羨ましかった。」
そこまで言い終えると、苦しかったものが一気に和らいでいく。
ほっと息を吐くと、目の前の馬場ちゃんと目が合った。
彼女は私に、にこっと笑いかける。
「…みなみは、何のためにFORTEやってるの?」
「……何のため?」
みなみが私に、ようやく反応してくれた。
「そう。どうしてみなみはアイドルになったの?」
「アイドルが、…好きだったから。アイドルになって、私も人気者になりたかった。」
「みなみはもう、人気者じゃない?」
「ちがう。私が思ってたのは、…こういうのじゃない。」
お互いに呼吸が乱れる中、発することができる精一杯の声を交わし合う。
私はゆっくり立ち上がると、みなみの方に近づいていた。
「ライブとか、楽しくない?」
「…楽しい。」
「みなみのこと、応援してくれるファンの人達も、いっぱいいるじゃん。」
片方の腕で力強く涙を拭きながら、大きく頷く。
「ファンの人達は、明るく楽しいみなみが好きなんだよ。」
FORTEのファンのほとんどには、お気に入りのメンバーがいる。
“推しメン”というのは、特に“推し”ているお気に入りの“メン”バーということ。
“みなみ推し”のファンは、タオルやハチマキなどのグッズを、全てみなみ仕様にしてライブに来てくれる。握手会へも頻繁に来てくれるような、自分推しのファンの人達とは顔見知りにもなる。ライブ会場でそういう顔を見つけたときは、サービスとして目線でアピールするのだが、それは単にファンのためということでは決してなかった。
大規模なライブは、何度やっても緊張するもの。そういう中で自分を応援してくれているいつものファンの人を見つけることは、ものすごく安心感につながった。そんなときほど自分が
彼らの姿を思い浮かべているように、少しの間があった。
直後にみなみはもう一度涙をあふれさせた。
しかし今度は希美に突っ伏すことなく、こちらを真っすぐに見つめている。
「みなみが辞めたら悲しむ人がたくさんいる。私だって、そうだよ。」
少したっても涙が治まることはなかった。けれど、高らかに泣き叫びながら「ごめんなさい」と繰り返す様子は、事実上の引退表明撤回とも見て取れた。
「私も、…奈緒のこと応援してる…! 明日は…、ちゃんとファンの人達の方を向いて…、 恥ずかしがったり、うつむいたりしちゃ、ダメなんだから!」
私は何度も強く頷いていた。
感情が可笑しなことになっている子の言葉と分かっていても、そんな風に面と向かって応援されることが嬉しかったから。
「私は…うまく話せなくたって、そんな奈緒が好き。奈緒のダンスが好き。笑った顔が好き。ファンの人だって同じだと思う。だから、……絶対センターになってね…」
馬場ちゃんはここぞとばかりに突っ込みを入れて、泣き止む様子のないみなみにじゃれついた。
「まだ決まったわけじゃねーぞ。」
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