第37話 1st ステージ
力強い日差しとベタつくTシャツ。
心地良くはない感覚が、あの頃の夏を思い出させる。
2年前というのはそれほど前のことではないはずなのに、ずいぶんと昔のことのように感じる。太陽の力に圧倒され、重くなった頭をしな垂らしていたあの日から、全ては始まっていた。
どうしてあのとき断らなかったのだろうと、ずっと考えている。
馬場ちゃんの言った、「何のためにアイドルをやってるのか」ということ。
あまりにも毎日が詰め込まれ過ぎていて、自分のことを考えている暇がなかった。一日中家の中で自分のことばかり考えていた頃の私には、将来こんな風になっているなんて想像もできなかっただろう。
あの時の私には、外に出る理由がなかった。
良いことなんてほとんどない。だから学校に行くのもやめてしまった。
でも今思うと、“つまらないから”、“意味がないから”という理由は、ただの強がりだったのかもしれない。ぼんやりと浮かぶあの頃の私を遠目で見ながら、ふと思う。本当は怖かっただけなのかもしれない、と。
嫌な気持ちになるのが嫌で、全てから逃げていた。そうすることで、本当にやりたかったことをやるチャンスまでも捨ててしまっていたことが、今ならわかる。だって、自分の人生を変える素敵な友達に出会えたのは、紛れもなく“学校に行ったから”だったのだから。
あの高橋奈緒が数年後にこうなっているなんて、誰が予想できただろう。どれもこれも、私の世界が変化していったのは彼女に会ってからのことだ。あの子のせいで何もかもが変わってしまった。あの子のおかげで、私は今ここにいる。
楽しいと感じたのは美鈴がいたからだった。
悔しいと感じたのはFORTEに入ることができたからだった。
前向きな感情も、そうでない感情も、美鈴がいなければ感じることはできなかったかもしれない。
言葉の意味はたいてい、別の言葉におきかえて教えられる。難しい言葉はきまって、実感のない言葉ばかりだから頭に入りづらい。
その言葉を初めて知ったのは小学生くらいだっただろうか。聞いたときはとても簡単な意味だと思ったが、今まではそれが本当に意味するところを知らなかっただけだったのだ。きっと、今私の中にあるような気持ちのことをそう呼ぶのだろうから。
先生、話が違うじゃない。
“感謝”という言葉の意味を、「ありがとう」と説明した学校の先生の顔が思い浮かぶ。でもそれはきっとそんなものじゃない。だってこの気持ちは少なくとも「ありがとう」に詰め込み尽くせないものだから。
美鈴が私の教師だった。だからこそ学校に行くのも、アイドルになるのも、全ては彼女のためだったのかもしれないとも思えた。
じゃあ、今の私は一体何なのだろう。
美鈴が今でも私のことを見ているかどうかなんて分からない。全部が全部彼女のためだったのなら、今すぐにでもやめてしまったっていいはずだ。
でもそうしていない自分が、確かにここにいる。
“負けたくない”と、初めてそう感じさせてくれたのは馬場ちゃんであり、FORTEのメンバーだった。
私はまだまだ他のメンバーには敵わないけれど、このままずっと端っこに居続けたいわけじゃない。心の中の深い奥の方に沈んでいた気持ちが、今になってさらに強く主張し始めているのをひしひしと感じる。
それが答えだった。今は、美鈴のためなんかじゃなかった。
私が、自分でやりたいと思ってアイドルをやってるんだ。
あの日強かった太陽は、今日も同じように勇ましい。太陽は変わらなくても、私の顔はしっかりと前を向いている。今の私は、それに屈してなどいない。
涼しい室内にはクーラーがよくきいていた。窓の外の息苦しい暑さが嘘のようで、ホールの中では時間さえもスムーズに淡々と過ぎていくように感じる。
「誰が正しくて誰が間違ってるかじゃない。今、ファンの人達が応援したいのは誰か。」
ライブ前には円陣を組んで、それぞれの抱負を口にする。今日はいつもより、4人分だけ大きな円。馬場ちゃんは最後に、恨みっこなしよ、と続けた。
「…あっぷっぷ!!」
ふざけた顔に皆が笑い、気持ちの悪い緊張が少しだけ緩む。
やっぱり、この子には敵わない。
でも、だからこそ、馬場ちゃんがそこにいてくれるからこそ、自分もそこへ追いつきたいと思えるのだった。
私だって2年間、何もしてこなかったわけじゃない。自分の人生で最も力を注ぎ込んだのがこの2年間であることは、紛れもない事実だ。
みんなの表情が緩む中、自分の目もとにぐっと力が入る。それを感じるのと同時に、ニコッと笑う馬場ちゃんの姿が目に入った。彼女の目はしっかりとこちらを向いていた。
一日目『1stステージ』前半のグループライブは、全10曲を披露した。誰か一人に目立つということがないように、それぞれ1曲は自分を中心としたパフォーマンスができる。ここまではあくまでお客さん向けのパフォーマンス。最後の投票においてそれほど大きな差がつくとは思えなかった。
しかしそれにしても屋内のホールは、いつにも増して凄まじく音が反響する。楽曲とコールが連鎖するような曲は特に、通常の盛り上がりの数倍、会場が轟音に包まれていた。
馬場ちゃんのおかげもあり、思いのほか和やかに前半を終えることができたが、後半のソロパートに向けて少しずつ、再びあの空気が汗ばんだステージ裏に広がり始めている。
今回ばかりは誰も余計な声をかけることはない。それがどんな言葉だったとしても、その場では攻撃と受け取られかねないと、おそらくこの場の誰もが思っていた。
ステージ上に流れているVTRが客席を盛り上げ、鮮明だった映像がゆっくりと薄らいでいく。一瞬の暗闇をもって、ステージ上の一か所にスポットライトが当たった。それがS・O・S、事実上の本番の始まりであった。
“事実上の本番”であるソロパートは、ざわめきから始まった。
裏に控えているメンバー達は、ステージの様子が映し出されるモニターを見ないようにしていたが、それを耳にして無意識に目をやってしまう。
ステージ中央に、ピアノが一つだけ佇んでいた。
小柄で可憐な少女が、すでにその傍らにちょこんと腰を掛けている。
ざわめきの後の会場は、打って変わって静まりつつある。まるでピアノとその少女が、そうするようにとはっきりお願いしたかのように。
もはやそれはアイドルライブの光景ではなく、クラシックコンサートでも始まるかのような空気感だった。
水を打ったような静寂の中、初めて聞こえた音は楽器の音ではなく、それよりもはるかに透き通った少女の声だ。
息をのむ音が聞こえた。
月島凛は、自らの歌声だけで観客を一瞬で魅了してしまった。
隣のピアノがただの飾りのように見えてしまう。しかしそれが決してそうではないということを、数秒後の歓声が証明した。止めていた呼吸をようやくし始めるように、感嘆の声が響き渡った。
“歌唱審査”が課されたソロパート。彼女が用意してきたのはただの歌唱ではなく、弾き語りだった。
確かに歌唱審査としか聞かされておらず、明確な条件は定められていない。使用する楽曲や音源を聞かれただけで、他のメンバーはそれに合わせて歌うことくらいしか考えていなかっただろう。
あくまで歌での審査。そうした思い込みを覆すようなパフォーマンスに、誰もが言葉を失った。それと同時に思い知らされる。私達は歌手である前に、アイドルなのだと。
こうした発想力や行動力は、今のFORTEには全くないものだった。天使のような歌声と、それに見合ったピアノの音は、何一つ乱れることなく美しく終わりを迎えた。椅子を降りてお辞儀をする少女の瞳は、キラキラと輝いていた。
その後の歓喜は言うまでもなく、“これがもっと長い時間続けばいいのに”という感情さえも、モニター越しにこちらまで伝わってくる。完璧なソロライブだった。
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