第35話 みちしるべ

 新しく入ってくるメンバー達に悪いところなど一つもなかった。

 頭ではそのことが痛いほど分かっているのに、自分達が必死に築いてきたこの場所に、そうではない人達が途中から入ってくることに良い気持ちはしなかった。

 もちろん彼女たちがここまで頑張ってきたことは知っている。日の目を見なかった分、私達よりも苦しい思いをしてきたかもしれない。けれど私たちは私たちなりに、地道に作り上げてきたものがあった。

 辛さと苦しさと悔しさと、時々あった楽しさや嬉しさと。他とは比べ物にならないほど思い入れのある積み重ねの途中に、土足で踏み入れられてしまうかのような感覚を、なかったものにすることなどできなかった。


 負けたくない。

 勝って、FORTEを守りたい。


 珍しく湧いた強い感情は、ただ新メンバーに向けられたものというわけではなく、今まで人知れず積もり積もっていたものが一気に爆発してしまったようだった。


 馬場ちゃんはいまやFORTEの顔として、毎日いろいろな現場を飛び回っている。

 結衣は結衣で、大手ファッション雑誌の専属モデルだ。

 真由も同様、モデル活動の傍ら、映画の出演をきっかけに女優のお仕事も少しずつ来るようになった。

 みなみはその天真爛漫なキャラクターが受け、バラエティ番組から引っ張りだこに。

 希美は特にテレビ番組のスタッフから多大な信頼を寄せられていて、情報番組などにも幅広く出演し、すっかりお茶の間にも知られつつあった。


 それと比べて私は…


 寝る前にはいつも同じことを考え込んでしまう。

 おかしなことにFORTEが活躍するにしたがって、寝つきはどんどん悪くなっていった。

 考えても考えても、それ以上考え込んでしまうようなことしか思い浮かんでこないので、余計に寝付けなくなる。


“ああ、こんなんじゃダメだ。”


 馬場ちゃんのようには強くないし、結衣や真由のような容姿も持ってない。かといってみなみや希美のように、人に愛されるような特徴があるわけでもない。


“じゃあどうすればいいの。”


 そんなことを考えているうちに、ベッドの中で1時間以上経ってしまう。


“ああ…もうこんな時間。寝不足の顔なんて、もっと最悪なのに。”


 ダメだから悩むのに、悩むから眠れず、眠れないからもっとダメになる。

 ほんとに、ダメなことばっかり。




 だからこそFORTEのためだけじゃなく、私自身のためにも、今回の勝負には負けられなかったのだ。

“負けたくない”という確かな気持ちを初めて持ったのは、デビュー曲のときだった。

 馬場ちゃんが、初めてセンターになった時。

 自分と同じ立場だった子が、はるか遠く手の届かないところへ行ってしまった、あの時。

 あれからあまりにも離れている時間が長かったから、彼女に負けまいとする気持ちも、いつの間にか忘れてしまっていたのかもしれない。


“私も、FORTEのメンバーなんだ。”


 良くも悪くも今回のことがきっかけで、手放しかけていた何かをもう一度手に取ろうとしている自分がいた。

 でもそこに手を伸ばそうとすることは、それ相応の苦しみを伴うものでもあった。


 技術は磨いてきたつもりだった。

 歌も、ダンスも、自分なりに成長できているはずだった。

 それでも他のメンバーと比べて、明らかに活動が少ない。

 どうしてだろう。

 何が、メンバーと違うのだろう。


 勝負の時間が近づくにつれて、一人で部屋にうずくまる時間が長くなった。

 一緒に悩んでくれるお気に入りのクッションには、毎日のように涙の跡がついた。




「もしもし?」


 かけてみたはいいが、何を話していいのか分からず、しばらく無言のままだった。


「もしもーし?奈緒?」


「…あ、ごめん。」


「なに、どうしたの?電話なんて珍しい。」


 久しぶりに聞く母の声は、記憶の中のものよりも明るく聞こえた。


「そっち行ってから全然帰ってこないし。元気?」


「うん。元気だよ。」


 何をどうやって話したらいいのか、分からなかった。

 自分が人見知りなのは知っていたが、まさか久しぶりに話す実の母に人見知りするとは思わなかった。


「何かあった?」


 母の子育ては昔からいわゆる放任主義だった。否定されたことはほとんどなく、だからこそ学校に行かない時間も長くあったともいえる。このお仕事をするようになってからも、それは変わらなかった。


「ううん。何にも。」


 だけど、母はいつも私の異変にすぐ気付いた。今思えばあれは単なる放ったらかしなどではなく、静かに見守っていてくれていたのだろう。

 だからこそ、母があの配信動画のことを知らないはずがなかった。


「そう? ならいいんだけど。」


 母が知っていることは分かっている。母も、私がそれを分かっていることに感づいていただろう。それでもどちらからも触れようとしなかったのは、お互いにお互いを理解しつくしていたということなのかもしれない。


「あ、そういえば最近ね、お母さんヨガ始めたの。」


 明るい口調は変わらずに、思い出したように母は話を始めた。

 もともと体を動かすのが好きな人だったので、家にはフィットネス器具が揃っていた。どれも長くは続かないのだけど、いつも何かしらやっているからなのか、年齢のわりにスタイルは良い。

 家にいたときからそうだったが、二人でいるときはほとんど母が喋った。私は相づち程度に返事をするだけだったが、そんな時間が私は嫌いじゃなかった。

 何気なく始まった取り留めのない母の話に、あの日の光景が思い出されて、少しだけ気持ちが和んだ。


「それでね、先生が正しいポーズだからっていうから、“えいやっ”ってちょっと頑張ったんだけど、それで腰を痛めちゃってさ。今はちょっと休憩中なの。」


「からだ、気を付けなきゃ。もう年なんだから。」


「何?」


「年なんだから。」


「年じゃねーよ。」


「いくつよ。」


「アラフォー。」


「とっくに超えてるでしょ。」


「アラウンドフォーティー。」


 ちょっとずつ、心が軽くなっていくような気がした。こういう何でもないような会話を、そういえば最近していなかったな、と思う。


「奈緒ももう二十歳だもんね。そりゃ年取るわけだよ。あー、ヤダヤダ。」


「そうだよ。もう大人なんだから、子ども扱いしないでよ?」


 受話器が一瞬遠くなったのか、ふふ、と笑った声が小さく聞こえた。


「もう遅くなるから切るけど、」


「うん。」


「またなんかあったら連絡してね。」


 最初よりも落ち着いた声のトーンは、記憶の中のものと同じだった。


「…あ、あのさあ、」


「ん?」


「お母さんは悩むこととか、ある?」


 それまでとは違い、少しだけ間があるように感じた。


「当たり前じゃん。仕事の話?」


「いや、それだけじゃないけど。」


「まさか、…恋?」


「恋愛禁止。」


 はは、という笑いの後に、明るい声が続いた。


「いろいろ考えちゃってるんだ?」


「うん。」


「お母さんもそうよ。」


「お母さんも?」


「そう。ヨガやりたくて始めたのに腰痛めちゃったでしょ。体動かしたくてヨガ始めたのに、体を動かしちゃいけない状態になっちゃうなんてさ。もうどうしたらいいのか分からないのよ。」


「…電話切るね。おやす…」


「あ!待って!ふざけてないから!」


「もう大丈夫。体に気をつ…」


「ちがうちがう!そうじゃなくて!ヨガも最初はアドバイスもらって始めるようになってね、」


「アドバイス?」


「そう。職場でやってた人から聞いて始めたの。今だって、こんな状態でもできる運動とか、いろいろ教えてもらってるよ。」


「アドバイスを聞けってこと?」


「というより、自分だけで考えてても限界があるでしょ。だから迷ったときは、よく知ってる人から聞くのが一番。」


「自分よりすごい人に教えてもらう…」


「うーん。そうじゃなくて、」


 張り上げた声に息切れしつつあった呼吸を、一度落ち着ける。


「全部自分で抱え込む必要なんてないんじゃないかなー、って思う。」


 黙って母の言葉を咀嚼している。母はそんな私を見ているように、ゆっくりと話を進める。


「お母さんだって、どうしようもなくなったら周りの人に頼るもん。自分のことだからって、全部分かってると思ったら大間違いでね。もちろん仕事じゃなくたってそう。」


 ちゃんと聞いているかを確認するように、ところどころで間を取ってくれる。


「頼りにされて嫌な気持ちがする人なんていないんだから。」


 母親という生き物はずるいと思う。

 こんなに自分のことを見透かす人は、おそらくいない。

 自然と私の胸には、例のクッションが強く抱きしめられていた。


「母からは以上ですが。」


 電話越しでも優しげな眼差しを感じる。

“頼ってほしい誰か”については、一度も言葉にはしなかった。


「ありがと。」


「はい、じゃあね。」


「うん。」


 母の別れ際のあいさつは、いつもあっさりとしている。冷たさを感じていたそれに温かさを感じられるようになったのは、わりと最近になってからのことだった。

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