第31話 桧山さん
ああ、そうだったな、と在りし日を思い出す。
働くということはこういうことでもあった。
ただ何かの役に立つことができ、それを実感することができる。それだけではない。
同じ場所で働く人間との交錯が、“働く”にはつきものであった。
綺麗に染まった赤茶色の髪の毛は、暗くなった夜道であっても、かすかな光が当たるだけで輝く。その明るさが目にちらついてチカチカした。
ハリが無くなり、少しだけ量が気になり始めた自分の頭を思うと、どこかうらやましくもあり、妬ましくもあった。
赤茶色の光は全く後ろを振り返らない。一方的に話しながら、ずんずん前に進んでいく。
「ここでいい?」
「あ、はい。」
そう尋ねつつも、彼はすでに扉を開け、店の中に入っている。
チェーン店の居酒屋だった。オレンジ色の照明がやけに明るく、目を細める。注文を受ける女性の元気な声と、それに答えるさらに大きな声が、飛び交い合っている。
思えばこういう場所には長いこと来ていなかった。前に来たときはずいぶんと前になるが、そんな声の掛け合いがやかましくてたまらなかったのを覚えている。ただ数年のうちに声のかけ方でも変わったのか、不思議と今日は嫌な気持ちがせず、むしろ微笑ましくも思えた。
「普段、結構飲むの?」
空いている隣のテーブルからメニューを一つ取り、私の前に広げた。
「いえ、まったく飲めなくて。」
「あ、そう。じゃあどんどん食べてよ。今日はおごる。」
「いや、そういうわけには」
「なに遠慮してんの。もらってるもんも違うんだからさ。」
親指と人差し指で輪っかを作りながら、不敵な笑みを浮かべた。
今の若い人は他人に興味が薄いというが、それはそれで悪くないこともある。酒が飲めないと言って変にリアクションを取られないで済むし、無理やり飲まされる心配もどうやらなさそうだ。
無関心な若者を未熟者とする傾向が私にもあったが、よく考えれば、押しつけがましい中年の方が成熟しているといえる理由などどこにもなかった。
「はい、じゃあおつかれー!」
ビールの相手はウーロン茶でも、グラスの音は心地よく響く。冷たい液体が体にしみわたってくるような感覚に、最近病みつきになっている。
「ところで新井さんって、いくつなの?」
「四十五です。」
「マジで?めっちゃ年上!」
大きくのけぞる姿を見ると、リアクションが悪いわけでは決してなかったのだと思いなおす。
「桧山さんは、おいくつなんですか?」
「ハタチ。」
こっちがのけぞる番だった。自然に居酒屋に入ってしまったが、こうして飲酒できるようになったのは最近ではないか。
一緒に働いていると、年齢というものは全く分からない。年下の先輩という認識はもちろんあったが、親子ほども離れているという感覚はなかった。驚きは、こちらの方がはるかに大きい。
「はたち…」
「そ!でも酒は慣れてるから心配ないよ!」
意味するところは何となく分かっていたので、それ以上は突っ込まないことにした。
それにしても二十歳とは。
ぼんやりと桧山さんの顔を見ていると、何かに気づいたような表情になって言った。
「そうそう、奈緒と一緒だよ。」
「え?」
「あれ?高橋奈緒推しじゃなかった?」
当たり前のように発された名前に、驚いて何も返すことができなかった。
続けて何を言おうとしたわけでもない「いや」という言葉を、自然な流れで遮られる。
「まーそれはいいか。いやでも新井さんは若いよー。見た目だけじゃなくてさ。」
年齢の話が出たときから、彼が言わんとしていることが分かったつもりになっていた。
私はそれを先んずる形で口にする。そうした方がいくらかダメージは少なく済むと思った。
「やっぱり、この年でアイドルはおかしいですよね。」
「なんで?」
嫌味を感じない疑問符に、少しひるんだ。
「おじさんがアイドルとかはちょっと、あれ、ですよね。」
「関係ある?それ。」
この年齢でアイドルのSNSとかチェックしてるのはどうなんだ。てっきりそういう方向に進んでいくものだと思っていた。
しかし思惑とは違って、彼は今、ただ純粋に疑問に思っているようだ。
職場での彼を見ていると、私が得意とするタイプの人間ではないことは確かだった。思ったことをすぐに口にし、何より甲高い声とその音量までもが大きいところなどは特にそうだった。
けれども桧山さんは回りくどく嫌味を言うような人間ではない。というよりそういう術を持っていないように見えた。
つまり今の桧山さんも、思ったことをそのまま口にしている。
桧山さんはそもそも“おじさん”と“アイドル”の間にある違和感を、まったく持っていなかった。
「この前のライブだって、おじさんもおんなじようにはしゃいでたし」
FORTEの勢いは日に日に増し、ライブの規模も大きくなり始めている。2周年記念として、初めての大型ライブも企画されているそうだ。
「おばさんだっていたぜ。」
へへ、と高い声で笑った顔はすでに赤みを帯びている。もともとそれほど強くないのか、労働の後で浸みわたりやすくなっているのかは分からないが、気分よさそうに同じものをもう一杯頼んだ。
「新井さんは応援されるなら、おばさんより若い女の子がいいってこと?」
「いや、そういうことではなくて」
彼の体がぶつかったのか、机がガンッという音とともに一瞬浮いた。同時に聞こえた大きな笑い声が、机を浮かしたように見えた。
「はっは!嘘だー!絶対若い子の方がいいじゃん!」
あまりの上機嫌に、アルコールを取っていないはずのこちらにも酔いが移ってくる気がした。そのときばかりは自分も可笑しな声で笑ってしまった。
「応援される方からすればそうだろうなあ。でも応援するのに、年は関係ないんじゃねえの。」
私は毎日一緒に働いているこの人の年齢が、親子ほども離れているとは思いもしなかった。年齢なんて数字にならなければ分からないし、気にもしないものなのだと知った。
それほど年下である人間の、しかも酔いの回った口から発された言葉に、はるかに人生経験があるはずの“おじさん”が勇気づけられている。そういう事実こそが、彼の言葉に誤りがないことを証明していた。
「こんなんだけど、俺にだって夢っていうの? そういう感じのもあったわけよ。でもそれがどうやっても叶えられないって分かっちゃってからは、何のために生きてるのか分からなくなったよね。何にもする気が起きなかった。」
とはいえこの若者から出てくる言葉がどこかオヤジじみてしまっていて、おかしかった。
「ちょうどその時なんだよな。FORTEに出会ったのも。」
桧山さんがFORTEを知ったのは最近のことらしかったが、一番最初から追いかけ続けている自分よりも詳しい部分がたくさんあった。
先日のライブにも私は行けず、彼は行くことができた。
そんな彼の話を聞いているのは楽しい反面、手元にあったはずのものが少しずつ遠くへ離れていってしまうようで、少しだけ寂しさも感じた。
「どこに向かってくのか分からないと前に進みようがないじゃん?そんな感じだったんだよ。でもあのときから、それがFORTEになったんだよなあ。」
その目はすでに開いているのがやっとという様子で、それもすっかりオヤジを醸し出していた。
「何かに夢中になれるってのは、幸せなことだよな。」
レジまで粘ったが、桧山さんに無理やり押し切られる形になり、私は一円も支払わせてもらうことができなかった。
「すみません。ごちそうさまでした。」
「やめてよ、そういうのは。じゃ、また明日ね!」
「おつかれー」と手を振りながら去ろうとする桧山さんを見て、私はどうしても聞きたかったことを思い出した。
「あ、桧山さん。」
「ん?どした?」
その目はもうほとんど開いていないのに、私の呼びかけに、ちゃんと反応して振り向いてくれた。
「どうして応援してるのが、高橋奈緒だと思ったんですか?」
もうすでに閉じてしまったように見える目が、少しだけ開いた。
「違うの?絶対そうだと思ったんだけど。」
「いや、ただ何でそう思ったのかなって。」
「ああ」と言いながら、目がもとの細さに戻る。
「だいたい推しメンって、その人に似てんだよな。雰囲気が。」
「似て…、ますかね?」
例の甲高い声を上げながら、帰り道へと向きなおす。
もう一度だけ勢いよく振り返り、捨て台詞を吐いてから遠くの闇へと消えていった。
「そっっっくりだよ!!もっと喋れ。」
彼との距離が開くにつれて、徐々に自分だけの空間が戻ってくる。
周りの景色が少しずつ鮮明になり、音の一つずつを聞き取ることができるようになる。世界がゆっくりと広がっていくような感覚。
飲み屋街の喧騒はときに孤独を与えるが、この日はそれほど寂しくなかった。
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